『迷子たちの街』 パトリック・モディアノ
まずは二度読んでほしい。初読時に読み過ごしていた人名や住所、年月日といった、一見細々と感じられる記述に何度も立ちどまり、作者が行間から目くばせしているのに気づくはずだ。訳者は「訳者ノート」の中でうまい比喩を用いている。初めの読みは助手席から見た眺めで、二回目のそれは運転席からの視野だと。たしかに、ここかしこに謎の解明に至るヒントが忍ばせてあったことにあらためて驚かされる。その意味で、上出来のミステリといってもいい。
主人公はこの七月で39歳になる英国の小説家アンブローズ・ギーズ。イアン・フレミングの再来と評され、親しい作家にはアーウィン・ショーがいる、というから『夏服を着た女たち』以来のファンにはちょっとうれしい。版権についての契約のため日本からやってくるエージェントが待つパリを、二十年ぶりに訪れた作家は死んだようなパリの街の物陰から立ち現れる過去の亡霊たちに誘われるように、とうに葬り去ったとばかり思っていた過去への巡礼を思い立つ。
パリに住んでいた頃の名はジャン・デケール。二十歳のジャンはスキー場近くの山荘で有名な資産家の未亡人カルメンと出会う。大量の荷物をパリまで運ぶのを手伝ったことをきっかけに、カルメンの周りに群がる男女たちの仲間入りをすることに。引退した弁護士ロコワや元俳優のマイヨといった自分より年上の常連にまじり、得体の知れない連中とパリの夜を徘徊しては朝まで遊びまわる毎日。ロコワやマイヨはカルメンの亡夫ルシアンの取り巻きで、いまだに往時が忘れられず、毎夜カルメンの家に顔を出すのが習慣になっていた。
彼らの懐かしむ《ルシアンの時代》とは、第二次世界大戦の終わり頃。ホテル・チェーンの事業で華々しい成功を収めたルシアンだが、裏では闇の商売に関わっていたらしくロコワもマイヨもその関係者であった。モディアノの父には闇の仕事に従事した過去があり、他の作品でもこの時代に強く拘泥している。父に対する反撥と思慕という相反する感情がモディアノにはあって、この作品でもロコワはジャンを助け、将来を心配するなど、父の代わりを務めている。アンブローズがパリで書こうとしている自伝的小説(それがこの小説の後半部になっている)は、作家になることを勧めてくれた今は亡きロコワに読んでもらう手紙でもある。
フランス生まれのジャンが、なぜ二十年前突然パリから姿を消さねばならなかったのか。それが全篇を通して解明されるのを待つ謎である。ルシアンの事故死で事業は傾き、さしもの屋敷も物置同然。派手に遊ぶカルメンだったが、実態は残された家具や絵を売って生活を維持していた。ルシアンの時代を忘れらず過去にしがみついて退嬰的な生活を送るカルメンやロコワ。ジャンが彼らから離れられないのはカルメンが好きだったからだ。カルメンもまた若いジャンに初恋の人の面影を見ていた。そんな時に事件は起きた。
モディアノの世界では顔なじみの闇の仕事に携わる正体不明の男たち、美しい未亡人、倖薄い若い娘、競馬のジョッキーや馬丁、といった登場人物。まるで地図を片手に描いているようなパリ市内を走る大通りや坂道、マルヌ河岸、オート・サヴォワのスキー場など、他の作品の舞台となった地名も登場する。ファイルに残された人物に関する資料や電話帳といったお気に入りのアイテムにも不自由しない。モディアノ・ファンならニンマリしそうなモディアノ・ワールド。
ただ、後期モディアノの好きな読者に少し違和感があるとしたら、どこか薄ぼんやりと物寂しい風景や失われた自分のアイデンティティを捜し求める人物の焦燥感が醸し出す一連の持ち味とは一歩線を引く、ふんだんに供される色彩や音色の明るさかもしれない。二十代の自分を回想しているのがまだ三十代後半の男だからか、感情の発露がみずみずしく、いささか感傷的ですらある。『失われた時のカフェで』と同じ訳者の訳文は、原文の語り口を意識したのか、体言止めの多用や語句の配置を工夫した、散文詩的なスタイルで、こちらが馴れたのかもしれないが、前作より格段に読みやすくなっている。1984年の作品。ノーベル賞受賞以来、けっこうな数が翻訳されていると思ったモディアノだが、まだこんな傑作が残っていたとは。今後に期待が持てそうな展開である。