青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『火山のふもとで』 松家仁之

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これがデビュー作というから畏れ入る。編集者という経歴のなせるわざか、よく彫琢された上質の文章で綴られたきわめて完成度の高い長編小説である。

1982年、大学卒業を目前にした「ぼく」は、村井建築設計事務所に入所がきまる。所長の村井俊輔は戦前フランク・ロイド・ライトに師事した著名な建築家。事務所は夏になると、スタッフ全員で浅間山麓にある山荘「夏の家」に転地し、そこで合宿、仕事をするのが慣わしだった。今夏は特に参加を決めたばかりの日本現代図書館のコンペに向け、そのプランを練ることになっていた。建築設計のコンペという新鮮な題材を基軸に据え、季節によってうつろう北軽井沢の自然を背景に、若い「ぼく」の仕事と恋愛を描く。

仕事といっても入所したての主人公は、先生や先輩たちから学ぶことばかり。下界から高地へ転地した青年が、先人から教育を受けるという点で、トーマス・マンの『魔の山』に似た設定を持つ。登場する車がすべて外国車だったり、暖炉のある山荘に似合った食事のメニュだったり、ある種の富裕な階級を感じさせるあたりも共通する。

北軽井沢という避暑地を舞台に選んだ時点で、小説は日本とは異なるいわば異国情緒を漂わせることになる。長期にわたって本拠地を離れた山荘で過ごすことのできる人種とは、芸術家、大学教授、著述業といったハイブロウな人種に限られる。当然のように当時、下界で起きている出来事などは、小説の中から慎重に排除されている。会話のほとんどを建築や家具を中心とした審美的な話題が占めている。作中で「先生」は「建築は芸術ではない」と語っているが、そういう意味で、この小説はある種の芸術家小説の相貌を帯びざるを得ない。

いわゆる生活臭のようなものが徹底的に排除されているという点で、読者は醜いものや見たくないものから完全に隔離され、趣味のいい食事や車、音楽、暖炉の前で交わされる心地よい会話に囲まれ、知らぬ間に時を過ごしている。『魔の山』にいる間は時が止まっているように。

鉛筆やナイフといった小物からヴィンセント・ブラック・シャドウなどという旧車のバイクにいたるまで選び抜かれたブランド名が頻出する。カルヴァドスやグラッパなどのアルコールにしても詳しい者には愛飲する人物の個性を示す表象になるだろうが、その方面に不調法な者には鼻につくきらいもあろう。評価の分かれるところかもしれない。

主人公は二十四歳。事務所ではいちばんの新入りだ。その人物を話者に据えた一人称限定視点での語りで、日本語で文章を書けば、一般的には周囲の人物には敬語を使うことになる。呼称の場合、名前の後に「さん」がつくのが普通だ。ところが、自分より三歳年長者である先輩の雪子と先生の姪に当たる雪子と同い年の麻里子にだけは最初から地の文で呼び捨てになっている。回想視点で語られている以上、現在の主人公が過去を振り返っても、呼び捨てで語ることのできる関係に、この二人の女性はいるわけだ、とそんなことを読みながら考えていた。どこまでも神経の行き届いた書きぶりである。

そんな中でひとつだけ気になったことがある。全体を通して「ぼく」の一人称限定視点で語られているこの小説の中で、一箇所だけ麻里子でなければ知りえない感情を直接話法で書いた部分を見つけた。重要な場面だけに気になった。故意にだろうか。もしそうだとすれば、ロシアフォルマリスムでいう「異化」作用を意識した心憎い演出である。次回作に期待のできる新人の登場である。