青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ムーン・パレス』ポール・オースター

「それは人類がはじめて月を歩いた夏だった」という書き出しから、作品の舞台になっているのが1969年と分かる。主人公はボストン生まれのM・S・フォッグ。早くに母を亡くし伯父と暮らしていたが、四年前にコロンビア大学で学ぶためニュー・ヨークにやってきた。フォッグという聞き慣れない名から、映画化もされたジュール・ヴェルヌ作『八十日間世界一周』を思い出す読者もいるだろう。主人公の名がフィリアス・フォッグだった。

この小説を一口で言えば、60年代アメリカの世相を背景に、頭はいいが、内向的で現実社会に生きることに不向きな若者の愚行を描いた青春小説といえるだろう。自尊心と他者に頼りたくないという潔癖さから、金に不自由していることを誰にも知らせず、餓死一歩手前まで追い詰められてゆく主人公に感情移入するのは現在ではかなり難しかろう。60年代後半といえば、ヒッピー・ムーブメント盛んなりし頃で、あえてドロップ・アウトをめざす若者は少なくなかった。ただ、主人公はそんな時代風潮とは関係なく「そのころ僕はまだひどく若かったが、未来というものが自分にあるとは思えなかった。ぼくは危険な生き方をしてみたかった。とことん行けるところまで自分を追いつめていって、行きついた先で何が起きるか見てみたかった」という若さゆえの冒険心から、破滅的な生き方を選んだのだった。この主人公もまたオースター的キャラクターであることは疑いを入れない。

結果的には後に恋人になるキティという女の子によって救われるが、それは小説でいえば第一部に過ぎない。その後、自活のため主人公はトマス・エフィングという車椅子に乗った盲目の老人の世話をしつつ、死期が近づいた老人の依頼で、その数奇な人生を本にまとめる手伝いをする。トマスの秘められた過去の打ち明け話が物語内物語になっているところは、いつものオースター調であるが、それが単なる面白い挿話にとどまらないところがいつもとはちがっている。いわばそれがミッシング・リンクなのだ。

老人には、別れた妻との間に一人息子がいることがわかっている。自分の死後、何故故郷に帰らなかったかを記した今書きつつある本を息子に渡して欲しいと頼み、老人は死ぬ。数ヵ月後ソロモンという名の大学教授から返事が届き、主人公はホテルで老人の息子と対面する。ソロモンの語る半生記もまた、物語内物語となり、この不思議な物語の失われた環を繋ぐ働きをする。

ありえないような偶然に次ぐ偶然、死に瀕したあとには幸運が、親しい誰かの死後には遺産が舞い込むという、まるでディケンズかフィールディングの筆になるヴィクトリア朝英国小説のような展開には、いささか戸惑いを覚えるものの、そこはオースター。最後は、現代アメリカ小説らしい結末を用意している。東海岸から始まった旅は、ユタを過ぎ、最後は西海岸に至る。この、ひたすら西へ西へと進もうとするトマス、ソロモン、マーコ三代の極私的な旅程にアメリカの歴史がオーバー・ラップされているのを見逃してはいけない。

ムーン・パレスというのは、主人公の部屋から見える中国料理店の名である。そこで主人公が引いたおみくじクッキーには「太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である」という謎めいた文句が書いてあった。主人公は何の気なしに財布の底にしまうが、後にそれが、トマスの生まれたショーラムにある、あのテスラ・タワーで知られるテスラの残した言葉だと分かる。主人公、トマス老人、それにソロモン、この三人を繋ぐのが月である。ルナは、月の女神であり月を指すが、ルナティックという言葉には精神を病むという意味合いがある。何度も言及されるシラノ・ド・ベルジュラックが象徴するように優れた才能を持ちながら、この地球ではなく月に憑かれた男たちの人生を描いた、オースターには珍しい、語の真の意味でいうところの「コメディ」である。