青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『最後の物たちの国で』ポール・オースター

1900年代初頭に売り出されたピアス・アローを「黒塗りの半世紀前の自動車」と主人公が手紙に書いていることからみても、この話が近未来を舞台にしたSF小説ではないことが分かる。たしかに設定はどこまでも極端で、食料は勿論のこと、生活していく上での様々な物資や施設、設備、機構が失われた都市国家では、人は死んでいくばかりで、もはや生まれてくる者はいない。

主人公アンナ・ブルームはユダヤ人。消息を絶った兄を探すために、周囲の反対を押し切って、ただ一人船に乗って、この国を訪れたのだ。そこへ行けば消息が分かると教えられた建物はおろか街区全部が疫病の蔓延を防ぐという理由で焼き尽くされていては手がかりはないのも同然だった。その街はたびたび交替する政府はあっても無きがごとき無政府状態に置かれていて、略奪は日常茶飯、エネルギーは屎尿から出るメタン・ガス、物品は再生され流通するものの新しく製造されることはない。日一日と物はなくなり、消えていく街では、死体すら燃やされ、エネルギーとなっていた。この国家がよくあるディストピア物のように、為政者たちや革命グループといった所謂上から目線ではなく、路上に生きるホームレス生活者となった主人公の視点から詳細に描き出されていく。この著者の筆にかかると、一日のうちに降った雪が解けて路上に溢れ波のようにうねった形でまた凍るという気候を含め、穴ぼこだらけの街路を資源になるごみを探してカートをひっぱって歩く人々の姿が奇妙なリアリティをもって迫ってくるのが不思議だ。

絶望的な状態とも見える日々の裡にあっても、人は憎んだり殺しあったりするばかりでなく、愛し合い、人との関係を求めるものらしい。助けた老女に助けられ、住む家を得て、少しずつアンナはこの街での生活に馴染んでゆく。ふと飛び込んだ国立図書館の一室で兄を知る青年と出会いともに暮らし始めるのだったが、裏切りに出会い命を失いかける。この小説は、青いノートに記された、故国に住むかつての恋人宛に書かれたアンナの手紙である。

例によって、限りなくゼロに近づいてゆく世界を描いている点で、まちがいなくオースター的世界が現出する。しかし、今回は男性でなく、女性が視点人物となっている点が目新しい。女性から見た女性、或は女性から見た男性という視点で描かれる人物描写が新鮮で、また魅力的な人物に事欠かない。図書館で出会うユダヤ教のラビやウォーバン・ハウスに食料その他の調達を担当するボリス・ステパノヴィッチなど。

作者は、1970年代どこからともなく自分に語りかける声を聞き、「聞き書き」のようにしてこの小説を書いたと語る。この小説を近未来小説とみられることを厭い、これらは20世紀の現実社会から想を得ているとも語っている。たしかに、海をひとつ隔てたら、現在も世界のどこかの国で日々の食料に事欠き、満足に眠ることもできない人々がいくらでもいることを我々は知っている。知ってはいるが、我々はそれを見ようとしない。見てしまえば、それは確かに存在し、存在する以上、捨てても置けない。それは実に厄介なことであり、自分ひとりにできることは限られていて、何かをしようと思えば、その無力さの前に絶望的な思いをしなければならない。だから、我々はそれらを見ない。見なければないものとしておけるから。毎日その世界からは何かが消えてゆく。しかし、アンナは生きている。我々が見ようとしない世界の中で。もしかしたら、その国とは私たちの隣の国かもしれない。作家は、目を開けて世界をしっかり見なさいと読者に言いはしない。作家にできることはメッセージを発することではない。それは、言葉によって「世界」を残すことである。絶望的な世界を描きながら不思議に明るい眺望を与えてくれる稀有な小説である。