青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ 雨沢 泰 訳

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コロナ禍で、多くの人がパンデミック小説の存在に気づいたらしく、カミュの『ペスト』が話題となったが、この小説も二十年ぶりに文庫化され、重版もかかったようだ。未知の感染症の恐怖を描いたものだが、死に至る病ではない。他にどこも悪くならず、目だけが見えなくなる。それも真っ暗な闇に閉ざされるのではなく、ミルク色の海に落ちたように白の闇に閉じ込められるのだ。

登場人物は固有名を持たない。「黒い眼帯の男」や「サングラスの娘」というふうに外見によって区別するか、「医者の妻」のように職業や続柄で呼ばれることになる。当然、舞台となる町も国もどこかは分からない。一口にいえば寓話である。埴谷雄高は小説『死霊』のことを「思考実験」ならぬ「妄想実験」と評しているが、サラマーゴのこれもその試みの一つと言える。「もしわれわれが全員失明したらどうなる?」という「妄想実験」である。

三車線の道路の真ん中で信号待ちをしていた一台の車が、信号が青に変わったのに動き出さない。ガラスの向こうで、男が何か言っている姿が見える。後ろの車から出た人がドアを開けると男が「目が見えない」と言っていたことが分かる。一人の男が失明した男の代わりに車の運転を申し出て、失明した男を家まで送り届けてやる。失明した男の妻が帰宅し、夫は妻に連れられ、眼科を受診する。待合室には黒い眼帯の男やサングラスの娘、斜視の少年がいた。しばらくして、この人たちは医者も含めて全員目が見えなくなる。

男の目には何ら異常がなかった。それなのに自分も同じ症状になった医者は未知の感染症を疑い、政府に連絡を取る。政府のしたことは、感染者と感染が疑われる者を精神病院に隔離することだった。まず当の医者が収容される。夫の身を案じた医者の妻は自分も目が見えないと偽って同行する。その後続々と失明した人々が運ばれてくるが、医師や看護師は配置しない。感染者と感染が疑われる者だけが別々の棟に監禁放置されるのだ。隔離病棟は軍の監視下に置かれ、命令に反するものは射殺するという放送がある。酷い話だ。

失明した者ばかりを病棟に収容したら何が起きるか。サラマーゴ の皮肉が炸裂する。トイレの在り処が分からず、仕方なく廊下で用を足す者が続出する。これこそ糞リアリズム。どうせ誰も見ている者はいないのだ。ミシェル・フーコーは一望監視システム(パノプティコン)の発明が少人数で多くの人間を監視することを可能にし、ディシプリン(規律)の強制という権力を生んだというが、監視者のいない監獄に規律は存在しない。人から羞恥心が消え、本能や欲望が剥き出しになる。平常ならあり得ないことも起きる。

精神病院の中に暴力的なグループが生まれ、バリケードで部屋を占拠し、コンテナで届く食料を独占、欲しかったら金品を出せと脅す。医者は真摯に立ち向かおうとするが、相手は聞く耳を持たない。武装集団相手に口で平等や正義を説く医者の姿は非常時における知識人の無力をさらけ出していて哀れですらある。要求は次第にエスカレートし、遂には食料がほしければ女を差し出せというまでになる。闘えないなら逃げるのも手だが、逃げたくても外には銃を持つ兵士が待っている。パニックを起こして逃げ出した者は既に射殺されていた。

追いつめられた極限状態のなか、人は人間としてどう生きるのか。他人を犠牲にしてまで生きることに価値があるのか。何をしてでも生きることが大事なのか。話し合いで解決できるような問題ではない。絶望的な状況下で、それまで隠されていた、その人の真の姿が立ち現れてくる。男は頼りにならない。最後は女が立ち上がる。それまでも人々のためにできることはすべてやってきた医者の妻だ。没義道な集団に立ち向かう医者の妻は、ドラクロワ描く「民衆を導く自由の女神」を彷彿させる。

前半は閉鎖された空間のなかで、圧倒的な暴力に支配されながら、どう生きのびるかという、絶望的な問いのせいで、読者もまた登場人物と共に自分の生き方、勇気、正義感を問われる内容となっている。そのため、かなり読んでいてつらくなる。途中で本を投げ出したくなるが、そうはさせないだけの迫力がこの小説にはある。救いというもののない長丁場を持ちこたえると、圧倒的なバイオレンスが待っている。散々虐げられてきた者たちによる暴力は、かえって開放感すら感じる。

外に出ても誰も撃ってはこなかった。兵士はいなくなっていたのだ。医者の妻は夫の医者と同室の男女を引き連れ、我が家を目指す。町はディストピアと化していた。突然視力を奪われた人々には都市機能を維持することができなかった。電気、ガス、水道は止まり、交通手段は絶たれて、至る所で死骸が放置され、野犬の餌食となり、人々は群れをなし、食料品を求めて店を襲う、地獄のような光景が待っていた。もっとも、それを目にすることができたのは医者の妻ただ一人だったが。

家に帰り着き一息ついたあとの、雨のシーンが感動的だ。不衛生極まりない場所に閉じ込められ、体を洗うことができなかった女たちはバルコニ-に出て裸になり、降りしきる雨で体を洗う。はしゃぎながら体を洗い合う三人の女はまるで三美神。世界はまだ混迷の中にあるが、ひとまず一つ屋根の下に集えたことの歓びに溢れている。ただの水浴びがこれほどまでに美しく楽しく歓ばしいことを誰が知っていただろう。医者の妻は最後に夫に言う。

「わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ。目が見えないのに見ていると? 目が見える、目の見えない人びと。でも、見ていない」

原題は<Ensaio sobre a Cegueira(失明に関するエッセイ)>。『白の闇』という邦題は矛盾した語を並べる、修辞法でいうオクシモロン。これは、医者の妻の「目が見える、目の見えない人びと」という言葉の言い換えだ。アレゴリカルで、いかにもサラマーゴらしい。医者の妻は、敢えて渦中に飛び込むことで新生した。翻って、私たちはどうか? 世界中がパンデミックに襲われている今、私たちの目は、果たして見えていると言えるのだろうか?