青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『偶然の音楽』ポール・オースター

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「まる一年のあいだ、彼はひたすら車を走らせ、アメリカじゅうを行ったり来たりしながら金がなくなるのを待った。こんな暮らしがここまで長く続くとは思っていなかったが、次々にいろんなことがあって、自分に何が起きているのかが見えてきたころには、もうそれを終わらせたいと思う地点を越えてしまっていた。十三か月目に入って三日目、ナッシュはジャックポットと名のる若者に出会った。(略)だから、彼はこの見知らぬ若者をひとつの猶予として見た。手遅れになる前に自分を何とかするための最後のチャンスとして捉えた。」(『偶然の音楽』書き出し)

「結果的に、僕は破滅の一歩手前まで行った。持ち金は少しずつゼロに近づいていった。アパートも追い出され、路頭で暮らすことになった。もし、キティ・ウーという名の女の子がいなかったら、たぶん僕は餓死していただろう。その少し前にキティと出会ったのはほんの偶然からだったが、僕はやがてその偶然を一種の中継地点と考えるようになった。それを契機に、他人の心を通して自分を救う道が開けたのだ、と。」(『ムーン・パレス』書き出しの一部)

一人の作家の近作と、その前作の冒頭を比較してみた。このあまりに酷似した書き出しは、どうだろう。一作の序文にも相当する書き出しをかくも似通ったスタイルで書き始めてしまう作家がかつていただろうか。使い回しのシチュエーションは、またしても遺産だ。思いがけず手にした金を消尽させるという衝動に身を任せた男が偶然の機会を巧みに捉えて、新しい世界を生き始めるというものだ。オースターの主人公は、動機がどうであれ、自分で始めたことを自分で始末をつけることができない。このまま放っておいたら僕は自滅してしまうよ。誰か来て、と手放しで助けを呼んでいる幼児のようだ。もし偶然の機会に恵まれなかったら、そこで身を滅ぼしてしまうことも受け容れるだろうが、話を続けるためには、救い主が現れるしかない。かくして毎回よく似た主題による変奏曲が繰りかえされることになる。

同一主題による変奏に執している作家にいつも同じ主題じゃないか、という批判はばかげている。問題は主題にあるのではない。繰り返しの中にある差異にこそあるのだ。そういう意味では、前回のそれがヴィクトリア朝英国小説風であったとすれば、今回のそれはカフカ風不条理劇の趣きが漂う。

父の遺産を手に入れたころには妻に逃げられ、一人娘は義兄の家に預けてしまっていた。今更連れて帰ることもできず、ナッシュは新車の赤いサーブを駆って、アメリカじゅうを放浪する。車を走らせている時だけは幸福でいられたのだ。ジャックはギャンブラーだった。金持ちのカモに招待されているが、手持ちの金を盗まれてしまったと悔やむ青年に、出資するから一口乗せろと提案するナッシュ。二人は、宝くじで当てた二人組みの金持ちの館に車で向かう。しかし、そこで二人が出会うことになるのは、博打の借金のかたとして、一万個の石で壁を作るという作業だった。

ローレル&ハーディに喩えられる成金長者は、実に現実味を欠いた存在として描かれている。ハリウッド映画のセットじみた邸宅には、二人の趣味の部屋があり、ひとつには、製作途中の都市の模型があり、もう一部屋には有名人が一時使ったガラクタが所狭しと展示されていた。さらに庭の向こうにはアイルランドの城砦を崩して運んだ一万個の石の山が聳えていた。車まで賭けた勝負に負けた二人は、移動手段も資金もなくし、石壁造りで支払う契約を取り交わす。

自分の権力が掌握する世界の縮図として創られつつある都市の模型には、そこで暮らす人間たちも配置されていた。ナッシュは、内緒で金持ち二人の人形を取り外し、ポケットに入れて持ち出すが、後でそのことを知ったジャックは異様に恐れる。ナッシュは人形を燃やすことで何の力もないことを分からそうとするのだが、それ以来、二人は姿を見せなくなる。

五十日で完済されるはずだった借金は、必要経費が差引かれ、期日が来ても払い終わらない仕組みになっていた。石壁造りに自分なりの意味を見出していたナッシュとちがい、ジャックは耐えられず逃亡を企てる。契約が果たされるのを信じて苦役に耐えても、いつも何か障碍があらわれて、それを邪魔する。金網と鉄条網によって囲まれた閉鎖空間の中で、手押し車で石を運ぶしかない囚人のような毎日。傍には一日中、銃を持った監視人が見張っている。契約は果たして果たされる時が来るのだろうか。

オースター作品には珍しく、謎解きも辻褄合わせも一切なし。解釈はご自由に、という決着のつけ方。たしかに、こういう終わり方もあるだろうとは思いつつ、いまひとつ納得いかない気分が残るのも事実。まるでしりとり遊びのように、いつも何かしら前作に出ていた人物や書物が再登場するのがきまりになっているオースターの作品。前作では『最後の物たちの 国で』のヒロイン、アンナ・ブルームの名が囁かれていたが、今回はクープラン作『奇妙(神秘)な障壁』の一曲が響いている。ナッシュの造った石壁を想像しながら聴いてみた。なかなか味わいある小品であった。