『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ
ふつう小説を読むとき、読者はその小説を書いた作者や、語り手(話者)のことを意識せず、作品世界のなかに入ってゆく。まれに19世紀の小説などで、作者が語り手の口跡を借りて直接読者に語りかけることもあるが、それとて、すぐに背後に退き、小説世界はそれまでと同じ次元にとどまってゆるがない。作者や語り手は信用できる存在であるから、読者はその言葉を信じ、疑う必要などないという、暗黙の契約がそこにある。
『夜のみだらな鳥』は、はじめのうち、リアリズム小説らしい会話や叙事、説明が繰り返されるので、不覚なことに、読者はいつもの小説を読むような気持ちで読みはじめてしまう。どうやら語り手は《ムディート》(小さな唖の意味)という名の寺男らしい。修道院に雇われている聾唖者ということだが、喋ることができずとも、小説の語り手はつとまるが、聞くことのできない話者というのは無理がある。冒頭の会話は誰の耳が聞いたのか、という疑問が生じるからだ。つまり、少なくとも聞くことはできるはずで、聾唖者というのは嘘だということがはじめから明かされている。これは、所謂「信頼できない語り手」が、かたる(騙る)物語なのだ、と作家は警告を発しているのだ。
《ムディート》が修道院に暮らす老婆たちから聞く物語がある。昔、九人の息子と一人の末娘を持つ裕福な地主がいた。ある日、兄弟は噂を聞く。妹の召使が魔女であり、二人は夜な夜な怪異な動きを見せると。兄弟は召使を捕らえ、木に結わえ付けて川に流す。これで、末娘がインブンチェにならずにすんだと人々は胸をなでおろす。インブンチェとはアラウコ族の俗信で赤子をさらい洞窟で怪物に変える妖怪のこと。村人は今でも魔女が娘をさらい、体の九つの穴を糸で縫いつけ、髪も爪も伸び放題にし、白痴状態にして慰み者にすることを恐れているのだ。
このインブンチェのイメージが小説全体に流れているライト・モチーフだ。外部に開いた窓を閉じて、自分の内部だけしか知らないで育つ子ども。肥大する自己イメージと外部の現実との落差を知らず、そのいずれが真実なのかさえ知りえない、目隠しされたまま幾重にも取り囲む迷宮の中で大人になる怪物めいた「子ども」の姿。それは、語り手のもうひとつの姿であるウンベルト・ペニャローサその人の姿でもある。しがない小学校教師の息子でありながら、父からは「ひとかどの者」になるよう期待され、法学を志すも、実態はカフェにたむろする毎日。作家を自称するが、イメージは膨らみ、ほとんど頭の中で出来上がっているという作品は、ただの一枚も書かれてはいない。
ウンベルトはその後、名門アスコイティア家の当主ドン・ヘロニモに見出され、リンコナーダの屋敷内に部屋を与えられ、秘書として働くかたわら原稿を書くことを認められる。『夜のみだらな鳥』は、そのウンベルトが書きつつある小説である。作中ウンベルトは、ヘロニモの妻イネスに懸想し、その召使の魔女ペータ・ポンセの計らいでイネスと交わる。その結果イネスは畸形の嫡子《ボーイ》を出産する。家名を穢すことを恐れたヘロニモは、《ボーイ》をリンコナーダの中庭に閉じこめ、その周りに畸形や不具の者ばかりを集め、外の世界を見せずに育てる。ウンベルトはヘロニモの命で屋敷を監督する。報酬を聞きつけた畸形者が殺到し、その程度に応じて住まいを与えられ、リンコナーダはボッシュ描く『悦楽の園』と化す。
ヘロニモの親族で、これも畸形のエンペラトリスはリンコナーダにあってウンベルトのよき協力者だったが、ウンベルトが吐血し人事不省に陥ると天才外科医でやはり畸形のアスーラ博士と謀り、屋敷を私する。博士の手術で体の八十パーセントを失ったウンベルトは、屋敷を出てアスコイティア一族の用済みの使用人の収容所と化したエンカルナシオン修道院で寺男《ムディート》として働くことに。修道院には六人の魔女と呼ばれる老婆が、孤児の一人の妊娠を契機に、処女懐胎の秘蹟を真似、包帯でぐるぐる巻きにした《ムディート》を赤ん坊のように抱っこしたり、下の世話をしたりする遊戯に耽っている。埋められた窓、釘で板戸を打ち付けられた修道院や《ムディート》の姿を見れば、これもまたインブンチェのモチーフだと分かる。
書けない作家のオブセッションをライト・モチーフに、少しずつずれを含んだ繰り返しを反復させる、それ自体が迷宮のような小説である。修道院で老婆の語る物語が、そのままイネスとその召使の二人に重なり、リンコナーダに閉じこめられる畸形の子と、包帯ぐるみの《ムディート》がインブンチェと重なり、アイデンティティというものの不確かさが、どこまでもつのってゆく。書かれない小説は、頭の中で何度も別稿や異文を生み、話は歪み、増殖を繰り返す。外部と内部、現実と想像、自己と他者の境界が崩れ、相互に流入する。何が真実で、どこまでが嘘か知る術はない。
早い話が、ローマから帰ったイネスはヘロニモの待つ家に帰らず、修道院で清貧の暮らしを始めるが、イネスの子どもの話は一切出ない。それどころか、スイスで手術を受けたイネスは人柄まで変わってしまっている。人間の自己とは、その外部によるのか、内部によるのか。臓器移植や整形外科が当たり前のように行われている現代を見越したかのように、イネスとペータ・ポンセの表皮を除く内部の入れ替えが生じさせる人格、容貌を含む人間そのものの変化が投げかける問いは重い。
さらに、ローマによって列聖される聖者や福者は、時代を少し遡れば、その昔魔女と恐れられた女に行き着くこともある。名門といわれる家系を遡った果てに魔女と福者が現われるという家系、出自の信仰を疑う、階級に寄せるアイロニカルな視線。ホセ・ドノソは、自分とは何か、この根源的な命題を愚直にも問い続けて倦むことを知らない。混濁しきった小説世界は最後に静謐な抽象性をまといつつ、その幕を閉じる。すぐれた幻想小説のみが持つ余韻の残る結末には舌を巻いた。