青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ヒッキーヒッキーシェイク』津原泰水

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タイトルがどっかで聞いたことがあると思って口ずさんだら、曲調を覚えていた。カバー・イラストにあるのと同じ型のベースを持ったマッシュルーム・カットのポール・マッカートニーが『ヒッピー・ヒッピー・シェイク』と歌っていた。「ヒッキー」が引きこもりの俗称であることは知っていた。扉の裏に次のような文言が引かれている。

ひき - こも・り【引き籠もり・引き隠り】
 仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、六ヶ月以上続けて自宅にひきこもっている状態。時々は買い物になどで外出することもあるという場合も「ひきこもり」に含める。(厚生労働省

読んで、ちょっと引いた。これで自分は、政府から正式に「ひきこもり」に認定されてしまったような気がした。妻もどこかでこれを読んだのかもしれない。本気で自分の夫のことを「ひきこもり」ではないのか、と心配していたことがあった。趣味は読書くらいで、何かをいっしょにやる知り合いというものがいない。ゴルフもカラオケも嫌いで、年に二回、学生時代の仲間と飲むのを除いたら、酒は家で飲むと決めている。

なんだか、人間はずっと家にいてはいけないのか、という気がしてくる。勤めていたころ、雨になると仕事に出てこない人物がいて、理由を訊いた相手に、人間はなぜ家に屋根をつけたと思っているんだ、と返事したらしい。ちょっと変わった人だったが、ちゃんと本は書いて何冊かは売れたようだ。人が快適に暮らす場所として家があるという考えは誤りではない。たまに飛行機が墜ちたり、車が飛び込んで来たりすることはあっても、確率は低い。

好きで家から出ない私のような場合は別として、出たいが出られないというのは辛いものがあるにちがいない。しかし、タイトルやカバー・イラストを見る限り、どうも暗い話ではなさそうだ。津原作品は一冊だけ『エスカルゴ兄弟』というのを読んだことがある。人生を深く考えるにはあまり役立たないが、面白い話だった。全部が全部、そういう世界ではないだろうが、「ひきこもり」をどう扱うのか興味がわいた。

竺原丈吉というひきこもり専門のカウンセラーが、自分のクライアントの中から使えそうな人材をスカウトして「不気味の谷」を越えようとする話。そこに、世界的なハッカーであるロックスミスが加わって、ミッション・コンプリートとなるはずだったのが、どこからかロックスミスを上回る腕前のハッカーが登場して、せっかく創り上げたプロジェクトが思いもかけない方向に漂流しはじめる。

ネット上で「不気味の谷」を超える精度のCGの美女を動かそうというのが、竺原の目論見のようだが、同郷の友人の榊にさえ詐欺師扱いされている竺原のことを、人一倍猜疑心の強いロックスミスは端から信じていない。いざというときには自分の手でどうにでもなるという自信がロックスミスにはあり、独自の動きで牽制しつつ、プロジェクトは進行する。

竺原が考えた四人のハンドルネームは、パセリ、セージ、ローズマリー、タイム。有名なバラッド「スカボロー・フェア」の歌詞から来ている。パセリは苦味を消し、セージは忍耐、ローズマリー貞節・愛・思い出、タイムは勇気を象徴するという説がある。パセリは白人の父に似た容貌を持ちながら、日本育ちで英語が喋れない。周囲から浮く美貌もコンプレックスになっている。絵はかなりの腕前。セージは技術はピカ一だが会社勤めに不向き。中学生のタイムは熱血教師の指導があだとなり学校で嘔吐する癖がついた。ベースを弾く。

パセリの原画をセージがポリゴン化し、タイムがセリフをつけた「アゲハ」を動かすのがローズマリーロックスミス)だ。竺原の狙い通り、四人はそれぞれ他人との共同作業を通じて、少しずつ知らない間に「ひきこもり」から脱却していく。同時進行する別のプロジェクトも軌道に乗り、万々歳かと思ったところに邪魔が入る。竺原が次に仕掛けようと思っていたウィルスが、「ジェリーフィッシュ」という凄腕ハッカーの手で、彼らのプロジェクト「アゲハ」に仕込まれ、「アゲハ」を見た者はそのサイトに誘導され、病気になってしまう。四人は強力な敵とどう戦うのか。

名伯楽がいて、特別な才能を持つ協力者を募り、ある使命に向かって死力を尽くす。『七人の侍』や『鷲は舞い降りた』などに見られる共通のパターンがここでも用意されている。竺原が狩り集めた四人が果たす使命はいったい何なのか、最後まで目が離せない。なにより、竺原自身がうそつきを自認しているので、プロジェクト自体が「信頼できない語り手」によって書かれたシナリオであることが明かされている。お約束のどんでん返しが披露されたところで、話はストンと幕を下ろす。少し風呂敷を広げ過ぎた気もするが、後は野となれ山となれ、という感じがいっそ清々しい。

『日本国紀』をめぐる騒動で、幻冬舎から出るはずだった文庫が早川書房から出版された経緯は、新聞にも出たのでここで詳しくは書かない。結果的には作家の考えを広く知らしめ、新しい読者を得たと思う。単行本の表紙を飾っていた、ビートルズの『REVOLVER』のジャケットを描いた、クラウス・フォアマンの原画が使えなかったのは残念だったが。