青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『マンハッタン・ビーチ』ジェニファー・イーガン

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第二次世界大戦下のニューヨーク。エディ・ケリガンは一時、デューセンバーグを乗り回すほど、羽振りを利かせていたが、株の大暴落があってからは、すっかり落ち目に。今は養護院仲間で港湾労働組合委員長のダネレンに雇われ、裏金の運び屋稼業で辛うじて家族を養っている。難病で寝たきりの娘に車椅子を買ってやりたい一心で、十二歳の姉アナを連れ、アイルランド系と角逐するイタリア系のギャング、デクスター・スタイルズの邸を訪れる。

デクスターは十六歳の頃、父に内緒でギャングの陰のボス、ミスター・Qの下で働き始めた。禁酒法時代は田舎道を高級車で走り、法を破る快感に酔いしれた。禁酒法時代が終わるのを予見したデクスターは、儲けた金をナイト・クラブ経営に回し、今では複数のクラブを経営するまでになっている。妻は金融業界の大物の娘で、義父にも能力を認められている。デクスターの次の狙いは戦時公債を安値で買い、その金を元手に表の金融業界に浮かび上がることだった。

十九歳になったアナ・ケリガンは父にくっついて、マンハッタン・ビーチに建つデクスターの邸を訪れたことを覚えていた。その父は五年前に家を出たきり帰ってこなかった。かなりの金を残していったが、病気の妹がいては大学は諦めるしかなかった。海軍工廠で戦艦ミズーリの部品検査をしていたアナは、ある日、はしけで訓練中の潜水士に目を留める。潜水士の募集を知り、上司に頼み込みテストを受ける。ところが、合格したアナをアクセル大尉は潜水士として認めなかった。女に潜水士は無理、というのだ。

美人ではないが人を惹きつける、アナが魅力的に描かれる。母とその姉のブリアンはかつてフォーリーズで踊っていたダンサー。父も舞台に立っていたというから、人目を引くのは血筋か。物怖じしない態度に初めは、反発を感じる上司も、次第にアナのことが好きになる。もちろん、同僚の男たちははじめからアナの味方だ。しかし、アナが魅かれたのは、デクスター・スタイルズだった。アナは、デクスターの運転するキャデラックに妹を乗せ、海に連れ出す。

小道具の使い方が粋だ。はじめてデクスターの邸に行った日、父が手土産に持たされたのが、真っ赤に熟れたトマト。そのトマトが、デクスターが戦時公債ビジネスの話をするため訪れたミスター・Qの家で再び登場する。あの日、エディはミスター・Qに引き合わされていたのだ、とここで分かる仕掛けだ。だとすれば、エディの失踪がギャング絡みであることも分かってくる。エディとデクスターの間にどんな経緯があるのか。

子どもの頃、カード・ゲームの相手をしていた老人から、いかさまだけはするな、と言い聞かされ、その手口を見破る方法を教わったエディ。賭場で誰がどのようにいかさまをやっているか、手にとるように分かる。それを武器に、デクスターの上がりを掠め取っている輩を監視する仕事を手に入れる。エディの仕事ぶりにデクスターは惚れこみ、仕事は順調だったが、他人の目と耳となって働くことでエディは自分を見失いつつあった。そんな時、養護院仲間で今は犯罪組織を捜査しているバートと再会する。

禁酒法時代を切り抜けたデクスターは、権力を持ち、他人を支配できるようになった。しかし、所詮裏稼業の成功者でしかなかった。そんな彼は、大統領ともつきあいのある表の世界の成功者である義父のアーサーを尊敬していた。デクスターは、戦時公債を大量に買い、国家に貢献することで、金融業界に仲間入りしたいと相談するが、義父の答えはにべもなかった。能力は認めても、同じ場所には入れない、ということだ。

妻や子ども愛する良き夫で、人に抜きんでる度胸と才覚を持ちながら、スタート地点を過ったがために、戦時国債でどれだけ国のために尽くしても、ギャング上がりはギャング上がり。どこまで行っても日の目を見ることがない。WASP(ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント)の牛耳るアメリカで、イタリア系やアイルランド系がのし上がるのがいかに難しいか。このデクスター・スタイルズの境涯がなんとも切ない。

優れた能力と意志力を持ちながら、出自や運、ジェンダーの壁に阻まれ、今いる状況から脱出しようと懸命にもがく三人の男女の交錯する運命をスタイリッシュに描く。憂いを帯びた本格的なノワールであり、海の男の闘いと友情を描く海洋冒険小説であり、時代に先駆け、男の職場に生きる道を切り拓く勇気ある女性の物語でもある。普通だったら、纏まりそうもない趣きの異なる物語を、巧妙に張り巡らされた伏線、綿密なプロット、脇役にまで細部にこだわった魅力的な人物造形を駆使して纏め上げた作者の力業に脱帽。これはお勧め。