青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『心の死』 エリザベス・ボウエン

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時代は二つの大戦間。リージェント・パークを臨むウィンザーテラスにはアナとトマス夫妻が住んでいた。アパー・ミドルに属する二人の館には、アナ目当ての男たちが毎日のように訪れていたが、トマスはあまり客を喜ばず一階の書斎で過ごすのが常だった。そんな時、別の女との関係が原因で亡き母に家を追われ、外国暮らしを続けていた父が亡くなり、二度目の妻との間にできた義妹ポーシャを頼むという遺言が遺されていたことを知る。

父が残したわずかな財産で母と子は外国のホテルを転々とする暮らしを続けてきたが、その母も死に、ポーシャは義兄の家に預けられる。内心の葛藤を隠し、体裁を整えるのが当たり前の上流階級の人々と、見知らぬ他人の間で生きてきた中流下層に属するポーシャの共同生活は予想通りうまくいかない。ふと目にとまったポーシャの日記をアナが見たことがすべての始まりだった。

アナの従兄弟の友人で歳若いエディ。小説家のセント・クウエンティン。アナのかつての恋人ピジョンの戦友プラット大佐といった面々がポーシャの前に現れては彼女を幻惑する。ポーシャはイノセントそのもので、大人たちにはそれが魅力的に映る。特にエディは、積極的に近づき、ポーシャに恋人であるかのように思わせる。次第にのめりこんでゆくポーシャを心配し、メイドのマチェットは厳しく戒めるが、アナが取り仕切るウィンザーテラスの世界に居場所のないポーシャにとってエディだけが心許せる相手だった。

三部構成で、一部と三部がロンドン、二部が海辺の町シールを舞台とする。登場人物も二部だけが中流下層の若者主体で、雰囲気ががらっと変わる。エディだけが二部の世界に闖入し、兄夫婦の外国旅行中、ポーシャの寄宿先であるミセス・ヘカムの家やシールの若者連中を引っ掻き回してはロンドンに帰ってゆく。ざっかけない暮らしぶりのミセス・ヘカムの家の暮らしになじみ、同じ年頃の仲間に混じって暮らすことで、ポーシャは変わりはじめる。

少女のイノセンスが、長く続いた習慣が作り上げてきたアパー・ミドルの虚飾の世界を暴き立て、内部で崩壊しつつあるアナとトマスの夫婦関係の破綻が白日のもとにさらされることになる。異なる階級、価値観に生きる人々が集う豪奢なテラス・ハウスは、ロンドンという都市の象徴であり、階級社会である英国そのもの。夏の間だけ避暑客で賑わう海辺の町シールは、よくも悪しくも田舎である。家のない子であったポーシャにとって、立ち位置の分からないロンドンより、行きずりの暮らしに慣れたシールの方が息がしやすいのは分かる気がする。

日に焼けて帰ってきたポーシャは見かけだけでなく何かが変わった。それは周囲の人に分かるほどの変容であった。セント・クウエンティンからアナが日記を盗み見たことを教えられ、ポーシャが家を出るあたりから、話は俄然面白くなる。少女の帰宅が遅れたことが、疑心暗鬼を生み、とりすました仮面夫婦の仮面が剥がれ、内心の愛憎が噴出し、一気にクライマックスに至る展開は三部構成の小説が正・反・合の弁証法的構成になっていたことをあかしている。

ポーシャの心を翻弄するエディという若者の存在が小説の眼目になっているようなのだが、当時「ブライト・リトル・クラッカー」と呼ばれ、「ダンディであること、ローグ(悪党、腕白坊主)であること、そしてナイーヴ(天真爛漫、無邪気)であること」が特徴だったと訳者あとがきはいう。いつの時代もそうだが、一世を風靡した世代の風俗は時代が変われば陳腐なものと成り果てる。個人的にはこの若者の臆病なくせに尊大で自意識過剰なあまったれ振りが鼻についてしようがなかった。訳者あとがきによれば、エディのモデルはボウエンと関係があった人物だとされる。個人的な思いが反映しての人物造型だとすれば、その愛憎の深さが思い知れる。

『パリの家』でも感じたことだが、アナがアンになっていたり、セント・クウエンティンが、サン・クウエンティンとなっていたりするつまらないミスだけでなく、意味の取りづらい訳が散見される。会話ももう少し訳し様はなかったのか、と思わせる直訳めいた箇所がいくつかあり興が殺がれた。版権の関係もあろうが、別の訳者の訳でも読んでみたいと思った。