青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『モンスーン』ピョン・ヘヨン

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久しぶりに「不条理」という言葉を思い出した。「観光バスに乗られますか?」など、ほとんどベケットだ。何が入っているのか分からない袋を運ぶように会社から命じられたKとSの二人は、袋をトランクに入れ、タクシーでターミナルに向かう。上司からはD市行きの高速バスに乗れという指示があった。最終目的地は分からない。指示はその都度メールで送られてくるという。

袋を開けることは禁じられていて、軽くはない荷物の正体は分からない。しかも何やら臭いがする。D市に着く。次の行き先の指示が届くまで、二人は腹ごしらえをしながら、どうでもいい話をしながら時間を潰す。次は市外バスに乗ってB郡に向かえ、とメールが届く。その次は市内バスに乗ってG町へ。そこで下りて、メールの指示にある守護神像チャンスンのある家を探して歩き出す二人。

目的も行き先も分からず、ただ命じられるままに動く二人は、特に親しい仲でもない。だからというか、二人の話は子どものころの思い出や食べ物の話、といった取り留めのないものにしかなりようがない。先の見えない展開と意味のない会話で成立する小説はベケットの『モロイ』や『ゴドーを待ちながら』の世界を思い出させる。寝ている間に袋は消え、二人は上司がくれた観光バス乗車券を握り、今にも発車しようとしている一台の観光バスに乗る。「このバスどこに行くんだ?」と言いながら。

無限ループの中に閉じ込められたような、出口の見えない状況でありながら、人物には一向に焦りが見えない。これは他の作品についてもいえる。全部で九篇ある中で、自分の意志ではなく、偶然その状況に入ってしまって、抜け出せない、あるいはその状況にある他者に代わって自分がその状況に入り込む、といった話が幾つもある。タイトルを見ても、「同一の昼食」、「カンヅメ工場」といった同一性を暗示するものが目に留まる。

「ウサギの墓」は、派遣を命じられ、新しい職場にも慣れた会社員が、近くの公園で見つけたウサギを飼い始める話。仕事は必要な情報を収集し、簡単な文書にまとめて報告するだけで、誰にでも勤まる。ところが派遣の勧誘をしてくれた先輩を訪ねてもドアが開かない。会社にも出てこない。毎日、先輩の家を訪ねるのが日課になる。そのうち派遣期間が終了し、自分も代わりの人員を勧誘し交代する時期になる。新人が出社した日から彼は会社に出なくなり、毎日決まった時間に部屋のドアを叩く音が聞こえるようになる。

都市における一般の会社員の生活というのは、もしかしたら、置き換え可能なのではないか。それが自分でなくても誰も一向にかまわない。そういう世界の在り方に対して、誰も疑いを差し挿まない。皆が皆、そういう事態を当たり前のように受け止めて毎日暮らしていることのおかしさに誰も気づいていない。自己アイデンティティの不在が横溢し、逆にそれが社会の主流となっている。そんな世界の不気味さが漂ってくる。

会社や工場なら他と我の置き換えが可能でも、夫婦となると話がちがう。収まっている空間は似たり寄ったりであるのに、否、空間が皆似たり寄ったりであるからこそ、他とのちがいを求めたくなるのかもしれない。特に、家で暮らすことが多い妻ともなれば。夫は妻の求めに応じて、転勤を受け入れる。「クリーム色のソファのある部屋」は、引っ越しトラックと相前後して出発した車が突然降り出した雨にワイパーが故障して立往生する話だ。

子ども連れで、時々車を停める必要があるので、高速ではなく下道を使ったのが運の尽き。やっと見つけたスタンドには、どう見ても大麻でも吸ってるような男たちがたむろしていた。修理代に有り金を取られた腹いせに警察に通報したら、エンジンが故障。保険会社の車と思ったのが先刻の男たちだった。不運の続く男には別のトラブルも待ち受けている。妻がサイズを見誤ったのか、クリーム色のソファが部屋に収まらない、と引っ越しトラックから電話。足掻けば足搔くほど体が沈んでいく蟻地獄のような状況がどこまでも続く。

個人的には、どうあがいても脱出不可能な状況に追い込まれた人物を執拗に描いた短篇が好みだが、巻頭に置かれた表題作は、少し毛色がちがう。赤ん坊を亡くした若い夫婦の間に吹き始めた隙間風が、やがて疑惑にまで高まってゆく。不条理というより、不穏な空気が徐々に醸し出されていく趣向は確かに波乱含みであり、無限ループからの逸脱を果たしている。

作風を固定したくない気持ちは分かるのだが、その作家ならでは、という風合いのようなものを持つ作家は強い。「カンヅメ工場」は、工場の従業員が作る極私的カンヅメの話。中に入れる物がすごい。白菜キムチや大根キムチはまだしも、味付きカルビに焼き肉、タコの炒め物、キムチ鍋、冬葵の味噌汁、煮干しの炒め物、と韓国料理の献立勢ぞろいだ。

中には、恋人に贈る指環を入れたり、クリスマスプレゼント用におもちゃを詰めたり、初めて購入する家の書類を詰める者まで出てくる。話はどんどん暴走し出す。失踪した工場長の詰めたカンヅメの中からは鼻をつく臭いの靴下と下着が出てくる。クレジットカードの領収書には、誰かと会って、食事をして、映画を見た痕跡が見事に残っていた。カンヅメには人ひとりの人生が収められている。外見は同じでも、中身は別様の人生が一缶、一缶にひっそりと封入されている。カンヅメという同一性のかたまりを缶を開けることで裏返し、世界を反転してみせるトポロジー空間の現出に舌を巻いた。