『ヘミングウェイで学ぶ英文法2』倉林秀男 今村楯夫
英文法の本なのに意表を突く売れ行きを見せる『ヘミングウェイで学ぶ英文法』の続編、と言っていいのだろうか、小説ではない、文法書のことを。売れたら続編を出したくなる気持ちはわかる。とはいえ、単に柳の下の二匹目をねらったわけではなさそうだ。ヘミングウェイの短篇をまるごとテキストに使って英文法を学ぶ、というアイデアに見合うだけの作品がまだこんなにあることに驚いた。前作に負けない読みごたえがある。
章の構成を見ていこう。まず、最初に和訳が紹介される。すぐに英文ではなく、日本語で書かれた文章が来ることで安心して入ってゆける。採られているテクストが日本なら掌編小説とでも呼びたくなる短さなので、まるごとテクストにしても抵抗感がない。しかも、御承知の通り、ヘミングウェイの文章は平易で、一文が短いことでも知られている。
次に、原文と「ここに気をつけて読もう」というページが左右見開きで出てくる。左ページに原文、右ページに「この文の主部はどれですか?」といった質問が揚げられている。ヘミングウェイの文章はほぼ基本的な語彙で成り立っている。難語句については右ページの下欄に説明があるので、いちいち辞書で引く必要はない。その後に質問に対する回答にあたる「『ここに気をつけて読もう』の解説」が続く。この解説が本書の勘所になっている。
さらに、「ワンポイント文法講義」という、作品の中で使われている手法について要点を絞った講義がついている。文法講義という名前がついているが、これは文学講義といってもいいもので、ヘミングウェイが、なぜ、そのような書き方をしたか、それは作品にどのような効果をもたらしているかが事細かに論じられる。目から鱗といった感じで、これが面白い。文法を知ると知らぬとではこんなにも読む力に差がつくのか、とあらためて思い知らされた。
これで終わってもいいようなものだが採り上げた短篇について一篇ごとに「作品解説」がちゃんとついているのが親切だ。たとえば第一章で採り上げているのは「インディアン集落」だが、この作品について、ヘミングウェイがインディアンに対して差別意識を持っていたような批評のあることを紹介したうえで、作品のモデルである作者の父が、当時としてはめずらしく白人もインディアンも差別なしに診療した事実をあげ、その説を否定している。
おまけといっては何だが、コラムが付されているのも愉しい。「インディアン集落」はニック・アダムス物の一篇で、麻酔なしにインディアンの妊婦の帝王切開をする話だが、登場人物の一人でニックの伯父にあたる脇役のジョージに光をあてている。ジョージがインディアンに葉巻を進呈する場面があるのだが、そこから「ジョージおじさん=赤子の父親」説が浮上するのだ、と。インディアンの間では赤ん坊の父親は煙草を贈る習慣があるらしい。
第二章のテクストは「三発の銃声」。これは「インディアン集落」の前日譚であり、二作を続けて読むことでより味わいが深くなる。前作にもあった少年が初めて「死」というものを意識する話である。第三章はトルコ=ギリシア戦争の取材でトルコを訪れていた当時のエピソードを綴った「スミルナ埠頭にて」。第四章はスペインのカフェに勤めるボーイ二人の考え方の相違を主題にした「清潔な明るい場所」。第五章は作家の息子の実話をもとにした「何を見ても何かを思い出す」。父と子の間にある齟齬を主題にしている。そして最後には、なんと「老人と海」のラスト・シーンが採られている。大サービスである。
学生時代にサボっていたものだから、英文法には疎い。まあ、それを言うなら日本語の文法だってあやしいのだが。しかし、そんな自分でも、このシリーズはたいそう面白く読むことができた。なにしろ、短いながらもヘミングウェイの短篇が原文で読めてしまうのだから痛快しごく。とても自力では読めないものを、手取り足取り、気長に引っ張っていってくれるので、最後まで読み通すことができる。
それに、テクストとして採り上げられている作品の質が高い。ヘミングウェイについては映画化された長篇などの印象でマッチョなイメージを持っていたが、『移動祝祭日』を読んでから印象がごろっと変わった。その後『こころ朗らなれ、誰もみな』や『われらの時代』を読むことでますます好きになっていった。予備知識なしに読む楽しみもあっていいが、文法といったふだんあまり意識に上せない硬質なものを梃子にして読むことで、また一段と小説を読む面白さを知ることができる。
こんな本で英文法について学ぶことのできる今どきの若者が羨ましい。記憶力が劣化していない若い頃に出会っていたら、きっと英語のことがもっと好きになっていただろうに。記憶の方は長持ちしなくなったが、本さえあれば手許において好きな時に何度でも開いて読むことができる。前作『ヘミングウェイで学ぶ英文法』と併せて読まれることを推奨する。