青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『JR』ウィリアム・ギャディス

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机の上に両足を上げ、椅子の背をいっぱいに倒し、太腿のあたりで本を開いて読んだ。手許にある書見台では厚すぎてページ押さえがきかないのだ。画像では実際の量感がつかみにくかろうが、菊版二段組940ページ、厚さは表紙部分を別にしても約5センチある。比喩でも誇張でもなく、読み終えた後、背表紙を支えていた右手が凝りで痛くなっていた。言葉を換えて言えば、持つ手が痛くなるまで、読んでいられるだけの面白さを持っているということだ。

70年代のニュー・ヨークが主な舞台。見開き二枚の舞台地図、八ページに及ぶ登場人物一覧が付されているが、時間的にはたかだか数カ月程度、入れ代わり立ち代わり顔を出す人間の数は多いが、主な人物は限られている。大河小説めいた時代や舞台の広がりを心配するには及ばない。初読時に面食らうのは鍵括弧なしに延々と繰り広げられる会話の多さだろう。これだけ大部の小説なのに、章分けもなければ、行開けもなく、始まったが最後、終わりまで怒涛のごとく走りぬける。

それも、話し手が誰で聞き手が誰なのかの説明は一切なされない、という徹底ぶり。読者は会話の内容からそれを推し量るよりほかに手はない。そういう意味では、この小説はパーティションで仕切られたレストランの隣の席で交わされる会話をたまたま耳にしている客が、隣席のグループの人間関係やら社会階層を想像して楽しむような、いわば「立ち聞き小説」とでも名づけるに相応しい体裁を持っている。

実験小説などという前評判に気圧され、読みきれるだろうかと恐れる必要はない。途轍もなく面白い。その面白さは保証する。それも、訳者があとがきで挙げている『ユリシーズ』や『百年の孤独』と比べれば、実にハードルが低い。登場人物は現代アメリカに生きる普通の人々だし、主な話題は銭金の話なのだ。たしかに、株式の話や証券取引の蘊蓄がやたらとひけらかされるので、素人には珍紛漢紛だし、主な人物が芸術家なので、詩や先人の言葉の引用も多い。しかし、それは詳細な訳注で懇切丁寧に説明されている。知りたければその都度参照するもよし、その気がなければ無視して進めばいい。

前置きが長くなった。まず、ひとつ目の話題は「遺産相続」である。会社経営者が遺書を残さず死んだため、遺族が法外な相続税を払うには、保有する株を売却するしか手がない。ところが、ここに一つ問題がある。被相続者の長子には正式な婚姻を経ずして設けた子どもがいて、そのエドワードが嫡出子と認められれば、相続権が発生し、その子の持ち株次第で、会社の経営権が両陣営のどちらかに決まる。弁護士はエドワードに権利放棄の書類に署名させようとするが、なかなか会うことができない。

二つ目が夫婦の離婚、別居に伴う子どもの養育権の問題。エドワードが勤務する学校には、マドンナ役のジュベールという女教師と、ギブズという作家志望の男性教師が働いていて、両人ともその問題を抱えている。しかも、ギブズにはアイゲンという友人がおり、彼も同じ問題を抱えている。この長大な小説を支える主題のひとつは意外なことに極めてドメスティックなものである。悩める男たちは、本を書きあげるという自己実現の成就を脇に置いて、妻の要求に応じつつ、滅多に会えない我が子との逢瀬を待つ辛い時を過ごしている。

三つ目の主題が、表題にもなっている、三人が勤める中学校の学生で十一歳のJ R・ヴァンサントという少年がはじめる「金儲け」という話題。この少年、今の言葉で言うなら天才的なハッカーで、当時のこととして、郵便と電話を使って、学校の授業の一環として所有した一株をもとに会社組織を作り、あらゆる手段を駆使して会社を大きくしてゆく。無論、未成年に社長はできないので、J Rはエドワードをアソシエイトとして、彼の名前を使ってあらゆる契約をまとめてゆく。そんなわけでエドワードが仕事部屋にしているアップタウンの一部屋には世界中からあらゆる商品が送られてくる。中には、大量の香港フラワーが特大のトラックで運び込まれるなど、事態は超現実的な様相を帯びる。

『間違いの喜劇』というのはシェイクスピアだが、これもネタは同じで、電話のやり取りを通して起きる、とりちがえ、思い違い、勘違いによる、ちぐはぐな出来事の出来が次々と事態を混乱させてゆく面白さを極大までに誇張したスラップスティック劇である。会社社長や知事といった権力者が、自分を基準にしてものを見がちであることからくる欲望の空回り、空騒ぎがことを大きくしてゆく様子が皮肉な目で描かれている。

面白いといったのは、この小説が書かれたのは、かなり過去になるのに、書かれていることが極めて今日的であることだ。教科書の中に宣伝を入れるというJ Rのアイデアや、ラジオでクラシックのような長い音楽を流すのはCMの回数が減るから、短いポピュラー・ソングの方がいい、という発想の何と進んでいることか。中には最近カナダで実施されたばかりのマリファナの解禁まで先取りされている。

下品で放埓な性的哄笑、となだれ落ちてくる商品に埋もれながら、作家が後生大事に大切にする創作メモの捜索の間に幕間劇のように挿まれるジュベールとギブズの官能的なラブ・ロマンスもある。村上春樹ではないが、肝心なところでセックスの場面が挿入されるなど、読者を飽きさせない工夫にも余念がない。ひとたび、波に乗ればさすがの大長編も一気に読めてしまう。マニアックな読者には訳注相手に再読、三読を楽しんでもらうとして、普通の読者にもそれなりの余禄がなければならない。

一昔前にはマンの『魔の山』のように、時代を象徴する価値観と価値観が互いにぶつかりあう小説があったもので、読者はそれを読むことで主人公の成長に共感しつつ、自己を形成する支えとしたものだが、ポスト・モダン以降、その手の傾向は影を潜めたままだ。それが、ここではエドワードとJ Rとの対話という形で、実に大真面目に描かれている。年配の読者はエドワードの論理に肩入れしたくなると思うが、対するJ Rの反論にも大いにうなずかされるものがある。

鉛筆と紙で創作メモをとったり、楽譜を書くギブズやエドワードの、ある種ロマンティックな時代性というものがある。それに対して、一昔前ならドライ、今風に言えばクールなのがJ Rの考え方。彼には基本的なリテラシー能力が欠如している。「アラスカ」も彼にかかれば「アスラカ」である。それでいて、パンフレットやチラシを収集し、必要な情報を得たり、読めない字ばかりで書かれた法令の中から重要な規約違反を発見したりする能力は肥大ともいえるほど発達している。

金儲けなどは卑しいこと、という考え方がジュベールエドワードにはあって、彼らにとっては芸術の方が価値がある。しかし、J Rは、今自分のいる「アメリカの本質」をしっかりつかみ、それに根差して資本を運用する自分の活動のどこに問題があるのか、とエドワードを問いつめる。この対話には『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を思い起こさせる迫力がある。

面白さは人によっていろいろだ。要は、人それぞれの読み方で楽しめばいい。臆することなく、この大冊を手にとることだ。期待が裏切られることはないだろう。英文で書かれた言い間違いや聞き違いをネタにする作品を日本語に訳すのは大変な仕事だが、訳者は楽しんで仕事をされたにちがいない。こんなに楽しく読めるのは、そうに決まっている。活き活きした会話の横溢する文章がそれを物語っている。