青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『平凡すぎる犠牲者』レイフ・GW・ペーション 久山葉子 訳

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「チビデブ」で、仕事には不熱心。口にこそしないが、内心では差別意識丸出しで他人をけなし続け、当然ながら自己評価はめちゃくちゃ高い。ところが、なぜか最後にはきまって事件を解決してしまう。こんな適当な人物が主人公を務める謎解きミステリ、読んだことがない。そりゃそうでしょう。普通は、この手の人物に光をあてたりしない。でも、そんな人物を視点人物に据えることで、心の中でつぶやく絶対に口にしちゃいけない言葉が外にだだ洩れ。ポリティカル・コレクトネスなどくそくらえ。これで面白くならないわけがない。

仕事ができないわけじゃない。結果的に犯人は上げるのだから捜査官としての能力は優秀だ。本人は気づいていないから、おそらく無意識で動いている。では、どうして周りの、特に上層部のウケが悪いのか。それは、彼らとちがって仕事第一人間じゃないから。妻子持ちでもないのに、定時に家に帰る刑事なんて見たことがない。おまけに、何かというと休憩をとっては甘いものに手を伸ばす。たっぷりとランチを食べた後は、地下のガレージで、バンの中に設置したベッドで二時間程度仮眠。すっきりした頭で捜査会議に出る。

誰でもそうありたい「クオリティー・オブ・ライフ」を体現しているわけで、したくてもできない周りからすれば癇に障る。もっとも、どこまで勤務実態がばれているのかはわからない。その辺の立ち回り方は極めてうまい。それだけじゃない。警察内部で手に入れた情報を知り合いに流しては見返りを得ることも日常茶飯。だから、素敵なアパートにアンティーク家具や、高級ベッドを置けるのだ。多方面に顔が利き、重要な情報も握っているので、実力者も協力を惜しまない。組合に手を回すことも忘れない。相次ぐ左遷や島流しから、不死鳥のごとく甦るのもそのせいだ。

その人事権を通じて、ベックストレームをストックホルム県警の物品捜索課に追いやったのも、今回ソルナ署に戻したのも、今は引退した元国家犯罪捜査局長官のラーシュ・マッティン・ヨハンソン。同じ作者による『許されざる者』の主人公である。この二人、実は同時代のスウェーデンの警察組織で働いている。一緒にではないが、あのパルメ首相暗殺事件を別の角度から追いかけてもいる。こういえばエリート階級に属するヨハンソンは心外だろうが、いわばある種のライヴァル関係にある、といってもいい。

ベックストレームの捜査で、実際に動いているのは部下なので、彼のやることは、自分が働かずに済むように部下に適当な仕事をあてがうこと。会議で報告を聞くときも「続けてくれ」などと言いながら、頭の中は全く違うことを考えている。今夜飲む酒のことや、食べ物のことならまだいい方で、その多くは、今発言している者に対する偏見と差別意識にまみれた批評。もっとも、それを腹の中で思うだけで、口にしないところは常識がある。これでも一応警部なのだ。

今回は、ソルナ署の管轄で一人の老人が惨殺される事件が起きる。当初、誰もが、アル中がアル中に殺されただけのよくある事件と思っていたが、事件の第一発見者である新聞配達の青年が殺されると、そうとばかりも言っていられなくなる。悪いことに、何日か前、空港で起きた現金輸送車強奪事件との関係まで疑われるようになってきて、ヨハンソンの肝いりで、あのアン・ホルトが署長になったばかりのソルナ署内は浮足立つ。両シリーズの登場人物が、どちらの作品にもちょっと顔を出すのがファンにはうれしい。

スウェーデン警察で何が起きている? 女々しい男にレズにガイジンに、普通のおめでたいバカども。まともなお巡りさんは、目の届くかぎり一人もいない」とうそぶくベックストレームだが、表題通り、犠牲者が平凡すぎるのに比べ、ベックストレーム率いる捜査陣の方は個性的すぎる。事実、ベックストレームのやることといえば、周りの仲間に対する、ガリガリだの、レズだのといった辛辣極まりない人物評。そうでなければ飲んだり食ったり、何したり、という訳で、周りにしっかりした部下がいなければ始まらない。

日本と違い、移民や難民を積極的に受け入れてきたスウェーデンでは、警察も多国籍化されている。鑑識のニエミはフィンランド野郎で、その部下のホルヘ・エルナンデスはチリからの移民の子、その妹のマグダも同様だ。事務捜査担当のナディアはロシアの博士号を持つ亡命女性。フェリシアはブラジルの孤児院からスウェーデンに養子としてもらわれ、強面のフランクはケニアからの養子。サンドラはセルビア人犯罪者の娘というから経歴も凄い。

むしろ、生粋のスウェーデン人の方が少数派で、旗色が悪い。ベックストレームは本当のところ、差別主義者でも何でもない。新しい状況に馴れていないだけだ。同じスウェーデン人でも、凡庸なアルムは軽んじられているのに、単なる行政職員でしかないナディアは、ベックストレームのロシア人観に影響を与えるほど、その捜査能力を頼りにされている。人を見る物差しが常人と異なるだけで、口ほど人は悪くはない。相手を深く知るにつれ、ベックストレームの他者に対する評価が変わってくるのがよく分かる。

許されざる者』などの、ラーシュ・マッティン・ヨハンソンを主人公とするシリーズを「正統」とすれば、ベックストレームのシリーズは、いわば「異端」。逆立ちしても、正統派になれないケチな悪徳警官、ベックストレームを主人公に仕立てることで、生まれも育ちもいい、優雅で高潔な人々の活躍する小説世界が被っている美しい見かけの皮を、ひん剥いてやりたい、というのが、このシリーズを書くときの作家の執筆動機ではなかろうか。

やたらと差別的な言辞を弄し、セクハラなんか気にも留めず、「チビデブ」の体にアロハシャツやマフィアみたいな黄色の麻のスーツを着こんで、あたりを闊歩するベックストレームは、それだけで顰蹙を買いかねないキャラだ。それでも、こちらのシリーズの方が海外での人気は高い。そりゃそうだろう。ヨハンソンやアンナ・ホルトがベックストレームを見る目はいかにも上から目線で、双方を共に知る読者から見れば、ちと鼻につく。それに比べると、どうしようもない男だが、ベックストレームにはどうにも憎めないところがある。

今回のベックストレームは、医者に言われて生活改善に励むものの見事挫折して、もとの不摂生に戻ってしまう。これなんかも、我々庶民にしてみれば、いかにも身につまされる「あるある」エピソード。他人の評価なんか気にしない。できる男であることは自分が一番よく知っている。何があっても意気軒昂、つまらぬことにくよくよしない、ベックストレームは、我々の等身大の自己を投影できる、いわば普段着のヒーローなのだ。

複雑に入り組んだ事件も、ベックストレームの適当な仄めかしを部下たちが勝手に忖度し、各自の特技を生かして捜査することで無事解決に至る。自分は何もせず、ただそこにいるだけで、カリスマ型リーダーシップを発揮するエーヴェルト・ベックストレーム。名探偵が鮮やかな推理力を働かせて謎を解く、というお定まりのミステリなど知らぬ気に、周りの思惑など知らず、己の夢想の中をひたすら駆け抜けるエーヴェルト・ベックストレーム。彼は、レイフ・GW・ペーション版の『ドン・キホーテ』なのだろうか。