『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』エリザベス・ハンド 市田 泉 訳
世界幻想文学大賞受賞作である中篇三篇、ネビュラ賞を受賞した短篇一篇を収録したエリザベス・ハンドの傑作選である。ネビュラ賞とあるからには、ジャンル的にはSFに括れるのだろう。その分野にあまり詳しくないのは確かだが、それにしても、どれも今まで知らなかったというのが信じられないほどの完成度の高さだ。どうして、今まで、どこかですれ違いもしなかったのか、不思議でならない。
なかでも、若い男女の視点で語られる中篇二篇がいい。歳をとったせいで、今の若い人たちについていけなくなったせいか、最近は若者を中心に据えた作品を手に取ることがなくなった。しかし、誰にでも若い時分はあったはずで、若者の心情に共感できないはずはない。要は、現代の若者を囲む、文化の潮流について行けないだけだ。その点、舞台を少し前に取ったものにはそれがない。
表題作「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」は、友だちが、主人公の母のことを「ウッドストック・フェスティバルでLSDをキメすぎたみたいだな」と評するところがある。ヒュー・グラント主演の『アバウト・ア・ボーイ』の中で、少年の母がヒッピー風であることがいじめの原因になっていたのを思い出す。ある時を境に、ヒッピーは、時代に取り残された思想や生活スタイルにしがみつく、いかれたやつら、という認識になってしまっているようだ。
ムーニーは、メイン州にあるマーズ・ヒルで夏を過ごすようになって何年にもなる。母が、スピリチュアリストのコミュニティで<クリエイティブなサイコキネシス>のワーク・ショップを始めたからだ。そこで、ゲイの父を持つジェイソンと知り合った。現在、二人の親は重病を患っている。マーズ・ヒルには病を癒す力を持つ何かがいて、「彼ら」と接触できれば病は消える、と信じられていた。ただ、この地を去ればその効力は失われる。二人の親は、この夏を最後に街に帰らないことを決めている。
人はいつか独り立ちしなければならない。しかし、年少の子どもにとって、親との別れは耐えがたい。片親だったらなおさらだ。二人はその辛さを分かち合いながら、自分たちとは相容れない世界に生きる親世代とひと夏を過ごす。チュニックやカフタンを身に纏ったエキセントリックな男女が、夏の夜を祝うイヴェントであるファースト・ナイトに集う様は、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を思い起こさせる。魔法にかかった一夜が明け、少女の夏は終わる。幼年時代の終わりを鮮やかに描き切った一篇。
「イリリア」というのはシェイクスピアの戯曲『十二夜』の舞台となる国の名。「ティアニー家は有名な演劇一家で、シェイクスピアの時代にまでさかのぼれる役者の家系」だった。「わたし」は、往年の名女優マデラインの名前を受け継いだ。マディには同じ日に生まれたいとこのローガンがいる。二人の父親は一卵性双生児。そのせいでマディとローガンは「似た者同士(キッシング・カズンズ)」と呼ばれ、いつも行動を共にしていた。
曾祖母マデラインは早々と女優を辞めて資産家と結婚し、ヨンカーズに屋敷を構えた。マディたちは、今もその屋敷に住むが、一家は演劇とは無縁の生活を送っていた。ただ一人、おばのケイトだけが、それを嘆いていた。というのも、一族の末っ子であるローガンとマディには才能が受け継がれていた。才能は「贈り物(ギフト)」だが、大事に育てないと失われてしまうものだからだ。ケイトは、学校の演劇祭で演じられる『十二夜』に二人を引きずり込み、二人は瞬く間に舞台の魅力にとりつかれる。
長身で美しいローガンは美声の持ち主で、その歌を聞いたものは誰でも心を鷲づかみにされる。オーディションに受かった二人は練習に励むが、マディは、生まれつきの才能を持つローガンに激しく魅了され、自分の凡庸さを嘆く。しかし、ケイトはこう諭す。「魅惑の力(glamour)――それは文法(grammar)という言葉と同じ語源を持つの、一種の知識。つまり、教えることができるってこと。身につけることができるの」。
天賦の才を持つ者と、努力によって才能を鍛え上げることのできる者の対比。そして、激しく愛し合いながら、近親婚というタブーによって仲を裂かれることになる男女の悲恋。芸術家としての聖痕を持つ者と、それに対してアンビヴァレンツな感情を抱くブルジョア精神の持ち主たちの対立。それらが相俟って引き起こされる悲劇。劇中劇として演じられる、シェイクスピアの『十二夜』が、トランプの絵札のように二人一組で生きてゆくはずだった似た者同士が、運命の悪戯によって、無惨にも海を隔てて引き離される運命を暗示している。
ある一つの小さな仕掛けさえ仕込まれていなかったら、幻想文学の範疇に括られることはない小説である。ところが、そのささやかな仕掛けが大きな力となって物語を牽引している。それは、二人が禁断の愛の巣とし、根城にもしているローガンが暮らす屋敷の屋根裏部屋に隠されていた。壁の向こうで音がするので、ネズミでもいるのか、と思った二人が動いたそのはずみで壁の一部が壊れ、闇の中に光がこぼれ出る。
おそるおそる覗いた二人の目に映ったのは――「壁の内側にはおもちゃの劇場があった。折り紙や金ぴかの厚紙、ブロケードやレースの端切れで作ってある。緋色の薄紙でできた幕がプロセニアム・アーチにとりつけてある。(略)だまし絵(トロンプ・ルイユ)の切り抜きや折り紙の壁とアーチが目眩を覚えるほど複雑に配されて、舞台が果てしなく奥まで続いているように見せかけている」。ライトに照らされた舞台には、動くものもないのに、サラサラ、コツコツという音がし、造りものの雪さえ降るのだ。
エリザベス・ハンドが小説の中に持ち込む「幻想」はほんのわずか。どこからか降り注ぐ黄金の光や、壁の一部に埋め込まれたおもちゃの舞台、といった些細なもの。ガチなSFのような壮大な異世界は必要ない。人が気づかなかったら、それっきり誰にも知られず、現実世界の傍らにずっと存在し続ける。見る眼を持つ人にだけ、それは存在する。この精緻に作りこまれた小世界が、この人の持ち味。心に響き、いつまでも忘れ難い余韻を残す。
ほかに、誰もいなくなった島にひとり残された女性が、時々届く愛する男からのメッセージを読む「エコー」、失敗に終わった世界初の飛行実験を模型を使って再現しようという試みを描いた「マコーリーのベレロフォンの初飛行」の二篇を収める。珠玉のという言葉が語の真の意味で相応しい中短篇集である。