青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『リカルド・レイスの死の年』ジョゼ・サラマーゴ 岡村多希子 訳

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存在したこともない人についてこんなふうに語るのはばかげていると言われたら、僕は答える。リスボンや、書いているこの僕や、その他どんなものも、どこかしらにかつて存在していたことを証明できるわけではない、と。――フェルナンド・ぺソア

ポルトガルを代表する詩人カモンイスの詩句「ここで大地は終わり、海がはじまる」を逆説的に言い換えた冒頭の一文「ここで海が終わり、陸がはじまる」から、懐かしい映画を見ているようなサウダージの気分が辺りに満ち溢れる。黒っぽい船が雨にけぶるテージョ川を上ってゆく。大西洋横断用の船だ。十六年の時を経て、旅人はポルトガルに帰ってきた。

川沿いのブラガンサ・ホテル、川の見える二〇一号室に宿を取った旅人は宿帳を書く。名前はリカルド・レイス、年齢四十八歳、ポルトガル生まれ、独身、職業は医者、最後の住所はブラジル、リオデジャネイロ。これで、旅人の出自が知れた。古典主義的で牧歌的なホラティウス風のオードを得意とする詩人、リカルド・レイスは君主制を支持していたため、ポルトガルが共和制宣言をした一九一九年、自らブラジルへ亡命した。

それでは、帰ってきたのだ。いったい何のために? 翌朝、レイスはバイロ・アルトにある新聞社を訪れ、フェルナンド・ぺソアの死と葬儀についての記事を読む。ペソアは土曜日に死に、昨日埋葬されていた。記事には、詩の中で、彼は単に彼、フェルナンド・ぺソアだけではなく、アルヴァロ・デ・カンポス、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイスでもあった、と書かれている。レイスは、誤報だと口走る。自分はここにいるではないか、と。

少々説明が必要になるだろう。フェルナンド・ぺソアにはその名ばかりではなく「異名者」と呼ばれる、異なる様式を持つ詩人が複数同居している。リカルド・レイスはその一人だ。サラマーゴは、ぺソアの作り出した異名者の一人であるリカルド・レイスを自分の小説の主人公に起用し、しかも、死んだペソアを幽霊にして、二人に繰り返し対話させている。何を思って、そんなことをしたのだろうか? ここは本人に語ってもらおう。

「レイスの詩に深く感動し、手放しの感嘆と賛美を捧げていました。しかし、また一方では、これほどの人がどうして世の中で起こる問題に対して無関心でいられるのか、これほどの知識と感受性と知恵とを備えた人間が、どうして真の智恵とは世界のできごとに満足することだなどと考えることができるのか、という反感にも似た感情や理解に苦しむ気持を抑えることができなかった(「解説にかえて」より)」

『リカルド・レイスの死の年』は、この問題を解決するために書かれた。では、サラマーゴの考えるレイスはどんな人間か。金に不自由しない中産階級で、ホテル暮らしを続けているが、特にこれといって何もしない。友人もおらず、あてどなくリスボンの街路をさまよい歩き、カモンイスの銅像のある広場のベンチで新聞を読み、鳩や人々を見ているだけだ。ホテルのメードのリディアと関係を持ち、子までなしながら、彼女の私生活には無関心だ。

そんなレイスが、ある日国家保安防衛警察に呼びだされる。警察は突然の帰国に疑惑を抱いたのだ。それだけでなく、いつもタマネギの臭いをさせている見張りまでつく。煩わしくなったレイスはホテルを出て下宿暮らしを始める。一時的に医師の代診もするが、本業にする気はない。詩を書くことはやめておらず、折に触れて思ったことは書き留めている。リディアとの関係は続けながら、別の女性にも関心を寄せるなど、いい気なものである。

というのも、「解説にかえて」にもあるように、一九三〇年代のポルトガルでは、新聞の事前検閲、秘密警察など、ファシズムの抑圧装置が常に働いており、人々は押しつぶされそうになりながら展望のない暗い日々を送っていた。三六年にはスペイン内戦が勃発、ドイツはラインラントに侵駐し、イタリアはエチオピア侵攻を続け、フランスには人民戦線が成立する。三年後、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する、そんな時代だったのだ。

ホテルの食堂にはスペインから逃げてきた客、街頭では配られる食料に群がる人びと、新聞の記事からでも、自国の置かれている状況がレイスには理解できたはず。ところが、彼はただそれを傍観者として見ているだけだ。世界のできごとに満足しているのか、彼の関心は情事と恋愛のまねごと、そして実体のないペソアとの形而上学的対話にしかない。こういうと、批判しているように思われるかもしれないが、そうではない。

エピグラフの一つに「行動しないやり方を選ぶことが、僕が人生でつねに心がけ配慮したことであった」とあるように、リディアとの房事を別にすれば、レイスはいかにもフェルナンド・ぺソアらしい。サラマーゴはいざ知らず『不安の書』の愛読者としては、レイスにはこうあってほしい。リスボンの街の通りを歩き、坂を上り、展望台に出ては風景を眺める。レイスはまるでペソアのテクストに足が生えて歩き出しでもしたかのようだ。

ペソアの幽霊は、レイスが見ようとしない現実を映す鏡の働きをしているが、ペソアにしてはいやに国際情勢を気にしている。まるで作家がペソアに乗り移り、レイスに喚起を促しているようだ。レイスは対話を通し、次第に自分のいる現実の世界に気づき始めるが、少々遅すぎた。ペソアの言うには、人は死んでから本当に死ぬまで数カ月の余裕がある。彼はその時間を使って、友が悔いのない残りの人生を送れるように働きかけていたのだ。

別れを述べるペソアに、レイスが自分も一緒に行くという。本を手にしたレイスにペソアが言う。「その本は何のためなんだ、時間があったのに、どうしても読み終えることができなかったからだ、時間はないだろうよ、いくらでも時間はあるさ、君は思い違いをしている。読むというのがいちばん最初に失われる能力なのだ、覚えているかい。リカルド・レイスは本を開ける、何が何だかわからない記号、黒い走り書きの痕、よごれた頁が見える」

人は生きている時、自分は死んでいないと思っている。だが、死んだペソアに言わせれば「死と生は同じものだ」。死と生は並走している。自分が死んでいることに気づいてからでは遅いのだ。ペソアは、ポルトガルの人はかわいそうだ、と涙を流すが、当時のポルトガルに限った話ではない。今の日本でも同じだ。人は、もう本を読めなくなっている。よくよく見れば、われわれの目の前にあるのは「何が何だかわからない記号、黒い走り書きの痕、よごれた頁」ではないだろうか。