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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』 ロバート・クーヴァー

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19XX年のある冬の晩、ひとりの老人がヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に降り立つ。生涯を締めくくるにあたり、自伝的著作の最終章をまとめるため、人生の出発点ともいえる地を訪れ、自分を人間にしてくれた、あの人との関係を見つめなおす心積もりであった。老人の名はピノッキオ。かつての操り人形は、人間となった後アメリカに渡り、主にヴェネツィア派絵画を専門に研究した結果、ノーベル賞を二度も受賞するほど有名な大学教授となっていた。

しかし、駅で待っていたポーター、実は原作に出てくる狐で、相棒の猫と二人してまたしてもピノッキオを騙し、金を奪おうという魂胆。老教授はホテルを探して雪のヴェネツィアを連れ回される。原作と同じ「赤エビ亭」で散々飲み食いされた挙句、逃げられ途方にくれたところを懐かしいマスチフ犬のアリドーロに助けられる。冒頭から原作のエピソードが矢継ぎ早に繰り出され、これが『ピノッキオの冒険』のパロディーであることを読者に教えてくれる。

しかし、原作は「むかしあるところに」という、決まり文句で始まっており、「ピノッキオ」の舞台がヴェネツィアだとはどこにも書いてない。実は「19XX年」という記述を冒頭にもつ作品がいまひとつある。トーマス・マン著『ヴェニスに死す』である。著述に倦んだアッシェンバッハがヴェネツィア行きを思いつくのが同じ19XX年。陸路と海路の差に加え、季節のちがいこそあれ、『哀れな人』や『精神と芸術』という主要な著作の名、決して強くない意志と肉体に鞭打って学問上の業績を積み上げてきた刻苦勉励の人生、と人間になったピノッキオの後半生はフォン・アッシェンバッハから借りているのだ。

自分の本性を偽り、ただひたすら学問に励んできた老学徒が、人生の最後にそれまでの自分を全否定し去るような日々を生きることになる、という点で、この作品は『ヴェニスに死す』と同じ主題を共有する。芸術と実人生を天秤にかけ、外面的には芸術に価値を置いているように見せながら、その実、官能的な美には滅法弱く、頭の程度など問題にすることなくその色香に迷う老ピノッキオのみっともない姿は、トーマス・マンが格調高く描いたアッシェンバッハのカリカチュアであるが、正直なところを申せば、世の謹厳実直を絵に描いたような男たちの鎧を外した姿そのものである。

それだけに、老残の身を狐と猫に騙されて、またもや身ぐるみ剥がされてしまい、雪の降る街を重い荷物を引きずってホテルを探して回るところなど、初めは笑っていられても終いには、辛くて見ていられなくなってくる。世間的には名士となった今でも、その内実は操り人形であった当時のピノッキオと少しも変わらない教授は、友達に助けられた時は感謝をしても、すぐに誘惑に負けて裏切ることの繰り返し。まことに懲りない。だってそれが本質なのだ。色欲も物欲も名誉欲も全然枯れていない。

『ピノッキオの冒険』のエピソードを忠実になぞりながら、パワーアップした大人バージョンの色と欲の追求がはじまる。クーヴァーならではのとことん下品で卑猥な表現は、もとが子ども向けの話であるだけに、その冒涜ぶりが際立つ。カトリックの聖母信仰や純粋な母子愛などを信じて疑わない向きには到底許すことのできない破廉恥な叙述が溢れているので、とてもお勧めできない。こういう表現の仕方でしか現すことのできないものもあるのだと理解してもらうしかない。信仰心も道徳心も特には持ち合わせていない評者などには、ただただ暴力的に面白く感じられるのだが。

あらためて原作を読んでみて、自分がこんな話だと思っていた『ピノキオ』がディズニー映画その他の再話によって改変された毒にも薬にもならない類の話になっていたことをあらためて思い知った。原作は、欠陥も多いが、もっともっとあっけらかんと惨酷な場面も平気で描いた話だった。気になったのはその最後の場面。人間になったピノッキオがもとの操り人形を目にして言う言葉。「操り人形だったころ、ぼく、なんてぶかっこうだったんだろう!でも、いまではりっぱな子どもになって、ほんとにうれしいな!」。なんという上から目線の優生思想であることか。

ピノッキオが憧憬する恋人であり、母でもある「青い髪の妖精」がしたことは、悪戯はしても反省することのできる、生き生きした子どもらしい子どもであったピノッキオを、道徳的なお題目を説き聞かせることで、どこか「小国民」めいた少年にしつけることであった。どちらが語の真の意味での「操り人形」か。老教授となったピノッキオが自伝の最終章を書くためには、この妖精の真の姿を見極め、本来の自分を再発見することがどうしても必要だったのだ。

エロ・グロ・ナンセンス上等、スラップスティック・コメディ全開のノリでやってきた顰蹙物の小説が、最後の場面で見せる超絶技巧に目を奪われる。それまでの汚穢やみだりがわしさは影をひそめ、キリスト教が世界を席巻する以前の原初的な聖母子像が現出する、かと思ったら…ああ、やっぱり。ポスト・モダンの巨匠の名に恥じぬ傑作。