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青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『恋と夏』 ウィリアム・トレヴァー

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ロリアン・キルデリーの両親は画家だった。親は息子に期待したが、彼にその種の才能はなく、両親の死後相続した十二部屋もある屋敷を保持する経営の才能もなかった。借金返済のために売り払ってしまい外国にでも旅立とうと考えていた。そんな時、部屋の隅で埃をかぶっていたライカを見つけ、両親はどうして写真という芸術があることに気がつかなかったのか、と思いついたフロリアンは、写真を撮ろうと訪れたラスモイの町でエリー・ディラハンに出会った。

エリーは修道院で育ち、ディラハンの農場に雇われたあと、その後添いに修まっていた。孤児だったエリーには他に選ぶ道はなかったのだ。ディラハンは自らの過失で妻と子を亡くした過去を持つ男だが、実直で働き者だった。結婚したあともエリーの毎日は変わらなかった。帳簿を整理し、週に一度自転車でラスモイまで行き、用事を片づける。変わったことといえば夜のことだけだったが、二人には子どもができなかった。

エリーは一目見た時からフロリアンのことが頭から離れなくなってしまう。修道院暮らしのあとすぐに農場に入り、男は今の夫が初めてで恋などしたことがなかった。イタリア貴族の血を引く細い指先の男などはじめて見ただろう。初恋に胸を焦がす若い娘の気持ちに肩入れしたくなるのだが、夫が嫌な奴ならまだしも、真面目で面白みはないが仕事振りといい、妻への気遣いといい、好い奴なのだ。フロリアンの方も満更ではない様子で、二人は人目を忍び逢瀬を交わすようになる。

そんな二人を街角で見つけ、ただならぬ気配を感じたのが商用の旅行者用宿泊所、広場四番の館を経営するミス・コナルティーだった。母親を弔ったばかりのミス・コナルティーには母に愛された記憶がなかった。ずっと無視され続け、妻のある男との間にできた子は有無を言わせず取り上げられた。そんなミス・コナルティーはエリーの行末を案じ、弟に命じて男を追い払おうとする。弟はしかし姉の心配を真剣に取り扱おうとはしない。姉以外に町で二人の姿を見た者などいないのだ。

いや、実は一人だけいた。長い間リスクィンのセントジョン家の図書目録係をしていたオープン・レンだ。年老いて今は記憶が不鮮明になりつつあり、通りすがりの人をつかまえては長談義に耽る町の名物男である。レンは、たまたま町で見かけたフロリアンを長い間町を離れていた雇い主である名家の跡継ぎと勘ちがいしてしまう。この人違いが、デウス・エクス・マキナとなり、物語は思わぬ方向へと進んでゆく。

長くイギリスの支配を受け、独立のための戦いを経て、やがてアイルランド共和国となる国の歴史を背景に、没落した領主層の末裔と、貧困の中から地道に精進を重ね、少しずつ農地を獲得してゆく民衆の間に生じた恋愛沙汰は、よくある「ひと夏の経験」を描くもの。やがて立ち去ることになる町での行きずりの恋を楽しむ男に対し、女は自分の生のすべてを賭けて相対峙する。まっすぐな気性の女は、自分の恋の理不尽であること、夫に対する裏切り、神に背くことを悩み、恐れ、恥じるが、思いは止み難い。

誰もが顔見知りであるような田舎町のこと。二人が逢引きに使うのは町外れのラヴェンダーが咲き乱れるかつてのリスクィンの屋敷跡、あるいは売りに出されて家具もなくがらんとした在り様のフロリアンの屋敷だ。どちらも移り変わる時代についてゆけなくなった階層のかつての夢の跡であり、この恋の行方が暗示されている。仕事に行く夫を送り出したあと、エリーは自転車を駆って約束の場所へ急ぐ。よろめきドラマの王道だが、初めて恋を知った若い娘の行動だと思うとちょっと応援したくなる。

しかし、男には未来に対する展望がない。才能がないのではない。幼馴染みのイザベラには物書きとしての素質を認められ、励まされたこともあったのだ。問題は才能のあるなしではなく、がむしゃらに何かに一生懸命になることのできない薄志弱行の性格にある。金に不自由のない家に育った者特有の生きる力の弱さだ。だからひたむきに迫るエリーを前にしてだんだん腰が引けて行く。エリーの思いを受け止められないくせにずるずると関係を続けるフロリアンというのは傍目から見ればとんでもない奴だが、いるよねえ、こんな奴。とても他人事と思えない。こんな男と駆け落ちなどしたって幸せになどなれっこない。今となってみればミス・コナルティーは慧眼だった。しかし、エリーは自転車に乗る大きさのスーツケースを町で新調する。はてさてどうなることやら。

古典的な風格をそなえたラブ・ロマンス。とても八十歳の老人の筆になるものとは思えないみずみずしさに溢れている。特に、アイルランドの田舎の人々の日々の付き合い、植物や動物の生き生きした姿、特に豪華ではないが、地の人々が愛する食べ物や飲み物がふんだんに登場するところなど、じっくりと読む楽しみをあたえてくれる。ひと夏、アイルランドの片田舎に滞在し、町の人々と知り合い、ともに酒などを飲み、歌を歌い、ダンスに興じ、ときには噂話に花を咲かせたあと、秋の訪れとともに静かに町を去る。そんな思いに誘われる愛すべき作品である。