青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『最後に鴉がやってくる』イタロ・カルヴィーノ

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巻頭の一篇。もしこの世界がリセットできるものなら、こういうふうに始まるのかもしれない。そんなふうに思わされるほど、天上的で祝祭的な多幸感あふれる一幕劇。タイトルからして「ある日の午後、アダムが」なのだ。でも登場するのはアダムとイブではないし、舞台はエデンの園でもない。イタリア北西部のリグーリア。早朝には洋上にコルシカ島が見える、カルヴィーノ少年が育った土地。だから、人類が楽園を追放された後の話だ。

ある日の午後、新しい庭師がマリア=ヌンツィアータの前に現れる。半ズボンをはいた少年は長い髪にクロスにした布を巻いていた。名前はリベレーゾ。エスペラント語で「自由」という意味だ。長い髪をした少年の父は菜食主義者アナキストで、少女はカラブリア人でカトリック。十五歳の少年と十四歳の少女の会話はいまひとつ噛み合わないが、少年は少女にプレゼントがしたい。

皿洗いをしているマリアに外に出てくるよう誘ったリベレーゾが「いいものあげる」と言って見せるのが蟇蛙。マリアが嫌がると、次々に手から現れるのが、ハナムグリカナヘビ、蛙、ヒメアシナシトカゲ、それに金魚。奥様に呼ばれて一度は奥に引っ込んだ後、調理場に戻ってきたマリアがお皿や片手鍋、クリスタル・グラスや盥の中に見つけたのは…。

楽園にいる間、ヒトと他の生き物に差はなかった。バベルの塔が建設されるまで、世に住む人たちは同じ言葉で話していた。そんなことを思い出させるマリアとリベレーゾのあどけない会話が続く。ベルガモットを育てるくらいしか仕事を知らないマリアと、父の見せてくれる世界を知るリベレーゾがまったく異なる世界に足を置きながら、次第に距離を詰めていくのが、ういういしく期待感に満ちて心躍る。

このドキドキワクワク感はどこから来るのだろうと考えて、作品の成立した時期に思い至った。イタリア解放後間もない頃に書かれている。パルチザンとして戦闘に加わっていたカルヴィーノにとって戦争が終わったことの喜びはいかほどだったろう。新しい世界への期待、希望といったものが、この作品の背景になっているのではないだろうか。名前も仕事も信じるものも全く異なる二人が、ある日の午後、出会う。その邂逅を小さな生き物たちが祝福する。邪魔する者など誰もいない二人だけの祝祭劇だ。

後に多様な手法を試すことになるイタロ・カルヴィーノの初期の短篇集。しかし、若書きという印象はまったくない。しっかりした観察にもとづいた自然描写といい、人間を見るときの冷静な視線といい、すでに一家を成している。パヴェーゼの勧めで長編を書くようになるまで、カルヴィーノは短編を書きたいと言っていたそうだ。よく切れるナイフで木の枝をスパッと切り落としたような切り口の鮮やかさが際立つ短編集である。

作家自身が短篇集を主題ごとに三つに分けている。「ひとつ目はレジスタンス(あるいは戦争や暴力)の物語。ふたつ目が終戦直後のピカレスクな物語。三つ目が、少年や動物の多く登場する、リヴィエラリグーリア海岸)の風景が顕著なもの」である。「ある日の午後、アダムが」は三つ目に属する。戦争を描いてもカルヴィーノの筆は極端に悲惨なものや醜いものばかりを描かない。対象から距離を置いた視点のとり方が絶妙で、救いようのない状況下でも人物たちは飄々とした軽みを負わされている。

喜劇的なタッチも特徴で、「犬のように眠る」や「十一月の願いごと」などの作品には、飢えや寒さを頭と体を使って何とかしのいで懸命に生きる人々の姿が軽妙に描かれている。リラとドルの交換で儲けようとアメリカ人水兵が集まる酒場に出向いた妻が男たちに囲まれて出てこられないのを救い出そうとして、夫が駆け回るドタバタ劇を疾走するような笑いで描き切った「ドルと年増の娼婦たち」がおかしい。

集中、印象が強いのはひとつめの戦争を描いたグループだろう。表題作は銃の腕を見込まれた少年が、パルチザンと行動を共にするうち、勝手に撃つなと言われたのが不服で銃を持ち出し単独行動をする話。少年は好奇心で獲物を決める。野兎や蝸牛のこともあれば、軍服の金ボタンや肩章のこともある。追いつめられたドイツ兵は、少年が頭上高く飛ぶ鴉を撃つ間に逃げようと「あそこに鴉がいるぞ!」と叫ぶが、少年の撃ったのは翼を広げた鷲(紋章)の方だった。戦争を少年のイノセンスで切って見せるところがカルヴィーノらしい。

一篇一篇味わいの異なる二十三篇。どれから読んでも、どこでやめても構わない。奇妙な味の話もあれば、底知れない怖ろしさを感じる話もある。短篇の良し悪しは、どこで終わるかという点にあると思っている。まだまだ山道が続くと思っていたら、突然足もとの道に先がないのを発見したような、ストンと切って落とされた結末の寄る辺なさを是非ご賞味あれ。

『最後の注文』グレアム・スウィフト

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ロンドンのバーモンジーにあるパブ、馬車亭のカウンターに男が三人座っている。黒いネクタイをした小男がレイ。赤ら顔の男がレニー。やはり黒いネクタイをしてボール箱を抱えているのがヴィックだ。そこにロイヤル・ブルーのベンツで乗りつけてきたのがヴィンス。四人はこれからマーゲイトに行くことになっている。箱の中に入っているのは男たちの仲間で肉屋のジャックの遺灰だ。ジャックは死んだら遺灰をマーゲイトの桟橋から撒いてくれとラスト・オーダーを残していた。

でも、なんで最後の注文がマーゲイトなんだ?それに、ジャックにはエイミーというかみさんがいるのに、どうしていっしょじゃないんだ。それにレニーは何かとヴィンスにからむし、雲行きが怪しいのは天気だけじゃなさそうだ。馬車亭で一杯ひっかけた男たちはドライブに繰り出す。途中ロチェスターによって雄牛亭でまた一杯、チャタムで海軍戦没者慰霊碑に立ち寄り、「ウィックズ・ファーム」に寄り道し、カンタベリーで大聖堂を見学してからマーゲイトに向かう。その間にそれぞれの男や女の込み入った関係が本人の口を通して語られるという趣向だ。

この小説は七十五の短い章で成り立っている。上に地名がついている章の語り手は保険会社に勤め、みんなにレイちゃんと呼ばれているレイで、それ以外の章には語り手の名前がついている。ひらがなが多いのは、語り手がロンドンのバーモンジーに住む労働者階級で、当然その話し言葉コックニー(下町なまり)だからだ。さかんに登場する洒落や地口の翻訳に訳者の苦労がしのばれる。この語り口調がよくてページを繰る手が止まらない。

第二次世界大戦前から現在に至るまで英国がたどってきた「大きな歴史」と、ロンドンの下町に暮らす人々の「小さな歴史」がからみあって様々な人生模様を織りあげる。とはいっても、ワーキング・クラスの暮らしに大した出来事は起きない。どちらかといえば人生思った通りに事は運ばず、あてがいぶちでがまんして、といった冴えないエピソードばかり。その合間合間に男たちが道中繰り広げるビールとウィスキーの梯子酒、立小便、いさかいや仲直りがペーソスを湛えてたっぷり提供される。

たとえばレニーだ。言わなくていいことばかり言う男だが、そこそこいけるボクサーだったところを徴兵にとられ、ブランクがたたった。タイトル戦でノックアウトされて望みが断たれた。ジャックは本当を言うと医者になりたかったが父親が許さず肉屋を継いだ。小柄なレイは騎手に憧れたが、くず鉄商の父親は会社員にしたがった。保険屋になった今では競馬は競馬でももっぱら賭けるほうだ。レイが好きだったのは姉のデイジーだったが、妹のキャロルと一緒になった。そのキャロルは男を作って逃げた。

ジャックとエイミーは惚れあって結婚したが、生まれた娘は脳に重い障碍を負っていた。しかもエイミーは二度と子の産めない体になった。ヴィンスはジャックの実の子ではない。ドイツのV型爆弾の爆撃で両親が死に、一人だけ助かったのをエイミーが引き取ったのだ。それなのにヴィンスは肉屋の後を継ぐ気がない。思い通りに事が運んだことのない男たちには、自分のしたいことをして着々と商売の規模を広げていくヴィンスは気に障る存在なのだ。

老人たちの世代は親の家業を継ぐか、親のいう職業に就くかしか選択肢はなかった。その妻にしても、働くことしか知らない男と暮らしていて、町を離れたこともない。それなのに、子どもの世代は好き勝手なことをして、親から離れていく。同世代であっても互いの暮らしぶりに目を留めれば、いろいろと考えることはある。屋台の八百屋のレニーにはジャックのような車がない。娘を海に行かせるのに肉屋のヴァンに乗せてもらうしかない。それでも、ジャック夫婦にはいない娘が、自分にはいると思えば留飲は下がる。

一事が万事この調子だ。レイ以外の語り手の視点はほぼ内言だから、全部本音だ。仲間には言えないこともぶちまけている。長年の友達付き合いだが、本音はちがう。隠しごともあれば、嫉みもある。それでも、なんとか表沙汰にせず、ここまでやって来たし、これからもやっていかなければならない。なぜなら、彼らにはそれしかないからだ。今でも夢見てはいるが、今さら新しい人生が始まるわけもない。今までやって来たように続けていくのがいちばんだ、と心の底では思っている。

泣きたくなるような暮らしぶりはお互い様。東洋の島国に住むこちとらだってさほど変わりはない。やってられないような毎日を、何とか家族や友達と顔突き合わせてやっていくしかない。夢見たことはかなわない。好きな相手とは結ばれない。大事に育てた子どもたちは勝手な暮らしをはじめている。過去のモラルは見捨てられ、新しい時代は自分を無視してはじまっている。どうしようもないが、そこで何とか生きるしかない。うだつの上がらない老人の悪戦苦闘を見守るような小説世界がなぜかとっても身近に感じられる。老人だって、死ぬまでは生きていかねばならない。

映画にしたらいいロード・ムービーになるな、と思っていたら、ジャックをバーモンジー出身のマイケル・ケイン、エイミーをヘレン・ミレンというキャスティングで2001年に映画化されているという(<Last Orders>フレッド・スケピシ監督)。日本未公開らしいが、TVかどこかで見られないものだろうか?「レイちゃん」と訳されているところ、本当は何と呼んでいるのか知りたくてたまらない。

『動く標的』ロス・マクドナルド

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ハメット、チャンドラーの後継者と呼ばれたロス・マクドナルドの手になるロスアンジェルスの私立探偵リュー・アーチャーが活躍するシリーズ物の第一作。何十年も前に訳されたハードボイルド小説の新訳である。どうして今頃になってと思うのだが、村上春樹の新訳が出たことでチャンドラーを読み返すことになった。新訳と旧訳、さらには原書を読み比べるという愉しみも見つけた。きっとこれも新しい読者を見つけるだろう。

サイコパスシリアルキラーが、考えられないような残酷な犯罪を犯すのが、昨今のミステリ界。それに倦んだ読者が古典的なミステリを希求している、ということがあるのかもしれない。ヴァン・ダインディクスン・カーなどの新訳も出ている。そういう意味ではこの作品、どこにでもいる普通の人々の中に潜む邪悪な心というものに目を向けているという点でぴったりかもしれない。

時は第二次世界大戦が終わって間もない頃、舞台はサンタテレサという名に変えられているが、南カリフォルニアのサンタバーバラ。そこに住む石油業界の大物サンプソンが行方不明になり、お抱え弁護士アルバート・グレイヴズの紹介で、私立探偵リュー・アーチャーが夫人に捜索を依頼される。アルバートは元検事でアーチャーは検事時代、彼の下で働いていた、という設定はチャンドラーのマーロウとバーニー・オールズの関係に倣ったのか。

サンプソンという人物は実力で成り上がったやり手だが、息子が戦死してから酒浸りとなり、星占いや怪しい宗教に入れあげて、家族が危ぶむような生活を送っていた。足に障碍を持つ妻との関係は冷え切っており、娘のミランダを溺愛していた。もし死ねば遺産は妻と娘で二分される。ミランダはお抱えパイロットのタガートという青年に夢中だが、タガートには他に好きな相手がいるらしい。アルバートミランダに求婚中で、それは父の認めるところだった。

被害者の死で利益を得るものが犯人というのは常識だが、起きているのは誘拐で、十万ドルという身代金は五百万ドルという遺産総額と比べると高が知れている。被害者の交際相手を調べていくうちに、捜査線上に次々と怪しい人物が浮かび上がってくる。酒がなくては自分を扱いきれなくなっている大金持ちにたかる、いずれも裏に事情のある危険な連中だ。

星占いが得意な落ち目の映画女優、その夫で危ない稼業に手を染める白髪の英国人、山上の小屋で太陽神崇拝に耽る似非宗教家、コカイン中毒で身を持ち崩した女性ジャズ・ピアニスト、と一癖も二癖もある人物が交錯し、テンポよく物語は進んでゆく。身代金をめぐっての仲間内の抜け駆け、裏切り、それに遺産をめぐる三角関係がからみ事件は錯綜する。アーチャーは事件解決の糸口を見つける。しかし、そこには思いもよらない結末が待っていた。

家族を主題とする物語であり、それに終わったばかりの戦争が影を落としている。家族の誰にも愛されていた息子の戦死が父と母を苦しめ、兄の代わりになれない妹を苦しめている。戦争当時は空の英雄ともてはやされた元パイロットの青年は、戦争が終わってしまえばただの人だ。亡き息子の身代わりとして金持ちに雇われ、自家用機のパイロットでもするしかない。金の力が人と人との間に軋轢を生じさせ、思わぬ事態を招くことにもなる。

よく練られたプロットで、特別な悪人ではないごくごく普通の人間が、ある状況下で次第に追い詰められていき、犯罪に手を染めるまでに至るプロセスが子細に描かれている。謎解きにはそれほどこだわらないハードボイルド小説でありながら、叙述はフェアで、目を留めて置かねばならないところには的確に目配せがされており、再読すれば、そこに書かれていることの意味がよく分かる。

一つだけ気になったところがある。終始サンタテレサで通しておきながら、アーチャーが情報局時代の上司に連絡するところで「あなたのボスにサンタバーバラの検事と連絡を取るよう言ってください」という箇所(P.181)がある。ここは原作でもそうなっているのだろうか?それとも訳者のミスだろうか。旧訳に当たってみようと思ったのだが、手元にない。気になって仕方がない。

『昏い水』マーガレット・ドラブル

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老人施設の調査研究を仕事にするフランチェスカ、とその息子で今はカナリア諸島に滞在中のクリストファーという二人の人物を軸にして、二人をめぐる家族、友人、知人が多彩に出入り、交錯する。短い章ごとに視点人物が入れ替わり、それぞれの視点で語られる挿話は、人物の内省やさりげない日常の断片であったり過去の回想であったりと様々だが、ひとまずは老いを主題にしていると言っていいだろう。

とうに七十の坂を越えながら、見知らぬ他人と何時間も一緒に過ごすのが苦痛という理由で、一人プジョーを駆ってイングランド中を駆け巡るフランが出会うのは、老人がその大半。迫りくる死期、弱りつつある身体能力、病からくる痛みと向き合いながらも、それぞれが自分の流儀で日々を生きる姿を、英国流のヒューモアと辛辣な人間観察によって、リアルに生き生きと浮かび上がらせる。

フランが住んでいるのは高層住宅。エレベーターがよく止まるので階段を上り下りしなければならない。少し躁じゃないのかと息子が思うくらい、常に動き回っていないといられない性格なのだ。仕事に出ていないときは、別れた夫で今はほとんどベッドに寝たままの元医師クロードのところにタッパーに詰めた手料理を届けたり、友人のテリーサやジョゼフィーンを訪ねたりと日々忙しく暮らしている。

老歴史家のサー・ベネットとその世話をしているアイヴァーが暮らすのは、北西アフリカ沖にあるスペイン領カナリア諸島のひとつランサローテ島。クリストファーの妻セイラは、この島でテレビ番組の取材中に突然倒れ、急逝したばかりだ。その時親身に世話を焼いてくれたのが、ベネットとアイヴァーの二人だった。事後の処理も兼ねて、島を訪れたクリストファーはベネットの住む「スエルテ荘」に厄介になっている。

社会的には中流にあたる階層の人々が多く、話題に上るのは文学や歴史、美術、音楽で、それもかなり突っ込んだ内容。たとえば、寝たきりのクロードの楽しみがマリア・カラスを聴くことだと言われれば、特にオペラ好きでなくても分かるかもしれないが、中皮腫を病んで体力が衰え、本棚の上の画集を取ることが難しくなったテリーサの兄が、ヤコポ・ダ・ポントルモの専門家と紹介されて、その絵が思い浮かばなければ、愉しみも半減してしまう。

フランのもう一人の友人ジョゼフィーンはケンブリッジのアテナ館に住む英文学研究者で今も週に一度成人学級を担当している。その研究テーマは「死んだ妻のまだ生きている姉妹」というものだ。週に一度木曜の夜に酒を飲む相手が同じ研究者仲間のオーウェンで、ケンブリッジのリーヴィス一派である。このオーウェンとベネットは旧知の仲というように、イングランドカナリア諸島は、この他にもいくつもの線で繋がっている。

特にこれといった出来事が起きるわけではない。いちばんそれらしいのが、雨の中、湿地帯にある老人施設を訪れたフランが冠水した道路で立ち往生する場面なのだから推して知るべし。やむを得ず近くに住む娘の家に泊まることにしたフランは、地球環境を専門にしている娘の異常気象観測プログラムで、カナリア諸島の海底火山の活動が活発化していることを知り、息子にメールを送る。その頃クリストファーはベネットが倒れて、窮地に陥っているアイヴァーに寄り添っていた。

ベネットとアイヴァーは長いつきあいだが、同性婚をしているわけではない。ベネットが腰の骨を折ったことによって一時的に正気を失っていることがアイヴァーの苦境の原因だ。実質的には家族でも法的には他人である。もしものことがあれば、この異国の地で住む場所を失ってしまうことになる。陽光にあふれ空気の乾燥したカナリア諸島の暮らしを捨てて、じめじめしたイングランドに帰る気のしないアイヴァーは、今まで封印してきたベネットの遺言を読もうと決意する。

大した事件は起きないが、ベネットはただ転んだだけで正気を失うし、テリーサも書棚の踏み台から足を滑らせたのが原因で死期を早める。老人にとってはちょっとしたことが命取りなのだ。七十をこえてもバリバリ現役のフランやジョゼフィーンだが、フランは運転はできても電気系統には疎い。ジョゼフィーンヌにしてもDVDの取り扱いがよく分からない。そうした小さなことが老人を生きづらくさせている。彼女らよりは少し若い自分にも身につまされることは多い。

難民問題や民族独立といった政治的な課題から、同性愛者の抱える不安、老人問題といった身近な話題まで、多彩な話題を多くの人物に振ることで、ストーリーらしきもののない身辺小説的な話に立体的な構造を持たせることに成功している。女性の髪形や服装、化粧といったディテールを微細に描き分けることで、人物の個性を際立たせることの巧みさはいうまでもない。フランお手製の料理はイギリスの食事がまずいという先入観を打ち破るものだし、ワインやアブサンといったアルコール類への目配りも利いていて読む愉しさに尽きない。

エピグラフに引いたD・H・ロレンスやW・B・イェーツをはじめとする作家や詩人への言及もたくさんあるので、英文学愛好家には何かと読みどころが多い。何より個性あふれる人物が魅力的で、個人的には寝たきりの身でありながら美貌のジンバヴウェ人介護士を口説くことに成功する食えないオヤジのクロードに親しみを覚えた。飲み食いだけでなく、知的な会話や活動を含め、老いを描いているのに少しも枯れを感じさせない。これは国民性の違いだろうか。

日常会話の中にシェイクスピアギリシャの古典、ベケットの戯曲、イェーツやロレンスの引用が頻繁に出てくるのは文芸評論家でもある作家ゆえかもしれないが、体が動かなくなるにつれ、人との交流は会話が中心になる。その際に、どれだけの引き出しを持ち、互いに相手ができるかが大事になる。医者通いや我が子の愚痴が共通の話題では悲しすぎる。我が身を振り返っても、文学の話のできる友人は身近にはいない。残り少ない人生を楽しく語り合える友を持つフランやジョゼフィーンが羨ましく思えた。

『ブッチャーズ・クロッシング』ジョン・ウィリアムズ

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ジョン・フォード監督に『シャイアン』という映画がある。いつもの白人の視点ではなく、不毛な居留地に閉じ込められたインディアン側に寄り添った一味違う西部劇だ。約束を守らない白人に業を煮やしたシャイアンの部族全員が故郷に帰る決断をする。苦労を重ねた末にたどり着いたそこには、彼らの生活の糧となるはずのバッファローの白骨が散乱していた。白人がコート用の毛皮を得るために狩りつくしていたのだ。

インディアンは皮だけでなく、肉は食料に骨はナイフや矢じり、針とバッファローを使い切る。それを白人は毛皮だけのためにほぼ全滅させた。何よりそれがネイティブ・アメリカンの命脈を断ったのだ。『ブッチャーズ・クロッシング』は、そのバッファロー狩りを主題に描いたものである。それも極端にミニマムの視点で、一人の猟師が一シーズンにどれだけの数のバッファローを殺すことができるのかを克明に記す。

チームの人数は最小構成で四人。猟師(ハンター)が一人、皮剥ぎ職人が二人、料理その他を取り仕切るキャンプ係が一人。彼らは獲物がいる場所まで来る日も来る日も旅をする。猟場に着いて肉が手に入るまでは、豆とベーコンとコーヒーという食事。川筋から離れ平原に入ると水すら飲めなくなる。用意した水が切れるまでに次の水場に着けるかどうかがリーダーの能力にかかっている。だから、リーダーの指示には絶対に服従しなければならない。

この小説でリーダーを務めるのはミラーという猟師だ。他の流れ者や南軍くずれとちがい、彼はこの地方をよく知る本物の猟師である。人を雇って猟をさせ、毛皮を鞣して売る商人マクドナルドは彼を雇いたがるが、彼は自分のやり方で猟をすることにこだわり、首を縦に振らない。狩猟隊を組むには元手が必要だ。獲った毛皮を運ぶ荷車とそれを牽く連畜、銃と火薬、食料に馬等々、一介の猟師には手が出ない金額になる。だから、ミラーは獲物の大群がいる場所を知りながら、ここ十年狩猟隊が組めていない。

そこに、語り手の青年がボストンからやってくる。カレッジを三年で中途退学し、ラルフ・ウォルド・エマソンの思想にかぶれ、自然の中で自分の生き方を見つけたいとおじの遺産を胴巻きに入れて、はるばるブッチャーズ・クロッシングにやって来たのだ。この地で皮商人を営むマクドナルドはボストンにいた頃、ユニテリアン派の在俗司祭を務める父の教会に顔を出していた。父の紹介状を手にしたウィリアム・アンドリューズは、ホテルに着くと真っ先にマクドナルドをたずねる。

商人は若者の軽はずみをいさめるが、気のはやる若者は聞く耳を持たない。そこで、マクドナルドが紹介したのがミラーだ。自分のいうことは聞かない男だが、誰よりもこの地方をよく知る男で、古い知人の息子を委ねる相手としては彼をおいて他にないと判断したからだ。ミラーと会って話を聞くうちにアンドリューズは狩猟隊を結成するのに自分の所持金を提供することを決める。その代わり自分も一緒に連れていってほしいという。

ミラーがバッファローの大群を見つけたのは、カンザスから二週間ほどかかるコロラド準州。ビーバーを狩りに入った山で偶然に見つけた。山間に隠れた谷の下に広がる平地で、多分白人は誰も知らないが、四、五千頭はいるという。猟の方法は、猟師が一日がかりで仕留めたバッファローを一晩中かけて皮剥ぎ職人が皮を剥ぐ。キャンプ係はその間に料理したり、牛や馬の世話をしたりする。単調な作業の繰り返しだ。アンドリューズはシュナイダーという皮剥ぎ職人に教えてもらいながら皮剥ぎを手伝う。

三部構成で、一部と三部はブッチャーズ・クロッシング、第二部がバッファロー狩りの旅が舞台。第二部が小説の中心だが、刊行当時ウェスタン扱いされたこの小説は不評だったという。さもあらん。舞台こそ西部だが、これはその手のウェスタンとはちがう。終始一貫してバッファロー狩りだけを追う、ある意味、ノンフィクションのような味わいがある。無論、人物同士の葛藤や、猛威を奮う大自然との格闘があって、スリルやサスペンスに溢れていて、面白さは格別だ。

特にミラーという猟師の人物像が魅力的だ。誰にも頼らず、自分の足で好きなところに行き、好きなように生きる。それも大都会ではなく、道などない手つかずの大自然の中だ。携行する道具は最小限。狩りに使う弾丸も自分で金属を熔かし、火薬を詰めて作る。雪に降り込められたら、避難小屋も建て、猛吹雪の中で獲物の毛皮を細工して寝袋も作る。沈着冷静にして穏やかだが、一度これと決めたら譲らない頑固さもある。アメリカ人の理想のような男である。

ところが、至極頼りになるこの男が豹変する場面がある。バッファローの大群に一人で立ち向かう時だ。リーダーを殺されたバッファローは、うろたえ怯えるばかりでうまく逃げることもできない。その相手を、Y字型の木の枝を支えにして、狙いをつけては心臓か眉間の間を撃つ。銃が熱を持つと交換し、一日中撃ち続ける。これはもう、狩猟というよりただの大量虐殺である。必要十分な数の毛皮を得ても猟をやめて帰ろうとしないミラーにシュナイダーが噛みつくが、撃てる限りのバッファローを撃ち殺すまで、ミラーはやめない。

ふだんは頼りがいのある有能なリーダーなのに、銃を手にすると人が変わったようになる。相手が、自分たちと同じ「人間」ではないからだ。ミラーはその猟場のことを「遠い昔にインディアンが来たかもしれないが、人間(傍点二字)はまだだ」と発言している。つまり、彼の眼にはインディアンは「人間」として見えていないのだ。ならば、相手がインディアンだろうが、黒人だろうが、黄色人種だろうが、ミラーにとってはバッファローと変わらないのではないだろうか。

法が支配する町では出来ないことも、西部のフロンティアなら可能だ。力さえあれば土地も獲物も金も思い通り手に入れることができる。アメリカ人の頭からはこの考え方が抜けきらない。ヴェトナム戦争時代に書かれたというが、湾岸戦争でもイラク戦でも、現在のシリア情勢でも銃を手にしたアメリカという国の振る舞いにはミラーを思わせるところがある、と思うのはうがちすぎだろうか。

シュナイダーの忠告を聞こうともしないミラーは、そのために重大な判断ミスを犯す。雪が降りはじめるのだ。大量の毛皮を積んだ荷車を牽いて雪山を出ることは到底不可能。四人は人里を遠く離れた山中で雪が融ける春まで越冬しなければならなくなる。無論シュナイダーはミラーと険悪になるし、以前雪山で凍傷になり、片手を失ったキャンプ係は正気を失いかける。攻める時は果敢だが退き時を誤り、大きな被害を被る点もミラーはアメリカに似る。

大自然の中での経験が主人公の人間的な成長を描くことが主眼と思えるのだが、訳者あとがきで、エマソンの思想に触れて、訳者はアンドリューズが赴いたコロラドのような大自然バックカントリーといい、エマソンのいうカントリーとは、都市の周辺に残る人間に管理されたフロントカントリーのことだという。自然に触れる中で本来の自分を見つけようとした若者が、触れるべきでない大自然に飛び込んでしまった結果、何を得て何を失ったのだろう。馬に乗って町を出る青年の遠ざかる背中を見つめ、そう思った。

『マザリング・サンデー』グレアム・スウィフト

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一九二四年のマザリング・サンデー、三月三十日は六月のような陽気だった。マザリング・サンデー(母を訪う日曜)は、日本でいう藪入り。この日、住み込みの奉公人は実家に帰ることを許される。そのために雇い主の家では昼食をどこかでとることが必要となる。料理をする者が暇を取るからだ。ニヴン家のメイドであるジェーン・フェアチャイルドは孤児院育ちで帰る家がなかった。ジェーンはニヴン氏にお許しをもらって家にとどまり、外のベンチで本を読もうと思っていた。

そこに電話がかかってくる。相手はポール・シェリンガム。ご近所に住むシェリンガム家の一人息子で、もうすぐ結婚が決まっているが、七年前からジェーンとこっそりつきあっている。エマ・ホプディと結婚すれば、二人は二度と会えなくなる。両親も使用人もいなくなるこの日が二人で過ごせる最後の一日だった。ポールはジェーンに家に来るよう誘った。ジェーンは主人の手前、間違い電話の振りをしながら同意の由を伝えた。

誰もいない家の中、ことが済んで裸のままの二人がベッドの上で煙草を吸っている。男は二十三歳、女は二十二歳だ。今日もこの後、婚約者と会うことになっている男の悠揚迫らぬ態度を見ながら女は考える。その間、男は時間をかけて服を一つ一つ身に着けてゆく。まるで結婚式にでも行くような正装だ。それを見ながら女は、裸のままでベッドに寝そべり、男の結婚相手のことを考えている。男は女に服を着るよう命じもしないし、自分も急がない。

三月なのに六月のような好天の日曜の午後、開け放たれた窓からは日が差し込み、鳥の鳴き声が聞こえている。着替えを終えた男は、彼女一人を残し、車で出てゆく。残された女は、裸のままで屋敷の中を探検する。今日一日だけは何をしても許される、それが彼の最後の贈り物のように思えたからだ。

不思議な小説である。性体験はすでにある二十二歳の女性の目で見たことが語られるのだが、言葉があけすけで、慎み深さが感じられない。普通ならいくら男女の間であっても、メイドと他家のお坊ちゃんだ。言葉遣いや態度にそれらしい関係が出るはずではないか。話が進むにつれ謎が解けてくる。実は話者は小説家で、今読者が読んでいるのは、その小説なのだ。

小説家ジェーン・フェアチャイルドは九十歳になっている。インタビューでは、いつ小説家になったのか、と必ず聞かれる。そのひとつが、この日だった。この特別な日、彼女の胸に湧き起こった、自分の人生が始まったという自由の感覚だ。それは家の探検を終え、服を着て玄関の扉に鍵をかけ、言われた場所に鍵をかくして自転車で走り出した時に感じた。自分の人生は終わったのでなく今始まったばかりだ、という感覚だ。年に一度の休暇はまだ残っている。どちらに自転車を走らせるか、ジェーンは迷う。

まだ運命の出来事は起きていない。小説家は、インタビューに答えるように、自分の過去を語りはじめる。孤児院で育ち、十四歳で奉公に出た。読み書きができ、計算もできる彼女は雇い主に重用され、図書室の本を読む許可も貰う。冒険小説が好きだった。やがて、スティーヴンソンの『宝島』その他の小説を経て、この日はコンラッドを読んでいた。『闇の奥』ではない。『青春』だった。

不思議な小説である。老作家の考える小説論が、書きかけの小説の中に混じり、後に結婚し、早くに死に別れた夫との思い出話が挿入される。言葉に敏感な娘だった時代のある種の言葉に対する違和感が語られる。「それにしても、へんてこりんなことばだ、『ズボン(トラウザーズ)』って」。<trousers>のどこがおかしいのか、このあたり、訳注があってもいいと思う。少なくとも自分は知りたいと思う。

ミステリではないし、途中でジェーン自身も明かしてしまうから書くが、この日ポールは事故を起こして死んでしまう。婚約者との待ち合わせに遅れているので、裏道を飛ばし、曲がりくねった細道で木に衝突したのだ。ただの事故なのかもしれない。しかし、ニヴン氏はシェリンガム邸に出向いて、何か書いた物が残っていなかったかメイドに尋ねている。一日のうちに自分に起きた自由の感覚と大きな喪失感。人生というものの謎めいてはかり難いことへの衝撃が一人の作家を生んだのかもしれない。

ある日の一日限りの出来事の記憶の想起と、想像力豊かな作家のそれに対する自己の批評を絡み合わせ、なおかつ第一次世界大戦の少し前、一九〇一年生まれらしい孤児が老作家になるまでの人生を撚り合わせるという凝りに凝った中篇小説である。読後心に残るものの豊饒さと静謐な印象に圧倒される。

『雪の階』奥泉光

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武田泰淳の『貴族と階段』、松本清張の『点と線』を足して二で割ったような小説。二・二六事件前夜の緊迫した政治的状況を背景に、伯爵家の令嬢が友人の死の謎を解く、ミステリ仕立ての一篇である。特筆すべき点は、元ネタとして、上に記した二作品をフルに使いきっていることだ。自炊用にバラした二篇を適当につなぎ合わせて筋が通るように手直しし、一篇に仕立て直したような凝った作品になっている。

貴族院議員笹宮惟重伯爵の娘で女子学習院に通う惟佐子には宇田川寿子という親友がいた。松平侯爵邸のサロン演奏会のあと、外苑で花見をする予定でいたのに、寿子は演奏会を欠席した。その後も連絡がなく、心配していた惟佐子が事実を知ったのは数日後。寿子の死体が発見されたからだ。寿子は久慈という青年将校と富士の樹海で情死していた。

しかし、惟佐子には寿子が心中したとは思えなかった。惟佐子宛の仙台中央の消印のある葉書には「くわしいことは帰ったら話す」と書かれていたからだ。貴族の娘で外出もままにならない惟佐子に代わり、この謎を追うのが、幼い頃の惟佐子の「おあいてさん」になっていた惟佐子が「ねえさま」と慕う千代子。新米写真家の千代子は蔵原という顔見知りの記者と二人で、心中事件の謎を追う。

惟佐子をめぐる出来事が『貴族の階段』をモチーフにし、千代子と蔵原のコンビが鉄道に乗って事件を捜査する『点と線』の刑事二人に擬されている。情死に見せかけての殺人事件を冒頭に配したのは『点と線』に対する挨拶。ならば、二つの小説を読んでいないと面白くないかといえば、そんなことはない。むしろ、知らずに読む方が面白い。既読であればあまりにそっくりなぞられていることがかえって煩く感じられるにちがいない。

というのも、恐らく作者はそういう仕掛けを施すことで、かえって自由気儘に小説世界を遊ぶことができるからだ。二・二六事件に関する資料や稗史を大胆に活用して、かなりアブない小説世界を展開してみせている。霊能者や霊夢、神智学、神人、獣人といった概念を日本という国家と絡み合わせ、天皇親政を目指して決起した青年将校の動きを利用し、別の目論見が進行していたというのだ。

三千年も昔のアメノミナカヌシノカミに始まる純粋日本人の系譜が廃れ、大陸から渡ってきて日本を席巻したのがヤマト民族、つまり現在の日本人で、かつては神人の純粋な血であったものが、今ではヤマト民族と混血することで濁ってしまった。この穢れた血を廃することが肝要だ、というのが惟佐子の母方である白雉家の伯父惟允の考えだ。とんでもない内容で、ナチスアーリア人種を優先し、ユダヤ人弾圧につながる同系の理論である。

惟佐子の兄、惟秀は伯父の思想を受け継ぎ、二・二六事件を利用して皇居に入り、天皇を人質にしてクーデタを起こそうという妄想に支配されていた。白雉家こそが、純粋日本人の血を引くわずかな生き残りだからだ。一方でこの白雉家の血を継ぐ者は淫蕩で乱倫、同衾相手は男女を問わないというもの。惟佐子にもその傾向があるのは次第に明らかになる。没落貴族の退嬰的な風俗描写は『貴族の階段』由来であろう。

それに食傷気味になるだろう読者を意識して、食欲旺盛で健康的な千代子と新聞記者をやめて出版社を始める蔵原という健全なコンビがいる。なかなか進まない恋愛模様が、事件の捜査と共に進捗する。男に混じって三脚や重いカメラバッグを持って駆け回る千代子がいなければ、この小説は胸につかえる。どこまでが事実で、どこからが妄想なのか、スパイ疑惑や組織による暗殺、放火殺人といった不審な事件が二人の行く先々で待ち受ける。

もとにしたネタがあるのだから、話の行き着く先は決まっている。広げに広げた大風呂敷をどううまく畳んでみせるかが腕の見せ所である。一応合理的な解決がなされているが、オカルトめいた世界をすっかり払拭するところまではいかない。惟佐子にはこれから先の日本が戦争へと向かうことや国土が焼尽に帰すことまで見えているようなのだ。つまり、結末の明るさは蝋燭が消える前の束の間の明るさに過ぎない。

白雉家の血を引く清漣尼がいう。この国をヤマト民族に任せておけば、戦争で滅ぼされてもまた同じことを始めるだろう。なぜなら彼らは自分で自分を滅ぼしたいのだ。この言葉が妙に心に残る。敗戦以来一人の戦死者も出さなかった憲法を変え、軍隊の持てる国にしたいという人間を国民が支持するのだ。清漣尼の言う通りではないか。今頃、『貴族の階段』や『点と線』を持ち出した作家には、今のこの国の在り様がデジャヴのように見えているのではないのだろうか。

漢語ルビ振りを多用し、擬古的な文章に見せているが、漢字の多さを気にしなければ文章自体は特に時代がかってはいない。文章中にも言及されているがヴァージニア・ウルフの用いる次から次へとくるくると変換する視点も、慣れればそんなに気にならない。それよりも、作家が用意した奇手妙手に手もなく翻弄される楽しさの方を味わいたい。そして、暇があれば、泰淳や清張の小説にも手を伸ばしてみたいと思う。