青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『カーペンターズ・ゴシック』ウィリアム・ギャディス

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二〇一九年に日本翻訳大賞を受賞した『JR』は、ウィリアム・ギャディスの第二作。本書は『JR』に次ぐ第三作である。国書刊行会から新刊が出たばかりだが、こちらは二〇〇〇年に本の友社から出されたもので、訳者による記念すべき最初の小説の翻訳である。『JR』にも多用されていた、電話相手に向けての一方的な応答、と主客の会話だけでひとつの小説を書く。しかも、舞台は一軒の家の敷地内に限る、という超絶技巧を駆使している。

古典演劇の規則である「三一致の法則」を意識しているのだろう。「時の単一、場の単一、筋の単一」のうち「場の単一」を順守している。読者はまるで主人公に乗り移った霊にでもなったかのように「カーペンター・ゴシック」様式の古めかしい家の中に閉じ込められる。家はマッキャンドレスという地質学者のもので、離婚した妻の趣味で集めた家具で埋め尽くされている。その家を借りているのが主人公エリザベス・ブースと夫のポールだ。

エリザベスの父親は鉱山王だった。次々と事業拡大を図った挙句、贈賄の罪でスキャンダルにまみれて死んだ。遺産は信託会社が管理し、その中から一部が定期的に生活費としてエリザベスと弟のビリーに送られてくる。夫のポールは、義父の金の運び屋として贈賄にも関与している。メディア・コンサルタントを自称し、次々と新しい事業を企てるもののうまくやり遂げられた試しがない。ヴェトナムの英雄という触れ込みも怪しいもので要はただのヒモだ。妻に電話番をさせ、自分は外を飛び歩いてばかりいる。

遺産を信託財産とした父をビリーは憎んでおり、金が役員たちに好きなように使われることに腹を立てている。義兄をばかにしていて、留守をねらっては姉に金をたかりに来る。典型的な道楽息子で、まともに働こうとせず、カルマがどうのこうのと口にしながら、姉の家に来ては義兄の悪態をつき、姉を閉口させている。エリザベスの目には、金をせびりに来ることや、互いを憎んでいること、汚い言葉を吐く点で、ビリーとポールは瓜二つに見える。

そこに、登場してくるのがマッキャンドレス。アフリカの金鉱を調査したことが原因で、CIAや国税庁に追われる身。重要な資料を家に隠していて、時折り確認に訪れる。小説を書こうとしているエリザベスは、元教師で百科事典や教科書作りに携わったマッキャンドレスが気に入り、一夜をともにする。翌朝やってきたビリーの口から借主の出自を知ったマッキャンドレスは、ころりと態度を変え、ビリー相手に、ポールの組んでいるユード牧師がどんな人物かを滔々と弁じ始める。

科学者であるマッキャンドレスが許せないのは、アメリカ人の無知蒙昧だ。進化論を認めず、すべての生き物は神によって同時に創り出されたと信じる人々が多くの州で多数派を占めている。宗教団体に後押しされた政治家が教科書を改悪して子どもたちの頭に虚偽を刷り込むのは日本だけの話とは限らない。キリスト教に名を借りて、イスラム教徒やマルクス主義を目の敵にし、自分たちの運動に協力的な政治家を当選させるために金をばらまいている。ポールは彼らに踊らされている、とマッキャンドレスは話す。

よくピンチョンと比較されるウィリアム・ギャディスだが、偏執狂的な世界を股にかけた陰謀が企てられたり、要人の乗った飛行機がミサイルによって撃墜されたり、聖書やシェイクスピアをはじめ、文学的な言及の多いところなど、相通じるものがある。ただし、時と場所と筋が絞り込まれた本作はピンチョンのように拡散することはなく、最後は一点に収斂される。ポールとマッキャンドレスという、全く異なる世界に属する二人が関係していた人々が、故意か偶然か、重なり縺れあって地球規模の謀略が明らかになる結末は圧巻だ。

すべてがアイロニーの色で染め上げられている。季節は十月の終わり、ニューヨーク近郊の丘陵地帯は、落葉樹が黄や赤の葉を落とし、カーペンター・ゴシックの美しい家のポーチからエリザベスが眺める一帯の美しさは喩えようがない。然るに、冒頭からノバトは無惨に殺され、家を訪れる人間は一様に自分勝手で罵詈雑言を発し、人をなじり、世間を憎み、人を見下し、自分の方がいかに優位に立っているかを騒ぎ立てる。酒を飲み、詰まった便器に小便を撒き散らし、煙草の煙で部屋中をいっぱいにするという有様。

そんな中で、執拗にかかってくる電話や怪しげな訪問客の相手をし続けるエリザベスだけが善良であるように見える。しかし、何不自由なく育てられたエリザベスは自分の手では料理すら満足にできない。医者に通ってばかりで、以前は父、その死後は夫の支配から脱することができない。親友の顔が見たくてたまらないのに、弟やマッキャンドレスから一緒に家を出ようと誘われても、立ち去る勇気が持てないまま、何故かこの家に縛りつけられている。

「カーペンター・ゴシック」というのは建築用語で、ゴシック建築を模した尖頭アーチや急勾配の切妻屋根に小塔を配した北米の木造家屋のこと。ヨーロッパのゴシック建築のように豪壮な石造りではなく、大工(カーペンター)によって建てられた木造りの教会や個人住宅が主だ。堅固な石に対して材質が木であること、外部だけ似せて内部は無視されていること、大量生産品を多用していることなどから、アメリカ文化に対する強いアイロニーが感じられる。

隣家の老人の儀式めいた振る舞いや、不審火、ハロウィンの仮装をした少年グループの嫌がらせ等々、エリザベスが独りでいるときに味わう不穏な空気が、タイトル通りゴシック・ロマンスを強く感じさせる。それまで電話や葉書きでしか音信のなかった親友のエディーが最後にちらっと姿を見せるところなど、舞台の幕が下りても謎は解けない。メモに記された図形や矢印など曖昧模糊とした暗示には事欠かない。一度読んだだけでは到底全貌を知ることは不可能だ。再読、三読を強いられる作品であることは覚悟して読む必要がある。

 

『シルトの岸辺』ジュリアン・グラック

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皆川博子著『辺境図書館』で興味を持ち、読んでみた。忽ち後悔した。なぜもっと早く読もうとしなかったのか、と。第二次世界大戦が終わって間もない頃に書かれた小説でありながら、まったく古さを感じさせない。原作がそれだけ優れているのだろうが、安藤元雄による訳もまた見事なもの。海を隔ててアラブの世界に接する、どこかヴェネツィアを思わせる架空の都市国家オルセンナが舞台。シルトというのは、もともと潮の流れとともに移動して浅瀬を作り、船の航行を阻む、沿岸の流砂を意味する言葉だという。

オルセンナ共和国は、そのむかし異教徒を武力で平らげ、東方貿易によって途方もない利益をあげたが、今ではその資産も使い果たし、ただ過去の栄光にすがって生きていた。貴族による寡頭政治も形式化し、要職に就くのは働き盛りを過ぎた老人ばかりで、青年貴族は高尚な倦怠を楽しんでいた。オルセンナでも旧家のひとつに数えられる名門貴族の末裔アルドーもその一人。詩を読み、散策を楽しみ、馬を駆る日々だったが、あるとき、そんな毎日が空しくなり、僻遠地での勤務を政庁に願い出る。

昔から都の貴族たちは戦地に送り出した大量の軍人による反乱やクーデターを恐れ、息子たちを軍に送り込みスパイさせてきた。しかし、ファルゲスタンとの戦争は三百年も続いており、停戦の機会のないまま、だらだらと戦争状態を維持しているだけで、実戦はおろか、監視すら放棄されていた。アルドーが監察将校として派遣されたシルトの鎮守府オルセンナの最南端に位置し、シルト海をはさんでファルゲスタンの軍港と睨み合う最前線であった。

鎮守府を預かるマリノ大佐は部下思いの上官だったが、平和な状態を愛しており、部下たちも現地の農家の手伝いを日常業務にしていた。砲台は放置され監視船も半ば砂に埋もれる有様。将校たちは休日ともなれば近くのマレンマへ通いつめ、酒色におぼれていた。アルドーはせっかくやってきた鎮守府の無気力さにあきれ、ひとり残って海図室にこもっていたが、旧知の貴族の令嬢、ヴァネッサがマレンマの別荘に現れたのをきっかけに、焼けぼっくいに火がつく。

当時、マレンマでは隣国との戦争に関する噂が秘かに囁かれていた。ある夜、アルドーは見知らぬ船が領海を越えて航行するのを目撃。マリノに報告するが、問題視されない。都に現状報告を提出したアルドーに送られてきた返事には、要領を得ない文書が付されていた。アルドーには、それがファルゲスタンを監視するよう命じているように読めた。マリノの留守中、監視艇を出すことを命じられたアルドーは、領海を越え、闇夜に乗じファルゲスタンの沿岸にまで船を進め、対岸から銃撃される。

しかし、銃撃はそれっきりで特に両国間に変わったことは起きぬまま日は過ぎていった。そんなある夜、アルドーのもとへファルゲスタンからの親書を所持する一人の男が現れる。そこには、領海侵犯が過失であったというオルセンナからの正式な謝罪がなければ、ファルゲスタンとしては、意図的な行為とみなすという意味の言葉が記されていた。血気にはやった若者の思慮に欠けた行為が戦争の口火を切ることになるのか。アルドーは都に呼び戻され、政庁で訊問を受けることに。

オルセンナの政庁を取り仕切る老ダニエロの語る言葉が深い。ずっと眠り呆けていたように見える自国と隣国との間に戦争状態が勃発しそうになっていることを知りながら、何故手を拱いて放置するのかと問うアルドーに答えて彼は言う。長台詞なので一部を引く。

自己嫌悪だよ。あまりにも長いこと自分のことばかり考えすぎるとそうなるのだ。国境地帯には人の行き来が途絶え―皮膚の表面が麻痺して、一種の無感覚状態におちいり、まるで触覚を失ったような―外部との接触を失ったような形になる。オルセンナは、自らの周囲に沙漠をめぐらして、孤立してしまったのだ。世界という鏡に自分の姿を映してみたくても、もう自分の姿がわからない。

「外交」をしないで、「外遊」ばかりしている大臣しかいない国の民としては、この老政治家の言葉が耳に痛い。戦争は突然やってきたりしない。国境が開かれていて、他国との行き来が正常に行われていれば、相手の態度や言葉に現れる何かがこちらの神経に触れ、同様のことが相手にも察知できる。異なる宗教や政治体制を持つ国家と国家が互いにうまくやってゆくためには日常的なつきあいというものが不可欠なのだ。自国の文化の優越を誇り、他国を蔑ろにしていれば、その報いを受けることになる。

もっとも、この小説は、そんな分かりきった理屈を講じているわけではない。倦怠のうちに腐り落ちようとする国家と心中するのが嫌で、際涯の地に身を置いた若者が自身の情熱と恋人からの挑発に身をまかせ、大胆不敵な行動を取り、国を滅亡の危機に陥らせる。その一部始終を「宿命」という主題を響かせながら、比喩に比喩を重ね、まるで館や要塞といった命なきものが生命を帯びているかのごとく描き出す、散文詩を思わせる流麗かつ彫琢された文体は、シュル・レアリスムの持て囃された時代にあっては時代錯誤ですらあったろう。

安藤元雄といえば、ずいぶん以前に白水社から出た『フランス詩の散歩道』という本を愛読書にしていた。久しぶりに書棚から取り出すと、すっかり日に灼けていたが、文章の瑞々しさはそのままだ。「訳者略歴」には、グラック『シルトの岸辺』もちゃんとあった。当時の自分には、そこからたどって本を探すというような真似は、まだ思い及ばなかったのだろう。長い回り道をしたものだが、やっと読むことができてよかった。

『パリンプセスト』キャサリン・M・ヴァレンテ

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「訳者あとがき」も「解説」もないのは原作者の意図だろうか。冒頭から、いきなり隷書体めいたフォントで「十六番通りと神聖文字通りの角で、ひとつの工場が歌い、溜息をつく」と書き出されたら、慣れない読者は本を投げ出さないだろうか。ここはひとまずざっと読み飛ばしておいて、慣れた明朝体活字で綴られた、いかにも小説らしい文章から読み進めることをお勧めしたい。ある程度、あらましがつかめたら、古怪な文章に戻るとよい。そうして、少しずつ物語世界に分け入るしかない。

『孤児の物語1・2』でファンタジー界に強烈な印象を与えた、キャサリン・M ・ヴァレンテの新作である。『孤児の物語』は、既存のファンタジーにはあり得ない奇想が溢れていて、初めての読者はついていくのに骨が折れた。何よりも次から次へと繰り出される摩訶不思議な物語の一つ一つが短く、見慣れぬ土地を彼方此方と引きずり回される落ち着かなさに眩暈がした。まるで、色とりどりのアラベスクに見惚れている万華鏡を誰かの手が勝手にくるくる回しているような気分だった。

湧き出てくるアイデアを整理する暇もなく、そのまま一つの物語世界に放り出したような前作とは異なり、奇想は健在ながら、本作は物語の結構というものを意識して書かれたことがよく分かる。異形の者たちが綾なすファンタジー世界と、リアルな人間が生活を営む現実世界を弁別することで、目くるめく幻想の世界と愛と苦悩に満ちた現実世界が、写し鏡のように互いを支え合う。エンデの『はてしない物語』が異なる世界を二色のインクの使い分けで示していたように、本作はフォントの違いが世界を分かつ。どちらの世界も互いに浸潤しあっているのはいうまでもない。

紙が発明される以前、本には羊皮紙が使われていた。高価なため一度使った羊皮紙の文字を消し、再利用することも多かった。それをパリンプセストという。近頃では、X線等で元の文章を判読することもできるようになった。現実世界の裏にかつて存在した世界を透かし見ることができる。表題は二つの世界が並行世界であることの暗喩だ。「口絵」と「見返し」と題された部分に挿まれた本文五部で構成されている。各部は四章で成立し、各章の前に、先に述べたフォントの異なる短い物語がついている。この作家独特のファンタジーが濃厚に味わえる部分だ。再読、三読時にたっぷりと味わうのがいいだろう。

「パリンプセスト」とは、この地上には存在しない、人々の夢の中にだけ存在する領地の名前である。そこに入るには一つの通過儀礼がある。体の上に蜘蛛の巣状の刺青に似た徴を持つ者と愛を交わす必要がある。それが異界に入る扉で、一度入った者には、同じ刺青状の模様が皮膚のどこかに刻印され、こちらの世界でも消えることはない。地図のような黒い線は、謂わばパスポート。よくよく見るとラテン語のような綴りで、通りの名まで記されている。厄介なのは滞在は一夜の夢に限り、再訪するには、また誰か徴の持ち主と寝る必要がある。それが通行税なのだ。

しかも誰もが行ける場所ではない。主人公は運命の赤い撚り糸で結ばれた、世界中に散らばった四人の男女。中にはアマヤ・セイという日本人の少女もいる。新幹線で東京から京都に向かう途中、佐藤賢二という鉄道ライターと出会い、パリンプセストへのパスポートを手に入れる。セイの行く先はほかでもない、パリンプセストへと向かう列車の客席である。葦の葉で編まれた吊り革や波打つ水面に稲穂が実る客室を、セイは黒い着物姿の<第三のレール>とともに疾走する。

ノヴェンバーはサンフランシスコのチャイナタウンで出会った中国人娘から、パリンプセストへの切符を手に入れる。「移民」に反対する兄とはちがい、その娘は気に入った相手と見るとパリンプセストへ連れていくのだった。図書館司書だった父に育てられた影響で、知識だけは身に着けたが、ロサンジェルスとサンフランシスコを行き来するだけの世間知らず。父の残した蜂を飼って蜂蜜を作るのが仕事だった。その蜂がノヴェンバーをパリンプセストの盟主、カシミラに近づける。

ノヴゴロド生まれのオレグはニューヨークで錠前師をやっていた。鍵にぴたりと合う錠前を探すのが得意、というのは何というあけすけな比喩であることか。オレグには自分が生まれる前に川に落ちて死んだリュドミラという姉がいた。子どもの頃からその姉はベッドの足下に髪を濡らして腰掛けていた。オレグは自分と一緒に歳を重ねてきた幽霊を愛していた。ところが、姉と同じ名の首筋に黒い線のある女とつきあい出した頃、姉は姿を消してしまう。

ルドヴィコは少し髪が薄くなったローマの装丁家カトリック信者で聖イシドールが著した『語源論』という世界最古の百科事典を信奉していた。ルドヴィコは妻も自分と同じ世界を愛していると思っていたが、ルチアにとってはそうではなかった。ある日、膝の裏に黒い模様が現れたのを機に、ルチアは帰ってこなくなる。ルドヴィコは、妻の友人を訪ねて回り、ネレッツァという女を見つける。ネレッツァはルドヴィコをルチアを見かけたところに案内するのだったが、そこは…。

愛する女を見失い、深い喪失感に見舞われた男たちは、オルフェウスのように愛する者を求めて異界を彷徨う。この世では何者でもなかった女たちは、誘われるままに足を踏み入れた世界で自分を必要とする者たちの愛に包まれ、圧倒的な使命感に満たされる。四人は、現実世界では満たされないものを得られるパリンプセストの世界に「移民」となることを願うが、それには現実世界で互いを見つけることが必要だった。

現実とされている世界に不信や違和を感じている者にとって、この世界とは別に存在する並行世界の存在は魅力的だ。ましてやそれが、自分にとって命より大切なものが存在する世界であるならなおさらのこと。不条理な世界に倦み、失った愛を希求する恋人たちにとって、唯一リアルな世界とは、確かな手触りを持つ過去の記憶によって紡がれる物語の世界ではないのか。パリンプセストには、戦争の記憶もあれば、新しく移り住む移民を待ちわびる人々の存在がある。

まるで羊皮紙から古い文字を削り取るように、現実の歴史を改竄することは、過去をないがしろにする行為である。過去とは人々の記憶に残る現実である。偽りの世界を拒否し、自分の心に正直な者が生きることを希求する世界が現実でないはずがない。虚ろな現在に突きつける肚の底からの違和感が、パリンプセストの世界を生じさせた。機械仕掛けの虫たちや獣や爬虫類の顔と肢を持つ者たちの世界に行きたければ、黒い蜘蛛の巣めいた地図を探して、行き交う人々の衣服から出た肌を見つめるしかない。もし、あなたが孤独であるなら、どこかに同じインクに足を浸した相手がいるかもしれない。

『モンスーン』ピョン・ヘヨン

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久しぶりに「不条理」という言葉を思い出した。「観光バスに乗られますか?」など、ほとんどベケットだ。何が入っているのか分からない袋を運ぶように会社から命じられたKとSの二人は、袋をトランクに入れ、タクシーでターミナルに向かう。上司からはD市行きの高速バスに乗れという指示があった。最終目的地は分からない。指示はその都度メールで送られてくるという。

袋を開けることは禁じられていて、軽くはない荷物の正体は分からない。しかも何やら臭いがする。D市に着く。次の行き先の指示が届くまで、二人は腹ごしらえをしながら、どうでもいい話をしながら時間を潰す。次は市外バスに乗ってB郡に向かえ、とメールが届く。その次は市内バスに乗ってG町へ。そこで下りて、メールの指示にある守護神像チャンスンのある家を探して歩き出す二人。

目的も行き先も分からず、ただ命じられるままに動く二人は、特に親しい仲でもない。だからというか、二人の話は子どものころの思い出や食べ物の話、といった取り留めのないものにしかなりようがない。先の見えない展開と意味のない会話で成立する小説はベケットの『モロイ』や『ゴドーを待ちながら』の世界を思い出させる。寝ている間に袋は消え、二人は上司がくれた観光バス乗車券を握り、今にも発車しようとしている一台の観光バスに乗る。「このバスどこに行くんだ?」と言いながら。

無限ループの中に閉じ込められたような、出口の見えない状況でありながら、人物には一向に焦りが見えない。これは他の作品についてもいえる。全部で九篇ある中で、自分の意志ではなく、偶然その状況に入ってしまって、抜け出せない、あるいはその状況にある他者に代わって自分がその状況に入り込む、といった話が幾つもある。タイトルを見ても、「同一の昼食」、「カンヅメ工場」といった同一性を暗示するものが目に留まる。

「ウサギの墓」は、派遣を命じられ、新しい職場にも慣れた会社員が、近くの公園で見つけたウサギを飼い始める話。仕事は必要な情報を収集し、簡単な文書にまとめて報告するだけで、誰にでも勤まる。ところが派遣の勧誘をしてくれた先輩を訪ねてもドアが開かない。会社にも出てこない。毎日、先輩の家を訪ねるのが日課になる。そのうち派遣期間が終了し、自分も代わりの人員を勧誘し交代する時期になる。新人が出社した日から彼は会社に出なくなり、毎日決まった時間に部屋のドアを叩く音が聞こえるようになる。

都市における一般の会社員の生活というのは、もしかしたら、置き換え可能なのではないか。それが自分でなくても誰も一向にかまわない。そういう世界の在り方に対して、誰も疑いを差し挿まない。皆が皆、そういう事態を当たり前のように受け止めて毎日暮らしていることのおかしさに誰も気づいていない。自己アイデンティティの不在が横溢し、逆にそれが社会の主流となっている。そんな世界の不気味さが漂ってくる。

会社や工場なら他と我の置き換えが可能でも、夫婦となると話がちがう。収まっている空間は似たり寄ったりであるのに、否、空間が皆似たり寄ったりであるからこそ、他とのちがいを求めたくなるのかもしれない。特に、家で暮らすことが多い妻ともなれば。夫は妻の求めに応じて、転勤を受け入れる。「クリーム色のソファのある部屋」は、引っ越しトラックと相前後して出発した車が突然降り出した雨にワイパーが故障して立往生する話だ。

子ども連れで、時々車を停める必要があるので、高速ではなく下道を使ったのが運の尽き。やっと見つけたスタンドには、どう見ても大麻でも吸ってるような男たちがたむろしていた。修理代に有り金を取られた腹いせに警察に通報したら、エンジンが故障。保険会社の車と思ったのが先刻の男たちだった。不運の続く男には別のトラブルも待ち受けている。妻がサイズを見誤ったのか、クリーム色のソファが部屋に収まらない、と引っ越しトラックから電話。足掻けば足搔くほど体が沈んでいく蟻地獄のような状況がどこまでも続く。

個人的には、どうあがいても脱出不可能な状況に追い込まれた人物を執拗に描いた短篇が好みだが、巻頭に置かれた表題作は、少し毛色がちがう。赤ん坊を亡くした若い夫婦の間に吹き始めた隙間風が、やがて疑惑にまで高まってゆく。不条理というより、不穏な空気が徐々に醸し出されていく趣向は確かに波乱含みであり、無限ループからの逸脱を果たしている。

作風を固定したくない気持ちは分かるのだが、その作家ならでは、という風合いのようなものを持つ作家は強い。「カンヅメ工場」は、工場の従業員が作る極私的カンヅメの話。中に入れる物がすごい。白菜キムチや大根キムチはまだしも、味付きカルビに焼き肉、タコの炒め物、キムチ鍋、冬葵の味噌汁、煮干しの炒め物、と韓国料理の献立勢ぞろいだ。

中には、恋人に贈る指環を入れたり、クリスマスプレゼント用におもちゃを詰めたり、初めて購入する家の書類を詰める者まで出てくる。話はどんどん暴走し出す。失踪した工場長の詰めたカンヅメの中からは鼻をつく臭いの靴下と下着が出てくる。クレジットカードの領収書には、誰かと会って、食事をして、映画を見た痕跡が見事に残っていた。カンヅメには人ひとりの人生が収められている。外見は同じでも、中身は別様の人生が一缶、一缶にひっそりと封入されている。カンヅメという同一性のかたまりを缶を開けることで裏返し、世界を反転してみせるトポロジー空間の現出に舌を巻いた。

『マンハッタン・ビーチ』ジェニファー・イーガン

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第二次世界大戦下のニューヨーク。エディ・ケリガンは一時、デューセンバーグを乗り回すほど、羽振りを利かせていたが、株の大暴落があってからは、すっかり落ち目に。今は養護院仲間で港湾労働組合委員長のダネレンに雇われ、裏金の運び屋稼業で辛うじて家族を養っている。難病で寝たきりの娘に車椅子を買ってやりたい一心で、十二歳の姉アナを連れ、アイルランド系と角逐するイタリア系のギャング、デクスター・スタイルズの邸を訪れる。

デクスターは十六歳の頃、父に内緒でギャングの陰のボス、ミスター・Qの下で働き始めた。禁酒法時代は田舎道を高級車で走り、法を破る快感に酔いしれた。禁酒法時代が終わるのを予見したデクスターは、儲けた金をナイト・クラブ経営に回し、今では複数のクラブを経営するまでになっている。妻は金融業界の大物の娘で、義父にも能力を認められている。デクスターの次の狙いは戦時公債を安値で買い、その金を元手に表の金融業界に浮かび上がることだった。

十九歳になったアナ・ケリガンは父にくっついて、マンハッタン・ビーチに建つデクスターの邸を訪れたことを覚えていた。その父は五年前に家を出たきり帰ってこなかった。かなりの金を残していったが、病気の妹がいては大学は諦めるしかなかった。海軍工廠で戦艦ミズーリの部品検査をしていたアナは、ある日、はしけで訓練中の潜水士に目を留める。潜水士の募集を知り、上司に頼み込みテストを受ける。ところが、合格したアナをアクセル大尉は潜水士として認めなかった。女に潜水士は無理、というのだ。

美人ではないが人を惹きつける、アナが魅力的に描かれる。母とその姉のブリアンはかつてフォーリーズで踊っていたダンサー。父も舞台に立っていたというから、人目を引くのは血筋か。物怖じしない態度に初めは、反発を感じる上司も、次第にアナのことが好きになる。もちろん、同僚の男たちははじめからアナの味方だ。しかし、アナが魅かれたのは、デクスター・スタイルズだった。アナは、デクスターの運転するキャデラックに妹を乗せ、海に連れ出す。

小道具の使い方が粋だ。はじめてデクスターの邸に行った日、父が手土産に持たされたのが、真っ赤に熟れたトマト。そのトマトが、デクスターが戦時公債ビジネスの話をするため訪れたミスター・Qの家で再び登場する。あの日、エディはミスター・Qに引き合わされていたのだ、とここで分かる仕掛けだ。だとすれば、エディの失踪がギャング絡みであることも分かってくる。エディとデクスターの間にどんな経緯があるのか。

子どもの頃、カード・ゲームの相手をしていた老人から、いかさまだけはするな、と言い聞かされ、その手口を見破る方法を教わったエディ。賭場で誰がどのようにいかさまをやっているか、手にとるように分かる。それを武器に、デクスターの上がりを掠め取っている輩を監視する仕事を手に入れる。エディの仕事ぶりにデクスターは惚れこみ、仕事は順調だったが、他人の目と耳となって働くことでエディは自分を見失いつつあった。そんな時、養護院仲間で今は犯罪組織を捜査しているバートと再会する。

禁酒法時代を切り抜けたデクスターは、権力を持ち、他人を支配できるようになった。しかし、所詮裏稼業の成功者でしかなかった。そんな彼は、大統領ともつきあいのある表の世界の成功者である義父のアーサーを尊敬していた。デクスターは、戦時公債を大量に買い、国家に貢献することで、金融業界に仲間入りしたいと相談するが、義父の答えはにべもなかった。能力は認めても、同じ場所には入れない、ということだ。

妻や子ども愛する良き夫で、人に抜きんでる度胸と才覚を持ちながら、スタート地点を過ったがために、戦時国債でどれだけ国のために尽くしても、ギャング上がりはギャング上がり。どこまで行っても日の目を見ることがない。WASP(ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント)の牛耳るアメリカで、イタリア系やアイルランド系がのし上がるのがいかに難しいか。このデクスター・スタイルズの境涯がなんとも切ない。

優れた能力と意志力を持ちながら、出自や運、ジェンダーの壁に阻まれ、今いる状況から脱出しようと懸命にもがく三人の男女の交錯する運命をスタイリッシュに描く。憂いを帯びた本格的なノワールであり、海の男の闘いと友情を描く海洋冒険小説であり、時代に先駆け、男の職場に生きる道を切り拓く勇気ある女性の物語でもある。普通だったら、纏まりそうもない趣きの異なる物語を、巧妙に張り巡らされた伏線、綿密なプロット、脇役にまで細部にこだわった魅力的な人物造形を駆使して纏め上げた作者の力業に脱帽。これはお勧め。

 

『カルカッタの殺人』アビール・ムカジー

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時は一九一九年。舞台は英領インド、カルカッタ(今のコルカタ)。スコットランドヤードの敏腕刑事だったウィンダムインド帝国警察の警部として赴任して間がない。第一次世界大戦従軍中、父と弟、それに結婚して間もない新妻を失った。過酷な戦闘で自分一人生き残ったこともあり、生きる意味と意欲を喪失し、アヘンに溺れていたところ、かつての上官で今はインド帝国警察ベンガル本部の総監タガートに誘われ、カルカッタにやってきた。

ミステリもいろいろ読んできた。舞台もアメリカ、ロサンジェルスをはじめ、イギリスのロンドン近郊、さらに最近ではノルウェーオスロも仲間入りし、いよいよ国際的になってきた。しかし、インドが舞台というのはめずらしい。交易の中心地として栄えてきた、東洋の星と謳われるカルカッタ。時代は第一次世界大戦直後。アヘン中毒の現職刑事が主人公とあっては、ちょっと読んでみたくなる要素が揃っている。

事件はめったに白人が立ち入らない地区で起きた。タキシードに黒い蝶ネクタイの白人が喉を掻き切られ、口の中にメモを詰め込まれて発見された。被害者はインド副総督の側近中の側近で、ベンガル州行政府財務局長。口中に残されたメモに「インドから出て行け」という意味のメッセージが記されていたことから、警部補のディグビーは政治がらみの犯行と決めつけるが、現場近くの娼館の窓からこちらを見ていた女の顔に怯えが浮かぶのをパネルジー部長刑事は見逃さなかった。

冒頭、矢継ぎ早に重要な手がかりが提示される。補足説明しておくとディグビー警部補は白人で、警部昇進がほぼ決まっていたところを、タガートがウィンダムを呼び寄せたあおりをくらって話がフイに。何とか事件を解決し、昇進へのバネにしたいという思いがある。パネルジーは現地の名門の出でケンブリッジを卒業した俊才ながら、独立後のインドには、土着の人間が大量に必要になることを予想し、親の反対を押し切り、警察に入ることを決めた理想家肌の青年。うぶで女性と口をきくことが苦手。

ウィンダムはインフルエンザで死んだ妻のことが忘れられずにいるが、被害者の秘書をしていたアニーというインドとイギリスの混血美女が登場すると、すぐにデートに誘っている。アニーは頭がよくて活発、男の前でも積極的に意見を言う好ましい人物だが、高級レストランでは入店を拒否される。アングロ・インディアンであることはインド人からもイギリス人からも差別の対象となる。

当時のベンガル州ではインド独立の火が燃え盛っており、独立を目指す組織による火器弾薬を手に入れる資金確保を目的とする、列車襲撃事件も起きていた。軍情報部H機関を率いるドーソン大佐は、ことある如く捜査に介入し、事件をH機関の管轄下に置くことを要求してきていた。そんな時、四年間も潜伏中だった革命組織のリーダーのアジトが見つかる。列車襲撃と殺人事件の関係を追うウィンダムはドーソン大佐を出し抜き、単身アジトに乗り込むが銃撃され右腕を負傷、あわやというところをパネルジーによって助けられる。

宗主国の人間であるウィンダムは、それまで英国人による露骨な人種差別を当然視していたが、アニーやパネルジーと行動を共にするうちに、どうもおかしいと思い始める。そこに、イギリス人からは悪魔のように罵られる革命組織のリーダー、ペノイ・センが現れる。何が何でもセンを死刑にしたいドーソン大佐とちがい、ウィンダムは真実が知りたい。尋問を通じて、センは非暴力への転向を真剣に考える悔悛した革命家で、ただのテロリストではないことも判明する。ウィンダムはセンの無罪を明らかにしたいと思う。

宗主国と植民地、英国人とインド人、分かりきった対立軸とは別に、同じイギリス人であっても、英国内では到底芽が出ない、いわば二流の貿易商でも、ここインドではまるで王侯貴族のような生活が可能になる。そういう暮らしを続けるためには、行政府との関係を密にし、より権益を得るために賄賂を贈り、供応を繰り返す必要がある。その一方で、所詮植民地における栄耀栄華は当地だけで通用するものという、本国に対する劣等感は誰もが抱いている。入り組んだ植民地意識が、今回の事件を複雑にしている。

ガンジスの支流ながら、死体を焼く儀式も当然登場する。熱帯の酷熱と湿気、中国人が経営する阿片窟、唯々壮大さを誇張した建築物、と純然なミステリでありながら、キプリングの『少年キム』等に始まるインド亜大陸を舞台にした冒険活劇風側面を持つ。ウィンダムの一人称による語りなので、主人公の心の動きを追ってゆけば、実行犯は意外に簡単に絞り込める。ただ、それとは別に殺人を引き起こすに至る複雑な人間関係の網の目が存在する。

独立インドを夢見る憂い顔の青年。射撃の名手で捜査能力に秀でたパネルジー部長刑事とバディを組むことで、アルコールとアヘン、モルヒネに頼りがちだったウィンダムも少しずつ生きる意欲が回復する気配が仄見える。食事のまずいゲスト・ハウスを払って、パネルジーと下宿をシェアするまでに至る二人は、ひょっとしたら、これからもコンビを組んで難事件にあたるのだろうか。ひねりのきいたトリックや異常心理、陰惨な犯行を繰り返すシリアル・キラーとは無縁の、古き良き時代の探偵小説を思わせる仕上がりが、刺激の強い新作に食傷気味のファンの心を慰撫してくれる。二〇一七年英国推理作家協会賞受賞作。

『短編画廊』ローレンス・ブロック他

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エドワード・ホッパーという画家がいる。現代アメリカの具象絵画を代表する作家で、いかにもアメリカらしい大都会の一室や田舎の建物を明度差のある色彩で描きあげた作品群には、昼間の明るい陽光の中にあってさえ、深い孤独が感じられる。アメリカに行ったことがないので、本物を目にしたことはないが、アンドリュー・ワイエスと同じくらい好きなので、ミュージアム・ショップでカレンダーを買って部屋の壁にかけている。

深夜のダイナーでカウンターに座るまばらな客を描いた「ナイトホークス」に限らず、ホッパーの画には、その背後に何らかの物語を感じさせられるものが多い。作家のローレンス・ブロックもそう考えた一人だ。彼は、これはと思う何人かの作家に自分のアイデアを持ちかけた。それに呼応した作家の顔ぶれがすごい。好き嫌いは別として、御大スティーヴン・キングをはじめとする総勢十七人。その中にはジョイス・キャロル・オーツまでいる豪華さ。

ブロックも序文で書いているように「テーマ型アンソロジーというのはどうしても似通った物語の集合体になる。だから、一気に読まずに一編ずつ時間を空けて読むことが勧められる」ものだが、驚いたことに、ここには様々なジャンルの物語が収められている。だから、一篇終わるたびに、また別の本を手にしているような新鮮な感動が待っているのだ。もっとも、すぐ読み終わってしまうのが惜しくて、結局は時間をおいて読んだのだが。

ひとつの物語につき一枚のホッパーの画が最初のページを飾る趣向。以外に女性のヌードを描いた画が多いのに驚いた。いわゆる名画のヌードとはちがって、ホッパーの画の中の女性は、神話的な存在でもニンフでもない。都会の孤独を一身に背負ったリアルな女性像である。そこから、物語を紡ごうと考えた作家が多いのも理解できる。しかし、個人的な好みからいうと、少し違和感がある。それで、何篇かを紹介しようと思うが、作品の選択が個人的な好みに偏ることをお断りしておく。

「海辺の部屋」の冒頭を飾るのは、紺碧というよりは幾分暗さを帯びた海の見える掃き出し窓が開き、正面の壁に斜めに陽が指している無人の部屋を描いた絵だ。作家はニコラス・クリストファー。アメリカに移住してきたバスク人の血を引くカルメンは、母の死で祖母の屋敷を相続した。そこには、ソロモン・ファビウスという料理人が、母の代から邸の専属シェフとして住み込みで雇われていた。

祖母が書いた『海辺の部屋』のバスク語版と英語版の二冊を抱えてやってきたカルメンは、そこで不思議な経験をする。なんと、その家では部屋が増えていくのだ。初めは一年に一度の頻度で増えていたものが、次第にそれがひと月に一度、週に一度の割合になる。戸惑うカルメンとちがい、ファビウスは、家の奥にある自分の部屋に迷うことなくたどり着けるのも謎だ。バスク人アトランティス文明の末裔であるという伝説を隠し味に利かした、アンソロジーの中では異色の海洋幻想譚に舌鼓を打った。

「夜鷹」(ナイトホークス)は、刑事ハリー・ボッシュ・シリーズで有名なマイクル・コナリーが選んだ。画から物語を作るのではなく、ハリー・ボッシュを探偵役とするミステリの中にホッパー描く「ナイトホークス」が登場する。シカゴの冬は寒い。監視対象者がその画の前で熱心にノートに何かを書いている。突然「あなたはだれ」と話しかけられる。観察眼の鋭い娘は作家志望だった。話を聞くうちにボッシュは考えを改める。短い中にもシリーズ物の探偵の人間性をきっちり生かしたストーリー展開はさすがだ。

正面入り口に低い角度で陽が指している、海岸段丘の上に建つ素朴な教会をわずかに見上げるような角度で描いた画は<South Truro Church>。「アダムズ牧師とクジラ」を書いたのはクレイグ・ファーガソン。八十歳をこえた長老派教会員牧師のジェファーソン・アダムズは末期癌だった。妻を亡くしてから頻繁に顔を出すようになった友人のビリーが仕入れてきた、ジャマイカ風にシガレット・ペーパーで巻いた細いマリファナ煙草をやるようになってしばらくたつ。もはやハイになることはないがそれは二人だけの儀式になっていた。

渚に打ち上げられて次第に腐敗してゆくタイセイヨウセミクジラの死骸を前に、実子ではなく養父母を喜ばせるために牧師職を継いだ、実は無神論者だというジェファーソンの死後を憂うビリー。彼はミイラのように痩せこけたジェファーソンを乗せ船をこぎ出す。そんな二人の前に巨大なクジラが現れる。クジラの眼に見つめられた二人は共にある決意を抱く。本当にアメリカ人は、プレスリーの双子の兄弟の話が好きなんだな、と実感される一篇。

開いた窓から見えるのは、肘掛椅子に腰を下ろし新聞を読む男と壁際に置かれたピアノを戯れに弾く女。その間には天井まで届く暑いドアがある。スティーヴン・キングは、これだけの材料からいかにもモダン・ホラーの巨匠らしい、淡々として怖いホラーを仕上げてみせる。ドアの向こうから「どすん」という音が聞こえてくる。それを嫌がる妻に対し、夫の方は新聞のマンガの話で気をそらせる。ディック・トレイシーだ。そのうち泣き声が混じる。夫は妻にピアノを弾くよう勧める。「音楽室」には何があるのだろう。

粒よりの佳作が目白押しのアンソロジー。人によって好みはちがうだろうが、誰でもお気に入りの作品が必ず入っている。エドワード・ホッパーを知らない読者は、きっとこれを機会にファンになるはずだ。「コッド岬の朝」という一枚の画には物語がついていない。高名な作家が書けなくて返してきたらしい。物語は「読者に書いてもらいましょう」と担当者は言う。あなたなら、どんな物語を書くだろう?