『質屋探偵ヘイガー・スタンリーの事件簿』 ファーガス・ヒューム
シャーロック・ホームズがベイカー街で名をはせていた頃。いかがわしい外国人がたむろする辺りに一軒の質屋があった。老店主の死後、店を預かるのはまだ二十代の一見してジプシーとわかる娘。この娘、美人であるだけでなく、店に持ち込まれる品物の目利きにも長け、その上頼まれもしない難事件に首を突っ込む趣味があった。男性優位の十九世紀ロンドンを舞台に、ジプシー娘が暗号を解読し、隠された秘密を暴いて回る異色探偵小説。
ロンドン南部、ランベスのカービーズ・クレッセントにある質屋は、ジェイコブ・ディックスというけちで有名な老人が経営していた。そこへやって来たのが二十代のジプシー娘ヘイガー・スタンリー。黒髪の美しいヘイガーは、ジェイコブの死んだ妻の姪で、大嫌いな男と結婚させられそうになり、ニューフォレストのキャンプから逃げ出してきたのだ。乾いたパンと水さえくれれば、わらの上で寝るから、とジェイコブを説得し、住み込みの家政婦兼質屋の手伝いとして働きはじめる。
質草にまつわる謎解きを扱う連作短篇集が書かれたのはヴィクトリア朝。副題にある通り、「シャーロック・ホームズ」の影響下にある。ミステリとか推理小説とか言い出す前の古き良き「探偵小説」の香りを残す一品。主人公の探偵が、うら若いジプシー女というのは、当時でも珍しかっただろう。ランベス地区というのは、テムズ川をはさんでシティの対岸にあたる地区だが、多国籍の人々が集まる地区で、当時に限らず現在でもあまり治安がよくない界隈である。
全十二章構成で、主人公の進退を紹介する初めと終わりの二章を除く十章が本編にあたる。第二章「一人目の客とフィレンツェ版ダンテ」から、第十一章「十人目の客とペルシャの指輪」まで、異国情緒たっぷりの品々が、曰く因縁を引っ提げて登場する。暗号や質草に隠された秘密の仕掛けが話の中心だが、どれもたわいないもので、なあんだという感想をもらすのは、まずまちがいない。謎解き興味はともかく、美人で気のいいジプシー娘の快気炎と全篇に揺蕩うエキゾティシズムはたっぷり用意されている。
発見者が遺産を相続するという遺言に基づいて、『神曲』の第二版という稀覯書に隠された財宝の在りかを求めて、故人の甥と見返りを求めるかつての支援者が争うのが、「一人目の客とフィレンツェ版ダンテ」。書き込みの見当たらない文書に隠された暗号を見つける決め手になるのがあぶり出しというのが何とも懐かしい。一話完結ではあるが、異なる短篇同士につながりがあり、第二章に登場する、ちょっと頼りないイケメンのユースタスの他にも、まさかあの男がと思わせる人物も章の枠を越えて登場するなど、通して読む面白さも用意されている。
殺人事件が登場しない話から始まるので、全編この調子か、と落胆するには及ばない。話が進むにつれて、殺人も起きるし、謎解き以外の部分にも親子の愛憎や階級差にからむ葛藤といった主題が提示され、なかなか含みのある筋書きが次々に現れる。女性の権利が制限されていた時代、女が一人で生きていくのは難しかった。職業選択や遺産相続もその一つで、そのために起きる殺人事件を描いたのが、「二人目の客と琥珀のネックレス」。大英帝国の都下、ジプシー女が被疑者の黒人女を救うところが小気味よい。
以下、広東の関帝廟から盗まれた翡翠の関帝像をめぐる英国人と中国人の争いを描く「三人目の客と翡翠の偶像」。チェリーニ様式の十字架に仕込まれた短剣が殺人事件を引き起こす、ルネサンス時代の悲劇を下敷きにした「四人目の客と謎の十字架」。主人にあたる令嬢と家令の息子の恋をめぐって父の思いが空回りする「五人目の客と銅の鍵」。アンドレア・デル・カスターニョ描く『キリストの降誕』が、子故の闇を照らす。
「六人目の客と銀のティーポット」は、盲目の女性マーガレット・スノウの悲恋の物語。茶農園主となるためインドに渡った恋人は、婚約の破棄を告げる最後の手紙に添えて、それまでマーガレットが書いた手紙を返してきた。マーガレットはそれを銀のティーポットに入れハンダで封じ込めた。今や老いて明日をも知れない体となったマーガレットは形見のティーポットを質に入れることで、突然の婚約破棄の理由を知ることになる。「質屋って本当に変わったところだ!(略)人生のありとあらゆるがらくたが流れ着く。傷ついた心、台なしになった経歴、破れた恋――そんなものの吹き溜まり」と、ヘイガーでなくとも嘆きたくなる。
本物の悪党が登場するのが「七人目の客と首振り人形」。「陽気なビル」が預けた人形をめぐって、脇役として何度も登場するベイカーの雑用係ボルカーと悪徳弁護士でジェイコブの遺産を狙っているヴァークが暗躍する。「八人目の客と一足のブーツ」は、一人の女を愛した二人の男が関わることになる殺人事件の謎解き。「九人目の客と秘密の小箱」は、不倫の証拠になる手紙を見つけたヘイガーが、恐喝者の手から手紙を奪い、未然に犯罪を防ぐことになる。ひねりの効いたオチが秀逸。
ペルシャの公爵アリーの美しい妻アイーシャは王の目に留まり、ハーレムに召される。その代わりとしてアリーが王から貰ったのが件の指輪。その後アリーは叛乱の罪に問われ全財産没収の上英国に流れ着く。天国から地獄への急降下。「十人目の客とペルシャの指輪」は、まさにアラビアン・ナイト風の趣の濃い一篇。アリー酷似の人物登場で、アラビア夜話風奇譚がミステリに変貌する。
ヘイガーの探偵術は、ジプシーらしく人相が決め手。人は見かけによる、という訳だ。英国生まれながら、外国暮らしの長いヒュームが繰り出す、当時の外国事情や美術品についての衒学的な蘊蓄も愉しく、ヴィクトリア朝ロンドンの雰囲気も相まって、昔懐かしい探偵小説的世界を満喫した。あまり知られていない作家だが、なかなかの小説巧者だ。これを機会に見直されてもいい。