『湯けむり行脚』池内紀
二月の声を聞き、寒さがひときわ厳しくなってきた。足もとは厚手の靴下の上からオーヴァーシューズ形のスリッパで固め、膝掛をかけ、キーボードを叩くため、指先だけは切り取った手袋をはいても、そこから出た指さきの凍りつくような冷たさだけはどうにもならない。熱い息を吹きかける、その吐く息が白いのだ。こういう日には温泉が恋しくなる。出不精で、ここのところめったに外に出ないくせに、温泉には入りたい。
そんな無精者にはぴったりの温泉本のご紹介。とはいっても、少しばかりくせがある。副題に「池内紀の温泉全書」と謳ってあるように、著者はあの『ファウスト』を訳した独文学者で、エッセイストでもある池内紀氏。氏によれば1990年代を境に温泉地は様変わりをしたという。
足の便のいいところは急激に観光地化して、旅館が巨大化し、料金もグンと高くなった。大型バスが団体客を送り込み、見る間に中小の宿を蹴ちらしていく。秘湯と呼ばれた山奥にまで道路が通じ、これまで見なかったタイプが車でやってきて、大騒ぎして、湯もそこそこに引き上げていく。
と、いたくご立腹である。読めば分かる通り、氏ごひいきの温泉というのは、あまり人のやって来ない、山の奥にひっそりと、しかし昔から細々と続く、湯治場の雰囲気を残した温泉宿のようだ。万座、草津、箱根を除けば、有名な温泉地は出てこない。1995年を中心に書かれた文章が多いので、今ではずいぶん様子も変わっているだろう。閉館した宿もいくつかある。それでは役に立たないのでは、と思うかもしれない。そんなことはない。
車で乗りつけることのできない山奥にある温泉宿に向かうのだ。足もとは登山靴、背中にはリュックを背負っての列車での旅である。汽車から降りたらバスに乗り、バス停からはひたすら歩き。それも、ただの道ならいいが、峠を越えての山歩きの末、やっと湯煙の見える渓流沿いの古びた宿にたどり着くような温泉行である。「行脚」を辞書で引くと「僧侶が修行または布教のためにいろいろな地方を歴訪すること。また歌人などが行う創作しながらの旅行をもいう」とある。タイトルは伊達ではないのだ。
そう聞くと、なにやら苦行僧のような難しい顔をして、蘊蓄を垂れそうな老人の顔を思い浮かべるかもしれないが、そんな心配はいらない。湯の種類が違うからと、女湯に入り込み、後から来た女性客の顰蹙を買ったりするのは毎度のこと。いたって、気安い旅人であるのは保証する。吉井勇や若山牧水、島崎藤村あたりは上州や信州の国境にある温泉を巡っていれば、当然出てくる名前だが、古いところでは大町桂月、渋いところでは田中冬二などの名前も見える、文人好みの紀行文とも読める旅のエッセイである。
温泉の種類や、効能などは一応記されているが、温泉そのものよりも、そこに行き着く経路で目にしたものや耳にする言葉、人の仕種や表情、といった寄り道の方にこそ読むべきところがあると思う。酒好きらしく、湯上りのビールや、宿の心づくしの料理をあてに酒杯を傾けるうちに、他の泊り客はさっさと食事を済ませて帰ってしまい、ひとりぽつんと広間に残されるのもご愛敬だ。とにもかくにも温泉とそれに付随するものを堪能してやまない。
特にめでるのが、野天の湯から仰ぐ満天の星空、あるいは折からの雨が湯を叩く音。人里離れた湯宿であるからこそ、川のせせらぎの音や、塵埃に満ちた巷のあれこれが眼に入ってこない風景が何よりの馳走だ。あと、一風変わった思い入れがある。スリッパがどうにもお気に召さない。誰が履いたか分からない代物に、せっかくの湯上りの足を入れる気にならない、というのは分かる気もする。だから、旅館で靴を脱いだ後、どうぞそのままで、とスリッパを並べていない宿は高評価である。
一夜明けたら、というか、まだ明けきらないしらじら明けには起き出して、ひと風呂浴び、その辺りを散歩するのがおすきなようだ。年寄りだから朝が早いのかもしれないが、夜と朝ではあたりの光景がまたひとしお違うこともある。旅館からの散歩には下駄をはく。カランカランと音のするのが好ましい。地面より少し高いところを行くのが快い。素足で履くのも結構だ。どこまでも素足が好きな人である。
四季別に八十余の温泉地を振り分けて、その良さを紹介している。ふだんはついつい、車に頼り、近場の日帰り温泉で、お茶ならぬ、お湯を濁している温泉好きにはちと敷居が高い気もするが、この歳になってから登山靴にリュックという山行もままなるまい。ここは、いっそバーチャルに温泉行を楽しむと決めた。本を読んで頭の中で思いを巡らす愉しさもまた、格別のものがある。そうはいうものの、いつかは本当に出かけてみたいと思わせる魅力的な湯がいくつもある。巻末に温泉一覧が付されているのも親切。やはり、出かけてみるか。