青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『フリント船長がまだいい人だったころ』ニック・ダイベック 田中 文 訳

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ティーヴンソンの『宝島』に出てくる「フリント船長」が題名に取られているところから分かるように、主人公は十四歳の少年である。時は一九八七年、合衆国北西部ワシントン州にあるロイヤルティ・アイランドという漁師町が舞台。町の男たちは大半が漁師で船に乗ってアラスカにカニをとりに出て行く。一度漁に出ると一年のほとんどは家を空ける。残された妻や子はひとしきりその不在をかこつ、そんな小さな町の話だ。

十四歳の少年カルの父、ヘンリーはカニ漁船の船長。たまにしか帰ってこない父に一人息子は話をせがむ。大好きな『宝島』の話が終わっても、続きを聞きたがる。父は仕方なく、フリント船長がまだいい人だったころの話をして聞かせるのだった。『宝島』の話を知ってる人なら、あのフリント船長が、いい人だったことなんてあるのか、と疑いたくなるだろうが、人の人生には、往々にして他人の知り得ないことがあるのだ。

カルの母は父に連れられてカリフォルニアからこの町にやってきた。大量のレコードと一緒に。父はそんな母のために地下室を改造してスタジオを作ってやった。何かやりきれないことがあると母はそこに独りで閉じこもって何時間も音楽を聴くのだった。どうやら、その頃、父と母は息子の将来について異なる意見を持っており、互いに譲ろうとはしなかったらしい。その町では息子は父の跡を継いで舟に乗るのが当たり前だった。しかし、母は別の世界を知っていて、息子を小さな世界に閉じ込めたくなかったのだ。

その町が今あるのはゴーント家の曽祖父ローリーがカニ漁を始めたことによる。代々手を広げ、今ではすべての船や工場、その他の会社が三代目、ジョン・ゴーントのものになっていた。そのジョンの突然の死が町を騒然とさせる。ジョンが死ねば一人息子のリチャードが継ぐことになるが、リチャードは一度も船に乗ったことがなく、相続したらすべてを日本の会社に売り渡すと噂されていたからだ。そんなことになったら、カルの父ばかりではなく、町中の男たちが仕事を失ってしまう。

ジョンの葬式も終わり、恒例の記念日の会食が、今年ばかりはヘンリーの家で行われた晩、招かれざる客であるリチャードが姿を現し、噂が本当であることをぶちまけてしまう。漁師たちはヘンリーの家に集まっては、夜な夜な打開策を相談するが、万策尽きる。そんなある日、カニ漁の再開が告げられ、町中が沸き立つ。なんと、ヘンリーらの説得が功を奏し、リチャード自らが舟に乗り、アラスカに向けて出発するという。

その出航前夜、父と母はまたもや激しい言い争いになり、出産の準備のために母は家を出てカリフォルニアに引っ越すことになる。母に一緒に来るかと訊かれたが、カルはうんと言わない。一人暮らしとなる息子の身を案じた父は同僚で、ジェレミーという同級生の息子がいるサムの家に息子を預ける。他人の家で父の帰りを待つカルのところに吉報が舞い込む。今年の漁は奇蹟的な大漁だった。しかし、その後に飛び込んで来たのは、リチャードが海に落ちて死んだという哀しい知らせだった。

そんなとき、久しぶりに立ち寄った自分の家の地下から音楽が聞こえてくる。母がこっそり帰ってきたのかと喜んだカルだったが、カリフォルニアの母から電話があった。地下室にいるのが母でないなら、いったいあれは何なのか。ひょっとしたら自分の気のせいかと思い、再度訪れてもやはり音楽が聞こえてくる。カルは自分の気は確かなのかと思い悩み、遂に、地下室に声をかける。すると、そこから帰ってきた返事は思いもよらないものだった。

小さなコミュニティに暮らす少年が自己を形作っていくときに頼りにするのは、父である。ところが、その父が一年の大半留守をする。残された母が地域の中でコミュニティとうまくつきあっているなら、それなりに何とかなるのかもしれない。ところがカリフォルニアから来た母にそんな気はさらさらなく、友人と言えるのは今は引退したジョン・ゴーントくらいのもので、ジョンは父の留守中も、よく母のスタジオを訪れ、地域の噂など気にせず、二人で音楽を聴いていた。

父の留守中にとんでもない厄介ごとを背負いこんでしまったカルは、ジェレミーの手を借りながら、何とかそれを処理しようと躍起になる。しかし、自分の意志を通そうとすれば、父を、ひいてはコミュニティを裏切ることになる。しかし、もしそうしなければ事態を解決することができない、というディレンマに陥ってしまう。これは、少年が大人になるために誰もが一度は通らなければならない「通過儀礼(イニシエーション)」を描いた物語である。

カルは自分の背負いこんだ厄介ごとと格闘する中で、父の仲間のビルや同い年のジェレミーたちとそれまでにないほど濃厚な接触をすることになる。それまで自分というものを深く考えたこともなかったカルだったが、他者の目から見たかルは、意外なことに、自分でも気づかない性格や能力を持っていた。いよいよ事を決しなければならなくなった時、カルは思いもよらぬ行動に出るのだった。

デューク・エリントンの「ロータス・ブロッサム」はじめ、マイルスやコルトレーンのジャズの名曲、ボブ・ディランニール・ヤングといったフォーク、ロックの懐かしい曲が地下のスタジオから流れてきて、真空管のオレンジ色の灯りとともに、物語に色を添える。母がカリフォルニアから連れてきた音楽が小さなコミュニティから出て行くための翼になっている。作者は『シカゴ育ち』のスチュアート・ダイベックの子息。瑞々しい抒情性に溢れた鮮烈なデビュー作である。