青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『われらのゲーム』ジョン・ル・カレ 村上博基 訳

f:id:abraxasm:20210108153604j:plain

元英国情報部出身で、数々の名作を生みだし、スパイ小説というジャンルを確立したジョン・ル・カレが昨年十二月に亡くなった。つい最近『スパイはいまも謀略の地に』を読んで、その健在ぶりに目を見張ったばかりだったのに。もうこれで、彼の新作を読む機会は永久に失われたわけだ。その死を悼んで未読の一篇を探し出して読んだ。1996年刊行だからおよそ四半世紀も前の本だが、ル・カレの描く男たちの世界は今も色褪せることがない。

ティム・クランマーは元英国情報部工作指揮官(コントローラー)。冷戦が終わると、情報部はティムをリサイクル不可能な人員と見てお払い箱にした。ティムは四十七歳にして早々と退職し、叔父から相続したハニーブルック荘園(マナー)で葡萄を栽培し、ワインを醸造、地元の名士としてボランティア活動に精を出す暮らしに満足していた。何よりも歳の離れた愛人エマとの暮らしに夢中だったのだ。十月のある夜、そんなティムのところに二人の刑事が現れ、ラリー・ペティファーの行方を捜していると告げる。

ラリーとティムはパブリック・スクール、オックスフォードを通じて一緒だった。事あるごとに上級生に逆らってはいじめを受けていた三つ年下のラリーをティムはよく助けてやった。素行の悪さでウィンチェスター・コリッジを追われ、ヴェネティアで観光ガイドをやっていたところを新婚旅行中のティムに拾われる。問題行動を起こす割に、誰にも愛されるラリーに二重スパイの才能を見て取ったティムは、彼をオックスフォードに入れ、自分の手足となって働く工作員として何から何まで教え込んだ。ラリーはティムの自信作だった。

ティムが引退するとラリーも情報部を去り、バース大学で臨時雇いの講師となった。しかし、引退生活を楽しむティムとちがい、ラリーはおよそ冒険とは無縁の大学生活に飽き飽きしていた。離婚後、独身を謳歌していたはずのティムに女ができたことを聞きつけ、ティムが車でティムの家を訪れたのが事の起こりだ。二人の男と一人の女、それに車一台あれば映画が撮れる、と言ったのは誰だったか。エマはラリーに夢中になる。

大きく三つに分かれる。出だしは詐取事件への関与を疑われ、警察と情報部の両方で審問を受けるティムを描く。ティムは警察と情報部を相手にしらを切り続けるが、実はラリーとエマについて知るところがあり、読者にも情報を小出しにしている。何の前触れもなく突如として紛れ込む回想場面を通してそれが徐々にわかってくる。ティムは大きな世界の問題とは拘りを持たなかったが、小さな世界の方には大きく関わっていたのだ。内心の焦燥と異常自己抑制のきく外面の乖離がサスペンス・フルに描かれる。

ラリーには、チェチェーエフという元KGB工作指揮官と組んで、ロシア政府から巨額の金を詐取した嫌疑がかかっていた。確かにチェチェーエフは二重スパイであるラリーのソ連側コントローラーだった。二重スパイは、相手陣営にいるときには芝居ではなく本心から相手のために働かなければならない。そういう意味ではチェチェーエフはラリーの一番のお気に入りで、その人物に入れあげていたといってもいいくらいだ。

情報部はティムを共犯者扱いし、パスポートをとり上げて監視をつける。ティムは監視の目を搔い潜り、ラリーの行動の真の意味を暴こうとする。金で魂を売るような男ではないのだ。何よりもラリーの後を追って家を出たエマのことが心配だった。現役時代に培った伝手を頼り、少しずつ事の真相を暴いていくティムのスパイとしての実力が最も発揮される場面である。遂にエマとラリーの隠れ家を発見し、残されていた留守電の録音や燃え残りの手紙、メモその他を解読し、ティムは二人の行先を突き止める。

ティムにとってスパイ活動は頭と口を使って人を動かし敵と戦う、ある種のゲームだった。ただ、それは仕事であって、自分の全生命を賭してやることではなかった。だから、退職後は仕事に未練を残さなかった。することは他にいくらでもあるのだ。ラリーにとってスパイであることがすべてだった。ティムがそう仕向けたのだ。だから、辞めたら他に何かすることを見つけなければならなかった。ロシアという大国の横暴に抵抗しようというイングーシの戦いにそれを見つけたのだ。

幕引きの舞台は北カフカズ。チェチェンを挟んでロシア連邦と隣り合うイングーシの暮らす国だ。イスラム神秘主義を奉じるイングーシの人々は山に住む野蛮人扱いを受け、不当な差別を受けてきた。戦おうにも武力に圧倒的な差があり、無惨な目に遭ってきた。チェチェーエフはイングーシの出身だった。ラリーと共謀して奪った大金が、ロシアと戦うイングーシへの武器供与に使われたというなら、話は通じる。

何の疑問も抱かずにゲームのようにスパイをやってきた男が、無実の罪で国を追われて初めて、真の自分の姿を知る。ラリーにミドル・クラスであることを揶揄され、いっそその仮面をかぶり通そうとしていたことを。ラリーの青臭い演説を聞く耳を持たなかった。今に至る事態を予測できる記録をとりながら忘れていた。自分で自分を欺いていたのだ。操り人形のように動かしていたはずの相手は知らぬ間に自分の頭と胸を使って勝手に動き出していた。ティムはラリーの後を追って戦火のイングーシへと向かう。

ティムとラリーは陽画と陰画の関係にあたる。ティムがそれまで見ていた世界は、大国中心のパワー・バランスに則った華麗なゲームだった。しかし、ラリーが飛び込んだ世界は、人々の思いや命が簡単に奪い去られる苛烈で酷薄な戦場だ。時代がどれほど変わろうと、本当の世界はそういう場で満ち溢れている。見ようとしないから見えないだけだ。ル・カレの描くイングーシの人々の世界は峻厳ではあるが、限りなく美しい。執筆時の状況下では危険を理由に現地取材は許可されなかったと聞く。作家の想像力というものの凄さをあらためて思い知らされた気がした。

『ストーンサークルの殺人』M・W・クレイヴン 東野さやか 訳

f:id:abraxasm:20201212125047j:plain

イングランド北西部カンブリア州はなだらかな丘陵や山の多い地域。厳しい冬が過ぎ、春の日差しに露に濡れた芝とヘザーが輝いている。この地方独特の石壁の修復に一日を費やしたワシントン・ポーは天然石づくりの屋敷つきの小農場、ハードウィック・クロフトに珍客が来ていることに気づいた。国家犯罪対策庁(NCA)重大犯罪分析課(SCAS)刑事部長ステファニー・フリンだ。かつてのポーの部下だが、彼が停職処分を受けてから、今はその後を引き継いで警部になっている。

ポーが停職を食らった事情はこうだ。少女拉致事件が起き、SCASが容疑者を絞り込んだ。それが下院議員の補佐官だったため、上司は逮捕を認めず、議員はその理由を告げた上で側近を解雇した。監視されていることを知れば、犯人は拉致した少女に近づかず、放置された少女が死ぬ恐れがある。ところが、被害者は救出された。父親が容疑者を拷問し、娘の居所を突き止めたのだ。その後、怪我が原因で容疑者が死亡。ポーが被害者家族に渡した報告書の中に、容疑者の名を記したポーの私文書が混じっていたことが明らかになったのだ。

フリンが、誰も知らないポーの隠遁場所をわざわざ調べてやってきたのは理由がある。ポーが暮らすカンブリア州で、立て続けに連続殺人事件が起きたからだ。それも普通の殺し方ではない。ストーンサークルの真ん中に立てた金属の杭に、裸にした被害者をワイヤで縛りつけ、燃焼促進剤を塗って、生きたまま火をつけるという凄惨なもの。発泡スチロールを細かく砕いてガソリンの中に入れ、融けるところまで融かした薬剤を塗ると身体の脂肪まで燃えるので、後には炭化した遺骸しか残らない。おまけに局部が切り取られ、喉の奥に詰め込まれているという異様な手口だ。

NCAの部長でSCASの責任者であるヴァン・ジルは、カンブリア州警察にいたポーをSCASに誘った人物で、誰よりもその能力を買っていた。停職処分を解いて、ポーを現場に戻すためフリンを寄越したのだ。しかし、ポーは今の暮らしが気に入っていた。もともと、人を人とも思わないところがあり、上司とはいつも衝突していた。なまじ能力があるため、人と協調して動くことを嫌い、自分勝手に動くため、同僚の受けもよくはない。今さら警察に戻る気はさらさらなかった。ポーはフリンが持参した辞職願にサインして突っ返した。

ところが、話はそれでは済まなかった。書類はもう一通あり、それは「オズマン警告」と呼ばれる、誰かに重大な危険が差し迫っていることを警告する文書だった。自分が誰の標的になっているのか尋ねたポーに、フリンは現職警官になら話せると言い、署名したばかりの辞職願を差し出す。ポーは辞職願を破り、話を聞くことにした。フリンが見せてくれたのは連続殺人事件の三人目の被害者の写真だった。

被害者はカンブリア地方に住む裕福な六、七十歳代の老人男性に限られている。当初は地元警察が担当したが、連続殺人であることが明らかになり、SCASに協力の申し入れがあった。手がかりが皆無で、遺骸は断層撮影にかけられた。非常に薄い断面図を撮影することで、生前及び死後につけられた傷を割り出すことができるのだ。コンピュータと数学に天才的な頭脳を持つ分析官のティリーが、それを画像処理したところ、被害者の胸部につけられた多数の切り傷から、二つの単語が読み取れた。「ワシントン・ポー」と。

被害者の中に思い当たる人物もおらず、かつて自分が関わった事件との関係も考えられなかった。つまり、犯人がポーのことを知っていることになる。早速、捜査に加わることになったポーは、課で最も腕の立つ分析官を捜査に同行させたい、とフリンに申し出る。一番の凄腕はティリーだっが、彼女には少々問題があった。オックスフォード大学で最初の学位を受けたのが十六歳という早熟の天才は、世間に触れた経験がほとんどなく、極端な温室育ちだった。

上層部に疎まれ、同僚に嫌われている刑事と、頭脳は天才的ながら、他人との関係がうまく処理できず、いじめを受けて孤立している分析官がコンビを組み、犯人を追い詰めて行くという、けっこうありがちなパターンではある。言葉の裏にある意図が読めず、文字通りにしか受け止められない、また自分の思いをオブラートに包まず、言ってはならないことを平気で口に出すティリーの存在が、それぞれの思惑で閉塞的になりがちな場の空気を開放的に変える。同時に、ポーという理解者を得たことでティリーは急速に成長を遂げて行く。

いちいち上の者にお伺いを立てて動く普通の刑事と違ってポーは自分の思い通りに動く。横紙破りに腹を立てる者は多い。一方、相手の職業や権威によって態度を変えない、率直な態度を好む者もいる。今回は、趣味を同じくするバリスタや、暇を持て余した老人たちに気に入られ、民間人のネットワークがポーを助けてくれる。お世辞や嘘というものを言えないティリーの天真爛漫な会話や立ち居振る舞いが、それを後押ししてくれたのも間違いないところ。はみ出し者同士、最強バディの誕生である。

どんでん返しがもてはやされ、煩雑なミス・ディレクションを凝らした謎解きミステリが多い中で、本作は珍しくストレートな快作。作者との知恵比べに負け、悔しい思いをするのもミステリを読む楽しみの一つだが、あまりにあざといミス・ディレクションにはかえって興ざめになることも多い。フェアな叙述から、犯人の見当をつけ、真犯人に迫るというのも、クイーンの国名シリーズ以来のミステリの正統的な楽しみだろう。

カンブリア州という、人間の数より羊の数の方が多い地方を舞台にしていることもあって、カバーの折り返しにある「登場人物」の数も知れている。この中に犯人がいる、というのがミステリのお約束である。また、犯行の手口、被害者の年齢層、といった点も犯行動機を絞り込むのに有益な情報となる。本作では、提示された事実を論理的に読んでいくことで、かなり早い時点で犯人の目星がつく(はずだ)。

原題は<The Puppet Show>。「人形劇」のことだが、そのままでは、書店で児童書の棚に並べられそうだ。それで無難な『ストーンサークルの殺人』にしたのだろう。ただ、無邪気な原題には、かえって濃厚なミステリ臭が漂う。こちらを生かす手もあったのでは。主人公にはまだ語られていない部分が多い。ときに激しく暴力的な振舞いを見せるのも、過去に原因があるのかもしれない。ワーズワースビアトリクス・ポターで有名な湖水地方のある、カンブリア州は独特の風物で知られている。今後が楽しみなシリーズの登場である。

『誓願』マーガレット・アトウッド 鴻巣友季子・訳

f:id:abraxasm:20200915171633j:plain

静かなディストピア社会の怖さは、一定の形で社会が完成してしまうと、その中で暮らす市民にはそれが普通の状態に感じられ、何ら不都合のない社会のように見えてしまうことである。権力が軍や警察を使って暴力的な弾圧を行う、ラテン・アメリカ諸国の独裁主義国家と異なる怖さがそこにある。権力の行使が可視化できないよう配慮されていて、一般市民には自分がどんな権利を奪われているのか、決して見えないからだ。

たとえば、国民が政府にとって不都合な真実を見たり聞いたりすることがないように、報道は規制されている。もし、政府に向かって不都合な態度をとる者があれば速やかに排除する。そうすることで、右に倣おうとする者に脅しをかけるのだ。そこまで来ると国民に供されるのは、報道とは名ばかりのフェイク・ニュースか、さもなければ政権に都合のいい提灯持ちの番組ばかりになる。それを繰り返すことで、ものをいう者は政府寄りの人物だけになり、静かなディストピア社会が完成する。今この国はここまで来ている。

アトウッドが『侍女の物語』を発表したのが1985年。おそらく、ジョージ・オーウェルの『1984年』を意識したにちがいない。組織的な監視と盗聴によって、批判的な意見を封じ込めるのは、ディストピア社会のやり口としては通常だが、女性を出産のための手段と規定し、それ以外の存在の仕方を奪ってしまうという、徹底した男性中心のディストピア社会というのは新鮮だった。それから三十五年がたつ。果たして社会は変化したのだろうか。

トランプ政権下で『1984年』や『侍女の物語』が再び話題になっている、と聞かされ、さもありなんと思っていたら、アトウッドが『侍女の物語』の続編を書いたというニュースが飛び込んできた。しかし、発表された『誓願』には、続編の文字はなかった。作家自身がそれを認めなかったと聞いている。たしかに、これは続編という位置にはとどまらない。独立した一篇の小説として読んでほしい、と作家は思ったにちがいない。

侍女の物語』は、完成したディストピア社会の中で育ち、次第にその世界に異和を感じるようになる年若い女性の視点を通して描かれている。先に述べたように、静かなディストピア社会では、特に何かがなければその異様さに気づくことはできない。しかし一度それに気づけば、その閉鎖性、徹底した監視社会に息詰まる思いがし、そこから逃げ出したくなる。『侍女の物語』が描いたのは、自分を監視する<壁>に周囲を囲まれ、生得の権利を奪われた者の恐怖だ。

完成されたディストピア社会とはいっても、それが強固に感じられるのは、美しく飾られた表面だけのことで、映画のセットのようなその世界の裏側に回ったら、薄っぺらい材料ででき、補強材の目立つ粗雑な構成物でしかない。外部はそれを知っている。しかし、内部でそれを知るのは権力を握る一部の者だけだ。だから、ディストピア社会は外部と内部を<壁>で遮断する。アトウッドが、三十五年後に描こうとしたのは、そのディストピア社会を囲む閉じた<壁>の内部と外部の<交通>ではなかったか。

そこで、三者の視点人物が必要となる。まずは、<壁>の成立時代から、その存在を熟知し、なおかつ<壁>の維持に努めてきたギレアデの女性幹部であり、アルドゥア・ホールを取り仕切るリディア小母。<壁>の内外を共に知る、全知の存在である。次に<壁>の内側でぬくぬく育ち、年頃になって初めて自分の置かれた立場がのみ込めないことに気づいて、おろおろするばかりの初心なアグネス。<壁>の内側しか知らない。そして、カナダ在住の十六歳の娘デイジー。幼いころに組織の手でカナダに運ばれてきた、本当はギレアデの<幼子ニコール>。今どきの普通の女の子で<壁>の外側しか知らない。

リディア小母という操り手の繰り出す巧妙なからくりで、若い二人は、内側と外側から<壁>の崩壊を遂行する運命を担うことになる。どちらかといえばSFに出てくる架空の国家の物語のように思えた『侍女の物語』に比べ、『誓願』は、よりリアルな政治小説の趣きが濃厚である。特に、静かなディストピア社会が完成されるまでの、体制の移行期の暗殺、粛清といった革命やクーデターにつきものの避けることのできない暗黒面の陰惨な描写は、ラテン・アメリカ作家の描く独裁者小説を思わせるものがある。

リディア小母と呼ばれる女性は、アメリカ合衆国の判事を務める有能なキャリア・ウーマンだった。とはいえ、上流の出ではなく、苦労を重ねてその地位に上り詰めた上昇志向の強い女性である。それが、クーデター軍に逮捕され、スタジアムに集団で着の身着のまま収容され、放置監禁、精神的にどこまで耐えられるかを試されたのち、軍に従うか死ぬかどうかを問われ、やむなく従うことを認める。やがて、その性格、能力が評価され、権力を一手に掌握するジャド司令官とホットラインでつながる関係を築くまでになる。

リディア小母は監視カメラと盗聴器を駆使して、内部外部を問わず情報を収集することで、他人の弱みを握り、相手を思うままに操る術を身に着けている。ディストピア社会は相互監視による相互不信が基本である。反面、一望監視システムの中心部にいるものは、他者の監視を免れる。リディア小母はそれを利用して権力強化を務めるとともに、権力者の腐敗、堕落の証拠を握り、それを記録にとどめ、さらに時機を見て外部に流すことで、ギレアデの崩壊を期すのだった。

パノプティコンの中心で指揮を執るリディアは自ら動くことができない。代わって動くのがアグネスとデイジーの二人。<壁>の外から潜入してきたデイジーは、ベッカの犠牲に助けられ、アグネスとともに再び<壁>の外へ。その手にはギレアデの秘密を暴く情報が握られていた。ベッカとアグネスの関係は単なる友情を超え、互いに連帯して解放を願う<シスターフッド>の域に達している。女性たちの協力が男性中心のディストピア社会を崩壊させる、この物語は<シスターフッド>の勝利を描く物語ともいえる。アトウッドが三十五年の時を隔てて紡ぐ、『侍女の物語』ならぬ「小母の物語」。痛快無比のエンタメ小説でもある。まずは手に取って読まれることをお勧めする。

『ネヴァー・ゲーム』ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子・訳

f:id:abraxasm:20201112134527j:plain

ミステリの世界には、いろんな刑事や探偵がごろごろしている。新しい主人公を考える作家も大変だ。四肢麻痺で首から下が動かせない、リンカーン・ライムは画期的だったが、さすがに、行動に制約が多すぎて作家の方にもストレスがかかったのか、今度の主人公は、サバイバル術に長けた行動派だ。おまけに、職業は刑事でも探偵でもない。なんと「懸賞金ハンター」だというから、いつの時代になってもアメリカは西部劇から抜けきれないらしい。

とはいえ、凶悪犯を狙う「賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)」ではない。行方不明者を見つけるため、個人や警察が懸賞金を設けることがアメリカにはあるようだ。というのも、もしそれが誘拐事件なら早期解決が大事だが、警察は実際に何かが起こるまでは動き出さない。そこで、こういう仕事が成り立つわけだ。仕事は失踪人の居場所を見つけるところまでで、救出はしない。後は警察の出番というのが建前だが、警察の動きは遅い。そこで、自ら事件の渦中に飛び込むことになる。

名前はコルター・ショウ。シェラネバダにある「コンパウンド(地所)」という広大な土地で父のアシュトンからサバイバル術を訓練されて育つ。兄妹の中でもコルターは追跡がいちばん得意だった。大学を優等で卒業し、一時は弁護士になることも考えたが、しばらく事務所勤めをしてみて、自分には向いていないことが分かった。一つところにとどまるのが苦手だったのだ。今ではウィネベーゴのキャンピング・カーを駆ってどこへでも出かけて行く。

ヤマハのオフロードバイクも積んでいるが、仕事中はウィネベーゴを近くのRVパークに停め、黒か紺のレンタカーを借りて行動する。なかなかの美食家で行く先々の地ビールを楽しみ、コーヒーはエルサルバドルの豆に決めている。今回はメキシコの朝食向け卵料理、ウェボス・ランチェロスのトルティーヤをコーン・ブレッドに変えて食べるという試みをしている。多分行き先が変わるたびにそこの地ビールと名物料理が紹介されるのだろう。こういう設定が心憎い。

第一話の舞台は、シリコンヴァレー。十九歳の女性が失踪し、父親が懸賞金を設けた。額は一万ドル。高額ではないが、父親の切羽詰まった様子を聞いて引き受けた。まだ明らかにはされていないが、ショウには別の稼ぎがあるらしく、懸賞金で食べているのではないようだ。ショウの捜査方法は特に目新しいものではない。聞き込みをして、目撃情報を集め、立ち回り先を突き止める。何しろ、まだその時点では事件かどうかも明らかではないのだ。それに警察ではないショウにできることは限りがある。

ただ、追跡者としての能力には秀でている。今回はカフェの監視カメラに残っていた映像から、行き先を予測し、事件現場で格闘跡を発見し、被害者の携帯電話を発見する。それで一件楽着のはずだった。だが、いくら待っても警察は来なかった。仕方なく、周囲を探るうちに死体を隠すにはうってつけの廃工場を見つける。そこで事件に巻き込まれることになる。犯人は現場に隠れていて、ショウを襲ったのだ。

誘拐事件が起きても身代金について犯人からの要求はない。しかも、一件だけでなく同一犯と思われる誘拐監禁事件が連続して起こる。カフェのコルクボードに残されていたステンシル風の男のイラストから、ショウはそれが「ウィスパリング・マン」というゲームの登場人物であることを知る。当時サンノゼで大規模なゲーム・ショーが開催中で、大勢のゲーマーでシリコンヴァレーは賑わっていた。犯人の狙いはゲームに関わりがあるらしい。

三件の誘拐監禁事件は「ウィスパリング・マン」というゲームを模したものだった。ホーム・スクーリングで育ったショウはゲームに疎かった。そこで、業界人がショウにレクチャーするという形式でゲームに関する蘊蓄が語られる。しかし、ゲームに詳しい読者には不要だろうし、ゲームをしない者には退屈な蘊蓄だ。謎解きミステリにはよくこうした解説が登場するが、ミスディレクションに必要なのだろうか。

同業者によるゲーム開発企業に対する妨害か、ソシオパスによる犯罪なのか、犯行動機ははっきりしないが、ゲーム中毒者の犯行なら、犯行の起きていた時間はディスプレイから離れていたことだけははっきりしている。「ウィスパリング・マン」を配信している会社社長の協力を得て、これだろうと思われる人物を特定するが、果たして最後の被害者を生きているうちに救出することができるのだろうか。

捜査権のないショウには警察関係者の協力が必要だ。今回は対称的な二人が登場する。いかにも刑事という見かけの白人刑事ライリーとアフリカ系アメリカ人の女性刑事スタンディッシュがそれだ。ライリーは女性の巡査にセクハラまがいの発言を繰り返す嫌な刑事役を演じ、スタンディッシュは逆に有能で感じのいい刑事役だ。この二人の役割設定がうまく生きていて、シリーズ物ながら、主人公がキャンピング・カー暮らしという設定では、おそらく、二度と登場しないのが惜しいくらい。

ジェフリー・ディーヴァーといえばどんでん返し。今回もきっちり用意されている。しかも、そのうちの一つは、ショウの抱えている難問についての謎解きの一つに関わるものだ。ショウは死んだ父が何か秘密を抱えていたことを知っており、シリーズを通してその解決を図ってゆくことになる。広大な土地でのホーム・スクーリングやサバイバル術の訓練といった、ショウの生い立ちが普通でないのには何か理由があるのだろう。次回作が楽しみな新シリーズの幕開けである。

 

『私はゼブラ』アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ 木原義彦訳

f:id:abraxasm:20200909110523j:plain

ゼブラ(シマウマ)というのは本名ではない。父が死んだ時、木立ちを透いて棺の上に光が指して縞を作った。それを見て強烈なメッセージを受けた主人公が咄嗟に発したのが「私の名はゼブラ」という言葉だった。それ以来、彼女はゼブラを自称することになる。持って生まれた人格と異なる、新たなアイデンティティの獲得であり、宣言である。本名はビビ・アッバスアッバス・ホッセイニという二十代の亡命イラン人である。

 ホッセイニ一族はイランの知識人階級に属し、代々文学を能くしてきたが、独学者、反権力主義者、無神論者をもって任じていたため、時の権力者が王であれ、宗教者であれ、決して認められることなく、中には処刑された者すらいる。父の代にイラン・イラク戦争が勃発し、テヘランの家を捨て、カスピ海に近いノーシャーにある一族の隠れ家「本のオアシス」に逃げ込んだ。ゼブラはそこで生まれ、本に囲まれて育つ。以下に目次を示す。 

  1. 「プロローグ・私の不運な起源の巻」
  2. 「ニューヨークシティ・父の死とその埋葬、その結果、私の魂が不規則にいくつにも分裂するの巻」
  3. バルセロナ・亡命の虚空に飛び込み、言葉の防腐処理人ルード・ベンボと関わり合いになる巻」
  4. 「ジローナ・ミニ博物館の創設とルード・ベンボとの共同生活の巻」
  5. 「アルバニャ・ピレネー山脈の緑の谷で複数の魂に酸素を供給し、自然とのソクラテス的対話に従事するの巻」
  6. 「ジローナ・虚無の巡礼の仲間とともに亡命の歩廊を旅するの巻」
  7. 「水の大陸・沈んだ希望の海を渡るの巻」

 古い物語の形を借りていることからも分かるように、この小説は騎士道物語の形式を借りることで、その陳腐さを逆接的に批判したセルバンテスの『ドン・キホーテ』に倣っている。アロンソ・キハーナが騎士道物語を読みすぎたように、ゼブラは、父から午前中はニーチェを、午後はゲーテ、オマール・ハイヤム、ダンテ、スタンダールリルケカフカ、ペトラルカ、セルバンテスベンヤミン、そして清少納言芭蕉まで、ありとあらゆる文学を教えられて育った。 

郷士に過ぎないアロンソ・キハーナが「遍歴の騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」を自称して遍歴の旅に出るのは、物語の読み過ぎで正気をなくしたからだ。ゼブラもよく似たもので、本人はいたって意気軒昂だが、その振る舞いは常軌を逸している。寝食を忘れ、文学に没頭しているので、何日も部屋から出てこなかったり、ぷいとどこかへ行ってしまって帰ってこなかったり、一緒に暮らす者にとっては迷惑千万な相手なのだ。しかし、ゼブラはそんなことに無頓着で、ただ只管、亡命の虚空の中を虚無の巡礼者として遍歴するばかり。 

戦禍を逃れて国境地帯を彷徨う中で母を亡くし、父と二人食うや食わずで諸国を遍歴し、新大陸に渡ったものの父は病みついた挙句に死ぬ。父の死を契機に自分の考える文学理論を実践に移そうと、父と遍歴したルートを逆にたどる「大旅行」(グランド・ツァー)を計画する。「文学するテロリスト」、「虚無の女騎士」を自称して。「プロローグ」に特に濃厚な厭世的で虚無的な語り口は、ニーチェの文体のパスティーシュだろうか。他にも多くの文体模倣が駆使されているに違いない。 

ゼブラは。父に言い聞かされたホッセイニ一族第一の戒め「おまえは文学以外の何ものをも愛してはならない」に固く縛られている。また厳しい文学修行を通じて、その場しのぎの無内容な会話というものができない。バルセロナの空港へ迎えに来てくれたルード・ベンボを一目見るなり強く惹かれるのだが、気持ちを素直に表せない。相手の言葉の誤用を質したり、シェイクスピアやダンテを引用してみたり。このちぐはぐな会話が滑稽で、つい笑ってしまうのだが、笑われているのは果たしてどちらだろう。 

「でも、セックスのためのセックスはありだし、それはすべきだと思う。形而上学的な意味では、私は既にあなたという重荷を肩の上に担いでいるのだから、セックスのときは私が上にならせてもらう」。道端で初対面の相手にこんなことをいう。万事がこの調子。空気なんか端から読む気はないし、常に上から目線で相手と接するから、言葉は切り口上になる。それが災いして、二人はなかなか理解し合えない。セックスはできるのに、ルードが求める愛には応じられない。

 父による呪縛でごちごちに凝り固まった若い女性のアイデンティティは、一族の負の遺産であり、人間を蔑視した父の憎悪を引き継いでいる。しかし、それだけではない。貧苦と孤独な生活を強いられながら、自分を育てるための栄養を摂るようにして、脳内に取り込んだ、世界屈指の文学者の思惟や警句がゼブラの中で互いに響き合って、次から次へと独自の新しい発見、発想が飛び出してくる。この目くるめくようなアイデンティティの変容には驚かされる。

 「亡命」という主題を抜きにしてそれを語ることはできない。ゼブラはどこへ行くにも死んだ父のトランクを持ち歩く。そこには一族の家訓を描いた絵やサモワールといった日用品とともに『神曲』や『オデュッセイア』が入っている。ゼブラはそれを「私の過去の遺骸(なきがら)」と呼ぶ。曲がりなりにも、自分の国というものがあり、読もうと思って手を伸ばせばそこに本がある。それが当たり前だと思っていた。しかし、遍歴を定めとする亡命者に書庫はない。文学は予め自分の中に入っていなければならないのだ。実在する本は、時折り開いて、そこにあることを確かめるよすがなのかもしれない。

『指差す標識の事例』上・下 イーアン・ペアーズ 池 央耿 東江一紀 宮脇孝雄 日暮雅通 訳

f:id:abraxasm:20201022095752j:plain

<上・下巻併せての評です>

時は一六六三年三月。王政復古から三年がたち、イングランドは落ち着きを取り戻しつつあった。ヴェネツィアの貿易商の息子でライデン留学中のマルコ・ダ・コーラは、家業に持ち上がった騒動の対策のため、英国に到着した。ところが、頼みにしていた代理人は死亡、父の資産は事業の協力相手に奪われてしまっていた。あいにく路銀も底をつき、一夜の宿もままならぬ身。ライデン大学で教えを受けたシルヴィウス師の紹介状を手に、急遽オックスフォードに向かう。

当時オックスフォードには、後に「ボイルの法則」を発見することになる、若きロバート・ボイルほか、ジョン・ロックやクリストファー・レンといった錚々たるメンバーが毎夜、エールを酌み交わしては科学や哲学論議に花を咲かせていた。ボイルがいると教えられたコーヒー・ハウスで、コーラは一人の女が男に頼みごとをし、邪険に断られる場に出会う。困っている娘を放っても置けず、耳にした話から、医学の心得があることを告げ、援助を申し出る。

女の名はサラ・ブランディ。母親が怪我をしたが医者を呼ぶ金がなく、元の雇い主に急場の助けを請い、断られたのだ。コーラは応急手当てを施し、その後も毎日様子を診に行くが、友人の医師リチャード・ローワーと地方へ出かけている間に、サラが殺人犯として拘留されてしまう。殺されたのはグローヴという大学教師で、死因は毒殺。サラの元の雇い主であり、馘首されたのを恨んでの犯行、というのが逮捕の理由。裁判の結果、サラは罪を認め、絞首刑となる。

「『薔薇の名前』×アガサ・クリスティ」という、惹句が目を引く。事件の裏には二通の文書があり、いずれも暗号化されている。暗号を解く鍵は一冊の本。舞台はオックスフォードの学寮、そこで毒殺事件が起きるという、まさに『薔薇の名前』仕立て。本作は四人の手記からなり、視点が変わる度に事実と目されていたことが、次々とひっくり返されてゆく。誰もが「信頼できない語り手」というわけだ。日本なら映画『羅生門』か、その原作である芥川龍之介の「藪の中」だが、英国ならクリスティの『アクロイド殺し』だろう。

手記を書いたのは、ヴェネツィア人学徒マルコ・ダ・コーラ。トリニティ・カレッジ法学徒ジャック・プレスコット。オックスフォード大学幾何学教授ジョン・ウォリス。歴史学者アントニー・ウッドの四人。殺人が起きたのは一六六三年だが、四人の手記を読むと、事件の始まりはそれよりずっと以前にあることが追々分かってくる。ことは、宗派対立と王を補佐する地位をめぐる権力闘争、という国を揺るがす大事に繋がっていた。

ジャック・プレスコットの父は王党派の軍人で剛毅清廉の士として知られていたが、何者かの讒言で内通者と断罪され、国外に逃れた後死去。家門は没落、領地は後見人の手に渡り、プレスコットはすべてを失う。父を信じる息子は、真実を求めて関係者に話を聞いて回るが、誰も相手にしない。追及し続けた結果、真実を知る手がかりは二通の文書にあることが分かる。文書は手に入れたものの、その際、後見人に重傷を負わせたかどで、プレスコットは逮捕されてしまう。

ジョン・ウォリスは微分積分学への貢献で知られる数学者だが、暗号研究者としてクロムウェル政権の国務大臣であったジョン・サーロウに雇われていた。クロムウェルには何度も暗殺が企てられており、サーロウは大陸にスパイを送って情報収集に余念がなかった。ウォリスは謀略のあることを知り、大陸から来たマルコに疑いを抱く。人を通じて素性を探らせた結果、コーラは貿易商の子ながら、トルコとの戦いで功績のある軍人だと分かる。

サラの父は、清教徒革命の中で最も急進的な、土地均分などを要求した水平派の指導者だった。ジェントリ(郷紳)層を中心とする独立派と相容れず、国王処刑後、独裁を強めるクロムウェルにより弾圧され、一家は町の中で孤立していた。民間療法に通じ、自然治癒力を持つサラを頼る者も多かったが、魔女だという悪い噂もついて回った。アントニー・ウッドは、そんなサラを愛し、何かと世話をしていたが、プレスコットの告げ口でグローヴとの仲を嫉妬し、二人は別れてしまう。

マルコ・ダ・コーラは人は良さそうだが、その正体が知れない。ジャック・プレスコットは父を信じることにかけては熱心だが、狂信者で人を人とも思わない陰謀家だ。ジョン・ウォリスは自身に対する思い入れが強く、一度こうと思い込んだら容易に意見を変えようとしない。「信頼できない語り手」ばかりだ。そんななか、名誉や地位に執着しない学究肌のアントニー・ウッドだけは信頼できそうだ。最後の語り手であることからもそれは分かる。

これといって探偵役をつとめる人物が見当たらず、推理らしい推理がされることもない。ひとつトリックがあるが、誰にでも分かってしまう初歩的なもので、ミステリとして、クリスティは過褒だろう。だが、王立協会の母胎となる会合に集う若者たちと旧体制にどっぷり浸かった長老派との対立や、清教徒イングランド国教会ローマ・カトリックの間に根づく宗教対立を含んだ、イングランドの複雑に入り組んだ権力争いを、ミステリの形式に落とし込んで、文庫上下巻で千ページを超える長丁場を最後まで読ませる力量は大したもの。

ボイルの「空気ポンプ」を使っての実験や、リチャード・ローワーによる史上初の人体間の輸血など、科学時代の幕開けを告げる動きがある一方で、あたりにはまだ、魔女や魔法、霊や錬金術が跋扈していた。混乱を極める時代の黎明期、歴史に名を残す実在の人物を多数配し、それぞれの経歴に応じた役どころを与え、一大歴史ミステリを仕立て上げたイーアン・ペアーズの力を評価したい。中でも、一六五五年にオックスフォードで絞首刑になったアン・グリーンをモデルにした、サラ・ブランディの造形が光る。『ストーナー』の訳者、東江一紀氏はじめ、名だたる訳者四人が、四つの手記を訳し分けているのも魅力だ。

『言語の七番目の機能』ローラン・ビネ 高橋啓訳

f:id:abraxasm:20200826183413j:plain

評を書くときには、読者がその本を読む気になるかどうかを決める際の利便を考慮し、どんなジャンルの本かをまず初めに伝えるようにしているのだが、本書についてはどう紹介したらいいのか正直なところ悩ましい。シャーロック・ホームズ張りの推理力を発揮する人物が、ワトソン役の警視とともに殺人事件の謎を追うのだから、謎解きミステリというのがいちばん相応しいのだろうけれど、ミステリとひとくくりにしてしまうと少々具合が悪いことになる。通常のミステリ・ファンが本書を面白がるとは思えないからだ。

黒死館殺人事件』から法水麟太郎の超絶的な博学の披露を取り去ってしまったら、並みの推理小説と大して変わらないという評を読んだことがある。まあ、それは確かにそうだろう。衒学趣味(ペダントリー)を味わうことが謎解き興味より大事にされているのが明かな作品なのだ。名探偵を主人公に据えた探偵小説には、もともとそういうきらいがある。人の窺い知れない謎を解き明かすことのできる人物には、他を圧するだけの知の持ち主であることが要求されるのだ。それを出し惜しみするのはかえって無理がある。

シモン・エルゾグは、パリ第八大学(ヴァンセンヌ)で記号学の講座を受け持つ講師。今はサン=ドニにある大学がヴァンセンヌにあることから分かるように、時代は一九八〇年から八一年にかけて。フランスの政治で言えば、大統領がジスカール・デスタンからフランソワ・ミッテランにかわる激動の時代。社会党ミッテランが大統領に選ばれた日のパリの狂騒ぶりは、よく覚えている。

シモンが捜査に加わることになったのは、ジャック・バイヤール警視が大学を訪れ、無理矢理シモンを相棒に選んだからだ。ついには、一緒に大統領の執務室に招かれ、正式に国家に雇われることになる。どうやらことは国家的な一大事らしい。イデオロギー的にはヴァンセンヌに勤めるシモンは左派で、現大統領には批判的だが、ことの経緯上やむを得ない。何しろ、交通事故で入院中のロラン・バルトが、実は事故ではなく誰かに襲われた疑惑がある、というのだ。

この小説は、フランスの政権移行を背景に、時代の寵児であったロラン・バルトの事故死を題材にした謎解きミステリの形をとりながら、記号学構造主義といった当時の知の体系を軽やかにさらってみせるとともに、フーコーデリダドゥルーズアルチュセールジュリア・クリステヴァ、フィリップ・ソレルスといった綺羅星のごとき哲学者や作家たちを巻き込んで、ロマン・ヤコブソンが残したとされる『一般言語学』の草稿をめぐる、てんやわんやを露悪的な形で嘲笑してのける、かなり厄介な小説である。

ただ、小説内に書かれているアルチュセールが妻を絞殺した事件は実際に一九八〇年に起きているし、ロラン・バルトが交通事故に遭ったのも同じ年の二月で、史実と創作を巧みにないまぜにしてみせる小説作法は、ゴンクール賞最優秀新人賞を受賞した『HHhH―プラハ、一九四二年』以来、この作家の得意とするところだ。本作の目玉は表題にある『言語の七番目の機能』である。ヤコブソンの本には言語の持つ六つの機能が紹介されているが、七番目はない。ところが、草稿にはそれが書かれていたというから穏やかでない。

バルトはどこからか草稿を入手し、ひそかに屋根裏部屋に隠し持っていた。そして、紙片の裏表にびっしり「言語の七番目の機能」について書き写したコピーを持ち歩いていた。何者かがそれを奪う目的で彼を襲ったと考えられる。アルジェリアで戦ったこともあるバイヤールは左翼とインテリには縁がない。コレージュ・ド・フランスを訪ねてフーコーにバルトの話を聞きに行ったのはいいが、話の内容がさっぱり分からない。そこで、話を翻訳してもらおうと記号学の専門家を探しに今度はヴァンセンヌを訪れ、シモンを見つけた次第。

風体が逞しく押し出しのいいバイヤールと線の細いインテリのシモンという、二人のコンビがなかなかいい。読者はバイヤール同様、記号学について何も知らなくても心配することはない。すべて、シモンが分かりやすく翻訳してくれる。そして、知的エリートの際限のない大言壮語を聞かされたり、性的に放埓の限りを尽くすさまを見せられたりするたびに、腹の中でバイヤールがつぶやく悪口雑言に共感する。この仕掛けが小説の工夫なのだ。

ビネは、フーコーソレルスの文体を模倣して、パスティーシュの技量を見せつけながら、返す刀で、口舌の裏に隠された名誉欲やライヴァルの足を引っ張ろうとする敵愾心などをここぞとばかりに暴き立てる。言葉が華麗で文体が流麗であればあるほど、その内実の醜悪さが浮かび上がる。ミステリ仕立ての本作が意識したはずの『薔薇の名前』の作者、ボローニャの賢人ウンベルト・エーコを除いて、ほとんどのフランス人の哲学者や作家はひどい書かれようだ。フーコーの性豪振りなどあからさま過ぎて、これでよく文句が出なかったなと心配になるほど。

映画『ファイト・クラブ』から着想した「ロゴス・クラブ」という秘密の会合が面白い。拳ならぬ弁論で戦う一対一の争いである。弁論術のレベルによっていくつかの位階があり、相手を倒すことで位階が上がるシステムだ。もっとも、本戦ともなれば試合に敗れると指を切り落とされるという痛い判定が待ち受けている。まだ誰も知らない「言語の七番目の機能」を手に入れることができれば、恐らく無敵の勝者になれるだろう。

大は国家権力をめぐる暗闘から、小は個人の名誉欲まで、様々な思惑がいくつも重なりもつれあって何人もの人命が奪われる。パリ、ボローニャ、イサカ(アメリカ)、ヴェネツィアナポリと、大西洋を挟んでヨーロッパとアメリカを股にかけた壮大な謎解きミステリであり、スパイ小説でもある。カー・チェイスあり、傘に毒薬を仕込んだ暗殺あり、謎の日本人の二人組まで登場する一大エンターテインメント。時移れば、あの知の巨人もこう揶揄われるのか、と構造主義ポスト構造主義華やかなりし時代を知る者には、ほろ苦い思いを抱かせる問題作ではあるが、読ませる小説であることは間違いない。