青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

山で見た夢

著者は、雑誌『山と渓谷』誌の元編集長。若いころは本格的な登山にいそしんだものだが最近は思うところあって沢登りや渓谷に魅力を感じるようになってきている。一つには、登山をめぐる事情の変化があるらしい。初期のアルピニズムに傾斜した「初登」「単独」「冬季」のような「冒険的・記録的登山」は、記録が達成されるに連れ、「無酸素」のように、より困難な条件下での登山が要求されるようになった。近年においては最高齢登頂が話題になるなど記録の質自体が変化している。一方で、中高年の登山がブームを呼び「娯楽的・スポーツ的登山」が活況を呈し、「温泉観光客が山に場所を移したような登山客も少なくない」。

純粋なアルピニズムを追い求めるのは最早無理だが、娯楽的な登山でお茶を濁す気にもなれない。山好きのジレンマは、こんなところではないだろうか。山岳誌編集歴13年、山と関わること30年という著者は、山との新しいつきあい方を提案する。「冒険的・記録的登山」「娯楽的・スポーツ的登山」のいずれにせよ、現行の登山は「山頂登頂主義」。山頂に至れば成功、至れなければ失敗という困難さを規準にした二元論である。著者はいう。「人と山とが精神的にも肉体的にも自由に関係すればよいのではないか。<登る>ことよりも、<山>という場へ人間が移動し、身を置くことただそれだけでいい」と。

評者のような門外漢にはこの発想の転換は興味深く思えるが、筋金入りの山屋たちにはどう受けとめられるだろう。とりあえず、地図を片手にこの本を読んでみるのはどうだろうか。有名、無名を取り混ぜた日本各地の山行が取り揃えてある。短い文章だが、山頂、山波、山里、渓谷、草原、岩壁、雪稜。これまでの山行の中から拾い上げた記憶が甦る。静寂な山ならではの夾雑物を廃した詩的な文体に、読者はかつての自身の山行の記憶を重ね合わせ、その清冽な抒情に胸打たれるにちがいない。

或いは、秋山郷をはじめとする秘境探訪記はどうか。残雪期の北アルプス剣岳北方稜線、毛勝三山。奥只見、片貝の池、白沢の池。南アルプス深南部、光岳から寸又峡温泉と、著者の好みは、どうやらあまり人の訪れない時季やルートをわざと選んでの山行にあると見た。夏なら多くの登山客が溢れる伯耆大山を積雪時に登ったり、白馬岳に黒部峡谷川から登ってみたり。考えようによってはへそ曲がりな行為だが、他の人には見つけることのできない風景との出遇いが待ってもいるわけで、文章にするときにもその方が面白いにちがいない。このあたり山屋でもあり雑誌編集者でもある著者ならではの勘所なのだろう。

自身の山行の記録だけではない。山に暮らす人を訪ねてのルポルタージュ、ほとんどファンタジーとも言えるフィクションとその内容は多彩。編集者の文章を云々するのも烏滸がましいが、文体も自在である。山でとったメモを素材にした文章の現在形を巧みに点綴する小気味の良いリズム。傾倒する辻まことに通じるもののあるユーモア感覚。動植物の名を記すのに漢字ルビ振りを用いるセンス(新聞等は教科書に準じて片仮名表記である)。山中の池に泳ぐ金魚(緋鯉の稚魚か?)に太宰の『魚服記』を見たり、深山の不気味さに鏡花の『高野聖』を思い出したりする文学趣味の横溢。裏表紙に「新しい山岳文学の誕生」とあるが、あながち宣伝とばかりも言い切れない。

なにかと気ぜわしく、ゆったりとかまえて日を送ることの難しい昨今である。地図を開いて、文章に記された地名を頼りにルートをたどり、紙上散策を楽しむのも一興かと。評者は、読後しばらく行っていない山への思いが募るのを覚えた。時間ができたら、ここに記されたルートのうち自分に可能ないくつかを実際に訪ねてみたいと思っている。もちろん、事前の準備、調査は怠りなくやるつもりだ。
山で見た夢――ある山岳雑誌編集者の記憶