青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『レス』アンドリュー・ショーン・グリア

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『レス』というのは主人公の名前である。最近では珍しくなったが、『デイヴィッド・コパフィールド』しかり、『トム・ジョウンズ』しかり、長篇小説の表題に主人公の名前をつけるのは常套手段だった。原題は<LESS>。これが「(量・程度が)より少ない」という意味を持っていることくらい、最近では小学生でもわかる。そういう名前の持ち主が主人公であり、それが表題や各章のタイトルになっているとしたら、初めから内容が想像できるというもの。

口の悪い評者がハリウッドの二流のロマコメのようだ、と評していたが、いいじゃないか。ロマコメは嫌いではない。スプラッターやホラーより、ずっと好きだ。でもこれはロマコメではない。男女間の恋愛は一切出てこない。というより主人公のアーサー・レスはゲイなのだ。ただし、コメディではある。行く先々でトラブルが待ち受けており、アーサーはバナナの皮に滑り、落とし穴に落ちる(いうまでもなくこれは比喩である)。読者は痛い目に遭うアーサーのしくじりを笑いながら、しだいに愛しはじめていることに気づく。

「行く先々」と書いたが、これは比喩ではない。本文中にもちらっと出てくるが、小説の中で主人公は世界を一周する。そう、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』のように。ただし、相棒のパスパルトゥを連れずに。それというのも、それまでパスパルトゥ役を受け持ってくれていた恋人のフレディが結婚式を挙げることになったから。勿論、喧嘩別れではないので式に招待されている。アーサーは式に出て、みんなに笑いものにされることをひどく怖れている。しかし、欠席しても陰口を叩かれるのは同じだ。

アーサーにはかつてピュリッツァー賞を受賞した詩人のロバートという年上の恋人がいた。マリアンという女性と結婚していた詩人を奪って長い間一緒に暮らした過去がある。その彼が若いフレディと暮らしていることをみんなが知っている。今度は、もうすぐ五十になる自分が捨てられた格好だ。式を欠席する口実を作るため、彼は放ったらかしてあった手紙の束を手にとり、スケジュールを組み上げた。世界各地で行われるコンテストや、講演、対談の依頼をかたっぱしから引きうけるのだ。言い忘れていたが、アーサー・レスは作家である。

処女作『カリュプソ』は、『オデュッセイア』の「カリュプソ」の視点からの語り直しだった。これは世界で訳書が出されるほど評判を呼んだ。ただし、最新作『スウィフト』は、出版社に留め置かれたままで出版のめどが立っていない。アーサーは長年の恋人と別れ、独りで五十歳の誕生日を迎えることに耐えられそうもない。そこで、旅に出ることにした。そうすれば、次々と立ち現れる新しい土地のできごとに気がまぎれ、フレディのことを考えずにすむだろうし、友人たちとサハラ砂漠ラクダで越えながら、誕生日を迎えられる。

一番目はサンフランシスコの自宅からニューヨークへ飛び、SF作家との対談。二番目はメキシコ・シティで開かれる学会に参加。三番目はトリノで最近イタリア語に訳された本に賞が与えられることになっている。四番目はベルリン自由大学の冬季講座で、好きなテーマで五週間の授業が待っている。五番目はモロッコマラケシュからサハラ砂漠を越えてフェズまでの旅。これは自費の旅行。六番目はインド。フレディの義理の父である旧友カーロスの提案でアラビア海を見下ろす丘にある隠遁所で小説を執筆する。最後が京都。懐石料理を食べて機内雑誌に記事を書く。東から飛び立ったアーサーは世界を一周して西から帰ってくることになる。

しかし、対談相手のSF作家は食中毒に苦しんでいるし、メキシコの学会は終始アーサーには理解できないスペイン語が使われている。トリノでは最終選考に残った作家たちの間で自身を喪失し、ベルリンでは自分のドイツ語のひどさを思い知らされる。ただし、悪いことばかりでもない。ベルリンの授業は若者たちに大うけだし、ヴィンセントという恋人もできる。サハラ砂漠ではお定まりの砂嵐に遭遇するが、自分の小説に足りなかった点を発見することもできる。インドでは、それを手掛かりに小説を書き直し始める。

主題は、アーサーがオーラのように身に纏うイノセント(無垢)である。よくある手法だが、語り手は知っているが主人公は知らない。アーノルド・ローベルの『お手紙』という絵本がある。かえるくんが親友のがまくんに手紙を書く。それをかたつむりくんに配達してもらうのだが。「まかせてくれよ」「すぐやるぜ」というが、勿論手紙はなかなか届かない。がまくんの家を訪ねたかえるくんはがまくんに書いた手紙を聞かせる。「いい手紙」を待つ二人の長い時間が愛おしい、というあの手法だ。

アーサーの小説は「仰々しく感傷的」と評されたり、自分がゲイであることを恥じている「駄目なゲイ」であることを書いている、とゲイの作家に言われたりする。そう言われるたびに傷つき、自信を無くすアーサーだが、彼の小説が好きだ、という人物は周りにたくさんいる。アーサーにそれが見えていないだけだ。五十歳が近づき、年取った独身者のゲイになることを心の底で怖れてもいる。しかも、それを隠そうともしない。人前にまっさらな自分を開けっ広げにできる人間などめったにいない。それも五十歳にもなって。

授業で取り上げられる作品がジョイスだったり、ウルフだったり、レイモンド・チャンドラーの言葉が引用されたり、とお気に入りの作家がチョイスされていることも嬉しい。ネタバレになるので詳しくは書けないが、手の込んだメタ小説でもある。「信頼できない語り手」という手法も取り入れて、予想される結末へと向かってじっくり迂回しながら歩を進めてゆく。伏線の回収のされ方も堂に入ったもので、失くしたものと手に入れるものの均衡すら美しい。コメディでピュリッツァー賞(文学部門)受賞というのも、なかなかないことらしい。人物や衣装、風景の美しさはまさに映画向き。チャーミングな小説である。