青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『小説ムッソリーニ 世紀の落とし子』上・下 アントニオ・スクラーティ 栗原俊英 訳

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<上下巻合わせての評です>

これは、戦後イタリアではじめて真正面からファシズムを描いた小説である。では、今までなぜそれができなかったのか。それは、偏にムッソリーニという人物のキャラクターにある。ある種の能力に恵まれてはいても、等身大の彼はどこにでもいるイタリアの大衆の一人に過ぎない。こんな人間を真正面から取り上げれば、いくら反ファシズムの思いで書かれたとしても、読者がムッソリーニに、ひいてはファシズムの荒々しい魅力に魅了される危険性がある。現にこの小説が評判になると、そういう批判が起きたという。

ベニート・ムッソリーニが、戦闘ファッショを立ち上げ、ファシスト党独裁政権を樹立するまでを描く全四部作の、本作は第一部にあたる。上下巻合わせて約千ページ。圧倒のボリュームながら、これでも一九一九年から一九二四年に至るわずか五年間を扱っただけにすぎない。小説と銘打ってはいるものの、著者曰く「あらゆる出来事、人物、会話、作中で交わされる議論は、史料か、信頼の置ける複数の証言に依拠している」ノンフィクション・ノヴェルである。

ヒトラーと比べるとムッソリーニは影が薄い。映画や小説にしても圧倒的にヒトラーの方に分がある。どうしてそうなったかは知らないが、この本を読んでみると、ベニート・ムッソリーニはなかなかの傑物である。何でも呑み込んでしまうファシズムという融通無碍な大風呂敷を広げ、党勢拡大のためには、何度でも倦むことなく妥協を繰り返し、二股も三股もかけて、粘り強く交渉をする。規律正しく政務をとる一方で、複数の女性とのつきあいも欠かさない。一語一語をはっきり区切る演説は聴く者を魅了してやまない。

敵、味方に分かれて多くの人物が登場し、同時多発的に事件が展開してゆく。ムッソリーニの手兵は「突撃隊」と呼ばれる元軍人からごろつきまで含む、暗殺、放火、懲罰と何でもありの無法者の集まりだ。ムッソリーニはこれを直接ではなく、同僚や直属の部下に命じて操り、ボリシェビキをはじめとする敵対集団の勢いをそぐために用いる。こうすれば自分に火の粉が降りかかることはない。なんのことはない。やくざ、暴力団、マフィア、ギャング、何でもいいが、同じ手口だ。

ヒーロー物にはライヴァルが付きものだ。ムッソリーニは鍛冶屋の息子である。庶民的な彼には、その対極である貴族や富裕層が相手にふさわしい。上巻でムッソリーニの前に立ちはだかるのがイタリアの国民的英雄であり、大詩人のガブリエーレ・ダンヌンツィオ。あの三島由紀夫も憧れた生粋のダンディーだ。当時イタリアは第一次世界大戦に参戦し、多数の戦死者を出しながら、領地割譲は行われず、国民には負の感情が蔓延していた。ダンヌンツィオは、その国民感情を煽り、イタリア帰属を願うフィウーメ(現クロアチア領リエカ)に進軍、占拠する。人気ではムッソリーニが到底かなう相手ではない。

その、ムッソリーニは、世界大戦参戦を表明したことにより、中立を標榜する社会党から除名された。ロシア革命の成功が世界地に飛び火し、共産主義の運動が大きなうねりとなって押し寄せてきていた。戦時の英雄も戦争が終われば無用の存在。ムッソリーニは、腐っていた元突撃隊員を同志にし、戦闘ファッショを旗揚げし、勢力を拡大してゆく。しかし、国政への参加という、さらに上を目指すムッソリーニの野望を尻目に、突撃隊による暴力はとどまることを知らず、ムッソリーニの足を引っ張っぱる存在になりつつあった。

下巻でムッソリーニの最大の敵となるのが、富裕な階級の出身でありながら貧しい者たちのために働こうとする統一社会党の議員ジャコモ・マッテオッティ。議場や会議におけるムッソリーニの威嚇と恫喝、その裏で、親玉の焦慮を忖度した者たちの示威行動の甲斐あって、他党派は懐柔され、ムッソリーニの独裁は着々と進んでいく。多くの者がその力になびくなか、たった一人でそれに立ち向かうのがマッテオッティ。証拠となる資料を手に、詳細な数字を上げ、独裁者の不正を暴いてゆく。

マッテオッティの追及に焦りを隠せないムッソリーニ。配下の者は、マッテオッティを襲い、汚職の証拠となる書類を奪おうと画策するが、相手の抵抗にあい、やむなく車で誘拐するという暴挙に出る。それまで自分を担いでくれていた暴力集団が、一国の首相ともなればかえって足枷となってくる。マッテオッティの失踪はムッソリーニによるものだ、という声が大きくなり、彼はすべてを失う危機に陥る。これをどう乗り切るか。もう、これはクライム・ノヴェルかギャング映画の世界である。

マッテオッティが議会でムッソリーニに対してぶつけた演説を引用しておく。

あなた方はいま、力と権力を手中に収めている。自分たちの権勢を誇っている。なら、ほかの誰でもなくあなた方が、法を遵守する姿を率先して示すべきなのです……自由を与えられれば、人は間違いを起こすものです。一時的に、放縦がはびこることもあるでしょう。だが、イタリアの民衆は、ほかのすべての国の民衆と同じく、その過ちをみずから正す能力があることを示してきました。しかるに現政権は、世界のなかでわが国の民衆だけが、自分の足で立つことを知らず、力による支配を受けるのにふさわしい国民であることを示そうとしています。

文中の国名を日本に替えてみるといい。今、この国で国会が開かれたなら、こういう胸のすく啖呵が聞けるのかもしれない。しかし、憲法を無視し、総裁選に現を抜かす与党を批判もせず、幇間のように持ち上げる報道機関しか持ち得ないこの国で、それは望むべくもない。彼の国では、ファシストによる独裁政権下であっても、国会が開かれ、これだけの反対演説がなされたことが記録に残されている。『小説ムッソリーニ』は、他国の歴史を描いたものである。それでも、今、この国で読まれるにふさわしい書物であると思う。