青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『シルトの岸辺』ジュリアン・グラック

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皆川博子著『辺境図書館』で興味を持ち、読んでみた。忽ち後悔した。なぜもっと早く読もうとしなかったのか、と。第二次世界大戦が終わって間もない頃に書かれた小説でありながら、まったく古さを感じさせない。原作がそれだけ優れているのだろうが、安藤元雄による訳もまた見事なもの。海を隔ててアラブの世界に接する、どこかヴェネツィアを思わせる架空の都市国家オルセンナが舞台。シルトというのは、もともと潮の流れとともに移動して浅瀬を作り、船の航行を阻む、沿岸の流砂を意味する言葉だという。

オルセンナ共和国は、そのむかし異教徒を武力で平らげ、東方貿易によって途方もない利益をあげたが、今ではその資産も使い果たし、ただ過去の栄光にすがって生きていた。貴族による寡頭政治も形式化し、要職に就くのは働き盛りを過ぎた老人ばかりで、青年貴族は高尚な倦怠を楽しんでいた。オルセンナでも旧家のひとつに数えられる名門貴族の末裔アルドーもその一人。詩を読み、散策を楽しみ、馬を駆る日々だったが、あるとき、そんな毎日が空しくなり、僻遠地での勤務を政庁に願い出る。

昔から都の貴族たちは戦地に送り出した大量の軍人による反乱やクーデターを恐れ、息子たちを軍に送り込みスパイさせてきた。しかし、ファルゲスタンとの戦争は三百年も続いており、停戦の機会のないまま、だらだらと戦争状態を維持しているだけで、実戦はおろか、監視すら放棄されていた。アルドーが監察将校として派遣されたシルトの鎮守府オルセンナの最南端に位置し、シルト海をはさんでファルゲスタンの軍港と睨み合う最前線であった。

鎮守府を預かるマリノ大佐は部下思いの上官だったが、平和な状態を愛しており、部下たちも現地の農家の手伝いを日常業務にしていた。砲台は放置され監視船も半ば砂に埋もれる有様。将校たちは休日ともなれば近くのマレンマへ通いつめ、酒色におぼれていた。アルドーはせっかくやってきた鎮守府の無気力さにあきれ、ひとり残って海図室にこもっていたが、旧知の貴族の令嬢、ヴァネッサがマレンマの別荘に現れたのをきっかけに、焼けぼっくいに火がつく。

当時、マレンマでは隣国との戦争に関する噂が秘かに囁かれていた。ある夜、アルドーは見知らぬ船が領海を越えて航行するのを目撃。マリノに報告するが、問題視されない。都に現状報告を提出したアルドーに送られてきた返事には、要領を得ない文書が付されていた。アルドーには、それがファルゲスタンを監視するよう命じているように読めた。マリノの留守中、監視艇を出すことを命じられたアルドーは、領海を越え、闇夜に乗じファルゲスタンの沿岸にまで船を進め、対岸から銃撃される。

しかし、銃撃はそれっきりで特に両国間に変わったことは起きぬまま日は過ぎていった。そんなある夜、アルドーのもとへファルゲスタンからの親書を所持する一人の男が現れる。そこには、領海侵犯が過失であったというオルセンナからの正式な謝罪がなければ、ファルゲスタンとしては、意図的な行為とみなすという意味の言葉が記されていた。血気にはやった若者の思慮に欠けた行為が戦争の口火を切ることになるのか。アルドーは都に呼び戻され、政庁で訊問を受けることに。

オルセンナの政庁を取り仕切る老ダニエロの語る言葉が深い。ずっと眠り呆けていたように見える自国と隣国との間に戦争状態が勃発しそうになっていることを知りながら、何故手を拱いて放置するのかと問うアルドーに答えて彼は言う。長台詞なので一部を引く。

自己嫌悪だよ。あまりにも長いこと自分のことばかり考えすぎるとそうなるのだ。国境地帯には人の行き来が途絶え―皮膚の表面が麻痺して、一種の無感覚状態におちいり、まるで触覚を失ったような―外部との接触を失ったような形になる。オルセンナは、自らの周囲に沙漠をめぐらして、孤立してしまったのだ。世界という鏡に自分の姿を映してみたくても、もう自分の姿がわからない。

「外交」をしないで、「外遊」ばかりしている大臣しかいない国の民としては、この老政治家の言葉が耳に痛い。戦争は突然やってきたりしない。国境が開かれていて、他国との行き来が正常に行われていれば、相手の態度や言葉に現れる何かがこちらの神経に触れ、同様のことが相手にも察知できる。異なる宗教や政治体制を持つ国家と国家が互いにうまくやってゆくためには日常的なつきあいというものが不可欠なのだ。自国の文化の優越を誇り、他国を蔑ろにしていれば、その報いを受けることになる。

もっとも、この小説は、そんな分かりきった理屈を講じているわけではない。倦怠のうちに腐り落ちようとする国家と心中するのが嫌で、際涯の地に身を置いた若者が自身の情熱と恋人からの挑発に身をまかせ、大胆不敵な行動を取り、国を滅亡の危機に陥らせる。その一部始終を「宿命」という主題を響かせながら、比喩に比喩を重ね、まるで館や要塞といった命なきものが生命を帯びているかのごとく描き出す、散文詩を思わせる流麗かつ彫琢された文体は、シュル・レアリスムの持て囃された時代にあっては時代錯誤ですらあったろう。

安藤元雄といえば、ずいぶん以前に白水社から出た『フランス詩の散歩道』という本を愛読書にしていた。久しぶりに書棚から取り出すと、すっかり日に灼けていたが、文章の瑞々しさはそのままだ。「訳者略歴」には、グラック『シルトの岸辺』もちゃんとあった。当時の自分には、そこからたどって本を探すというような真似は、まだ思い及ばなかったのだろう。長い回り道をしたものだが、やっと読むことができてよかった。