青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『泡』松家仁之

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薫は東京の私立男子校に通う高校二年生。学校が休みになる八月の一か月間、紀伊半島にある砂里浜(さりはま)という漁師町で暮らすことになった。どうにも学校に足が向かなくなったのだ。特にいじめにあった、というのではない。生理的嫌悪感に似たもので、体育系教師が幅を利かす校風も嫌だし、もともと志望校に落ちて滑り止めに受かって通うようになっただけの学校で、そこに居場所が見つからなかったということもある。

祖父のいちばん下の弟で、薫にとっては大叔父にあたる兼定が、砂里浜でジャズ喫茶を営んでいた。両親ともに教職者という家庭で育った薫には、法事の際に帰郷しては面白おかしく話を聞かせてくれる兼定がお気に入りだった。東京にいれば同じ学校の生徒に出くわすこともある。かといって昼間誰もいない家に、ひとり閉じこもってばかりもいられない。温泉と海水浴場しかない漁師町だが、ひと夏過ごすにはうってつけだった。父が電話すると大叔父は快く受け入れてくれた。

佐内兼定(さないかねさだ)はもともと東京生まれだが、小樽高商でロシア語を学び、戦争が始まると軍属として満州に渡った。不可侵条約を破って侵攻してきたソ連軍により、シベリア抑留生活を送る憂き目を見た兼定は、復員後生家に戻ったが、両親は死に、長兄の鍬太郎が家長となっていた。当時、シベリア抑留者は、ソ連によって赤化教育を受けた「アカ」だという風評が蔓延っており、兼定の帰国を家族は喜ばなかった。

シベリア抑留時の友人の遺品を届けるため、砂里浜を訪れた兼定は、海が見えて坂のある町の佇まいが気に入り、当地に腰を据えることにした。保険の営業で得た蓄えを元手に、閉店したバーを格安で譲り受け、中古ながらオーディオ機材は高級品を揃えた。コーヒーと軽食を出し、モダンジャズを聴かせる店は、それなりに地元に受け入れられ、常連客もでき、どうやら軌道に乗るようになっていた。

はじめは一人でやっていた「オーブフ」(ロシア語で「靴」の意)に、ある日、ダッフルバッグを手にし、長髪に髭を伸ばし放題にした男が顔を出した。なぜかその男を見たとき、店にいつきそうだと感じた兼定は、そのまま自分の経営する貸アパートに案内し、店で雇うことにした。岡田というその男は、料理も上手にこなし、客あしらいも上々で、最近では岡田目当てに足を運ぶ客も出てきて、兼定は隠居気分になりつつあった。

それぞれ理由は異なるものの、東京を捨てた男三人が、太平洋に面した海辺の町で暮らし始める。薫にとっては、自分というものを意識してはみたものの、それをどう扱っていいやら分からない、思春期の葛藤を抱えた若者の自分探しの旅である。兼定にとってはシベリア抑留という過酷な試練を経て、ようやく帰国してみれば、国家や家族からまるで余計者扱いされるという理不尽な目に遭い、わだかまりを覚えていた親族との和解の機縁でもある。

根のある二人とちがい、流れ者の岡田は謎めいている。過去を語ることもない。ふらりとやってきて、偶々ここに草鞋を脱いだだけの人物だ。しかし、岡田が緩衝材となることで、年の離れた兼定と薫の関係がぎくしゃくせず、薫はいつもより自然に自分と向き合うことができる。兼定兼定で、親戚の年配者らしい説教を垂れたりせずにすむ。薫にしてみれば、邪魔にもされず、かといって放りっ放しというのでもない、東京にいるのとは違って、実に気持ちのいい毎日が送れるのだった。

緊張の高まる町にどこからか流れ者がやってきて、いつの間にか住み着いては町の人の気持ちを宥め、それぞれが自分の思うように生活を始める、そんな映画か小説がどこかにあったような気がするが、はっきりとは思い出せない。薫は岡田に料理を習い、その流れるような自然な動きに魅せられる。繰り返しを厭う気持ちの強い薫だが、ジャズ喫茶の調理場を手伝ううちに、日々の繰り返しの中に確かにある生きる実感のようなものを感じ始める。

妄想ばかりで、憧れの女性との関係は中途半端で終わる薫とちがい、岡田には新しい女性との関係が始まる。兼定の目には日に灼けた薫は外見だけでなく、内面もたくましくなったように見える。店はいつでも岡田に譲って引退する気でいるが、岡田にはそれが桎梏と受け止められはしまいか。お互い、突っ込んだ話は抜きでやってきた。それがよかったのだ。今更、面と向かって話すようなことでもない。

特に何が起きるでもない。都会を遠く離れた海辺の町のジャズ喫茶をめぐる他愛ないと言えばそうも言える話。ジャズ喫茶といっても、マニアが眉根に皺を寄せて黙りこくって曲に耳を傾ける、といった本格的な店ではない。昼食がてら店を訪れ、食後のコーヒーと店長こだわりのジャズをいっとき味わってはそれぞれの職場に帰っていく。そんな止まり木のような店だ。薫もまたひと夏、羽をやすめに来た若鳥のようなものだ。

一昔前のヨーロッパ映画の、若者のひと夏の経験を描いたモノクロフィルムのような、全篇に白く乾いた熱気を漂わせる一篇。年老いた者には、巡り巡ってようやく落ち着いた老年の淡々とした日々の何気ない日常の持つ滋味を、若者には、思春期の自我の芽生えに手を焼く疾風怒濤の惑乱を、そして、齷齪と人生を生きる者には、かつて夢見た何処の誰とも知れぬ流れ者だけが味わうことのできる放逸の生を、しみじみと思うさま味わわせてくれる。近頃、なかなかお目にかかれない端正な趣きのある小説である。

『平凡すぎる犠牲者』レイフ・GW・ペーション 久山葉子 訳

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「チビデブ」で、仕事には不熱心。口にこそしないが、内心では差別意識丸出しで他人をけなし続け、当然ながら自己評価はめちゃくちゃ高い。ところが、なぜか最後にはきまって事件を解決してしまう。こんな適当な人物が主人公を務める謎解きミステリ、読んだことがない。そりゃそうでしょう。普通は、この手の人物に光をあてたりしない。でも、そんな人物を視点人物に据えることで、心の中でつぶやく絶対に口にしちゃいけない言葉が外にだだ洩れ。ポリティカル・コレクトネスなどくそくらえ。これで面白くならないわけがない。

仕事ができないわけじゃない。結果的に犯人は上げるのだから捜査官としての能力は優秀だ。本人は気づいていないから、おそらく無意識で動いている。では、どうして周りの、特に上層部のウケが悪いのか。それは、彼らとちがって仕事第一人間じゃないから。妻子持ちでもないのに、定時に家に帰る刑事なんて見たことがない。おまけに、何かというと休憩をとっては甘いものに手を伸ばす。たっぷりとランチを食べた後は、地下のガレージで、バンの中に設置したベッドで二時間程度仮眠。すっきりした頭で捜査会議に出る。

誰でもそうありたい「クオリティー・オブ・ライフ」を体現しているわけで、したくてもできない周りからすれば癇に障る。もっとも、どこまで勤務実態がばれているのかはわからない。その辺の立ち回り方は極めてうまい。それだけじゃない。警察内部で手に入れた情報を知り合いに流しては見返りを得ることも日常茶飯。だから、素敵なアパートにアンティーク家具や、高級ベッドを置けるのだ。多方面に顔が利き、重要な情報も握っているので、実力者も協力を惜しまない。組合に手を回すことも忘れない。相次ぐ左遷や島流しから、不死鳥のごとく甦るのもそのせいだ。

その人事権を通じて、ベックストレームをストックホルム県警の物品捜索課に追いやったのも、今回ソルナ署に戻したのも、今は引退した元国家犯罪捜査局長官のラーシュ・マッティン・ヨハンソン。同じ作者による『許されざる者』の主人公である。この二人、実は同時代のスウェーデンの警察組織で働いている。一緒にではないが、あのパルメ首相暗殺事件を別の角度から追いかけてもいる。こういえばエリート階級に属するヨハンソンは心外だろうが、いわばある種のライヴァル関係にある、といってもいい。

ベックストレームの捜査で、実際に動いているのは部下なので、彼のやることは、自分が働かずに済むように部下に適当な仕事をあてがうこと。会議で報告を聞くときも「続けてくれ」などと言いながら、頭の中は全く違うことを考えている。今夜飲む酒のことや、食べ物のことならまだいい方で、その多くは、今発言している者に対する偏見と差別意識にまみれた批評。もっとも、それを腹の中で思うだけで、口にしないところは常識がある。これでも一応警部なのだ。

今回は、ソルナ署の管轄で一人の老人が惨殺される事件が起きる。当初、誰もが、アル中がアル中に殺されただけのよくある事件と思っていたが、事件の第一発見者である新聞配達の青年が殺されると、そうとばかりも言っていられなくなる。悪いことに、何日か前、空港で起きた現金輸送車強奪事件との関係まで疑われるようになってきて、ヨハンソンの肝いりで、あのアン・ホルトが署長になったばかりのソルナ署内は浮足立つ。両シリーズの登場人物が、どちらの作品にもちょっと顔を出すのがファンにはうれしい。

スウェーデン警察で何が起きている? 女々しい男にレズにガイジンに、普通のおめでたいバカども。まともなお巡りさんは、目の届くかぎり一人もいない」とうそぶくベックストレームだが、表題通り、犠牲者が平凡すぎるのに比べ、ベックストレーム率いる捜査陣の方は個性的すぎる。事実、ベックストレームのやることといえば、周りの仲間に対する、ガリガリだの、レズだのといった辛辣極まりない人物評。そうでなければ飲んだり食ったり、何したり、という訳で、周りにしっかりした部下がいなければ始まらない。

日本と違い、移民や難民を積極的に受け入れてきたスウェーデンでは、警察も多国籍化されている。鑑識のニエミはフィンランド野郎で、その部下のホルヘ・エルナンデスはチリからの移民の子、その妹のマグダも同様だ。事務捜査担当のナディアはロシアの博士号を持つ亡命女性。フェリシアはブラジルの孤児院からスウェーデンに養子としてもらわれ、強面のフランクはケニアからの養子。サンドラはセルビア人犯罪者の娘というから経歴も凄い。

むしろ、生粋のスウェーデン人の方が少数派で、旗色が悪い。ベックストレームは本当のところ、差別主義者でも何でもない。新しい状況に馴れていないだけだ。同じスウェーデン人でも、凡庸なアルムは軽んじられているのに、単なる行政職員でしかないナディアは、ベックストレームのロシア人観に影響を与えるほど、その捜査能力を頼りにされている。人を見る物差しが常人と異なるだけで、口ほど人は悪くはない。相手を深く知るにつれ、ベックストレームの他者に対する評価が変わってくるのがよく分かる。

許されざる者』などの、ラーシュ・マッティン・ヨハンソンを主人公とするシリーズを「正統」とすれば、ベックストレームのシリーズは、いわば「異端」。逆立ちしても、正統派になれないケチな悪徳警官、ベックストレームを主人公に仕立てることで、生まれも育ちもいい、優雅で高潔な人々の活躍する小説世界が被っている美しい見かけの皮を、ひん剥いてやりたい、というのが、このシリーズを書くときの作家の執筆動機ではなかろうか。

やたらと差別的な言辞を弄し、セクハラなんか気にも留めず、「チビデブ」の体にアロハシャツやマフィアみたいな黄色の麻のスーツを着こんで、あたりを闊歩するベックストレームは、それだけで顰蹙を買いかねないキャラだ。それでも、こちらのシリーズの方が海外での人気は高い。そりゃそうだろう。ヨハンソンやアンナ・ホルトがベックストレームを見る目はいかにも上から目線で、双方を共に知る読者から見れば、ちと鼻につく。それに比べると、どうしようもない男だが、ベックストレームにはどうにも憎めないところがある。

今回のベックストレームは、医者に言われて生活改善に励むものの見事挫折して、もとの不摂生に戻ってしまう。これなんかも、我々庶民にしてみれば、いかにも身につまされる「あるある」エピソード。他人の評価なんか気にしない。できる男であることは自分が一番よく知っている。何があっても意気軒昂、つまらぬことにくよくよしない、ベックストレームは、我々の等身大の自己を投影できる、いわば普段着のヒーローなのだ。

複雑に入り組んだ事件も、ベックストレームの適当な仄めかしを部下たちが勝手に忖度し、各自の特技を生かして捜査することで無事解決に至る。自分は何もせず、ただそこにいるだけで、カリスマ型リーダーシップを発揮するエーヴェルト・ベックストレーム。名探偵が鮮やかな推理力を働かせて謎を解く、というお定まりのミステリなど知らぬ気に、周りの思惑など知らず、己の夢想の中をひたすら駆け抜けるエーヴェルト・ベックストレーム。彼は、レイフ・GW・ペーション版の『ドン・キホーテ』なのだろうか。

 

 

『壊れた世界の者たちよ』ドン・ウィンズロウ 田口俊樹 訳

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ドン・ウィンズロウの最新作は意外なことに中篇集。しかも、全六篇のどれも少しずつタッチが異なるところがうれしい。『犬の力』にはじまるメキシコ麻薬戦争三部作は、おそらく作家の代表作となるのだろうが、実録小説風の『犬の力』や『ザ・カルテル』がドン・ウィンズロウだと思うと、それはちがう。ドン・ウィンズロウには他にも多くの作品があり、それぞれに意匠がこらされていて、どれも読んでいて楽しい。これもその一つ。

ドン・ウィンズロウが創り出す人物は、腕が立つだけでなくキャラも立つ。シリーズ物の場合もあれば、読み切りで一話にしか登場しない人物もいるが、たとえば一話完結の『フランキー・マシーンの冬』の主人公、餌屋のピートや『ボビーZの気怠く優雅な人生』のティム・カーニーなどは一回ではもったいない人物で、またその活躍が見たいと思わせる。読者がそう思うのだから、作者がそう考えても不思議はない。

「パラダイス」には、その二人だけでなく、ティムが助け出した少年キット、ティムの恋人エリザベスが家族となって再登場する。それだけでもうれしいが、副題に「ベンとチョンとOの幕間的冒険」とあるように『野蛮なやつら』『キング・オブ・クール』の主人公たちが、ハワイのカウアイ島を訪れ、地元の麻薬組織と揉めているティムとキット親子と共に戦うという筋立てだ。キレッキレの戦闘シーンはもちろんだが、ちらっと顔を見せるピートに寄せるOの感情など、親子関係が隠れた主題になっている。

表題作「壊れた世界の者たちよ」はニュー・オリンズが舞台。市警麻薬取締班班長ジミー・マクナブはチームの信頼厚い男だが、一度キレるとヤバい男でもある。ジミーはチームを率いて麻薬の密輸現場を強襲、一味を逮捕するが、無用な挑発で組織の長を怒らせてしまい、報復として弟のダニーが惨殺される。復讐を誓ったジミーは仲間とともに次々と相手を仕留めていく。しかし、それは法の執行というより、私怨を晴らすためのもので、守るべき一線を越えていた。原題は<BROKEN>。果たして壊れたものとは、何だったのか。

「犯罪心得一の一」はスティーヴ・マックイーンに捧げられている。カリフォルニア湾岸を走るハイウェイ101号線を舞台に、人を傷つけることなく鮮やかな手並みで宝石強盗を続けるデーヴィスを、誰も気づかなかった複数の事件に共通点を発見したサンディエゴ警察強盗課主任刑事、ルー・ルーベスニックが追う。これで足を洗う最後の一件になるはずの強盗劇に思いもよらぬ展開が起きる。マスタングやカマロといったマッスルカーが活躍するシーンが映画『ブリット』を彷彿させる、小気味良い仕上がりの一篇。

サンディエゴ動物園」にはエルモア・レナードへの献辞がある。リヴォルバーを手にしたチンパンジーが動物園から逃げ出し、近くにいた制服警官のクリスは椰子の木に登って捕獲しようとするが、相手にしてやられて見事に失敗。おまけに捕獲劇の一部始終がユーチューブに流され、一躍有名人に。名誉挽回をかけて銃の出所を調べ出すクリスだったが、それがもとでややこしいことになる。前作にも登場するルー・ルーベスニックがクリスの憧れの対象として、ちらっと顔を出す。もうけ役だ。

「サンセット」は、レイモンド・チャンドラーに捧げられている。伝説のサーファーが保釈金を踏み倒し、逃げ出してしまう。保釈保証業者のデュークは、『夜明けのパトロール』『紳士の黙約』で活躍していた私立探偵、ブーン・ダニエルズを雇い、伝説のサーファー、テリー・マダックスを追わせる。ブーンは昔、テリ-に憧れていた。テリーが落ちぶれ、麻薬中毒者となった今も、まだ忘れられないでいる。世の中には、その人間の値打ちとは別に、持ち前の魅力で人を惹きつけずにおかない人間がいる。チャンドラーの『長いお別れ』におけるテリー・レノックスがそうであるように。

「サンセット」とは落日のこと。「人生の落日」期に入ったのは何もテリーだけではない。ウィンズロウ初期の作品『ストリート・キッズ』を含む五作品の主人公、ニール・ケアリーも年を取った。今は大学で英文学を教える身だが、デュークやルー・ルーベスニックとは毎木曜日に集まってポーカーをやる仲間。仲間の危機を見捨てておけず、ニールもブーンを助けて追跡劇に馳せ参ずる。ジャケットに入っていたペーパーバックに銃弾があたって命拾いするというお定まりのパターンも、これくらいの年齢になるとご愛敬として許せる。「人生の落日」期も、友があれば、またよし、

掉尾を飾るのが、ウェスタン小説風の「ラスト・ライド」。父のようにカウボーイとして牧場で働くことを夢見ていたキャルだったが、今ではカウボーイに出る幕はない。国境警備局の隊員となり、不法入国者を収容する任務に就くが、母親と引き離されて檻に入れられた少女と目があってしまう。お役所仕事の無責任ぶりに腹を立てたキャルは自分で調べ、母親がメキシコにいることを突き止め、違法と知りつつ、老いぼれた愛馬に跨り、国境を越えて自ら少女をメキシコに届けようとする。

共和党の支持者の多いテキサス州が舞台。キャルもトランプに票を入れた一人だが、少女を母親と引き離し、檻に入れる仕事には納得がいかない。父の言葉がキャルの背を押す。「たいていの人間は大きな犠牲をはらわずにすむなら、正しいことをするものだ。だけど、大きな犠牲が必要なときに正しいことができる者はきわめて少ない。すべてを犠牲にするとなったら、正しいことをする人間などひとりもいないだろう」と。しかし、時にはすべてを犠牲にしなければならないこともある。

旧作の登場人物が一堂に会し、まるで同窓会みたいにてんやわんやを繰り広げる、後日譚という仕掛けが楽しい。ファンなら、懐かしい顔ぶれがそろって、新しい事件に取り掛かる様子を見られてたまらないだろう。しかし、それまで、ドン・ウィンズロウを読んだこともなく、経緯を一切知らなくても、この中篇集はまちがいなく面白い。これをきっかけに、未読の作品を読みはじめる読者も出るだろう。恐るべし、ドン・ウィンズロウ

 

『フランキー・マシーンの冬』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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<上下巻併せての評です>

「自分流に生きるのは骨が折れる」これが書き出し。実にその通り。できるなら、人に合わせ、時流に合わせて生きていくのが楽に決まっている。でも、それができない人間がいる。フランク・マシアーノがそうだった。コーヒーの淹れ方一つとっても、自分流でなければ飲む気がしない。こういう男は厄介だ。特に組織の中で生きていくのは。そういうわけでフランクは自分一人で仕事をすることを好む。

サンディエゴのオーシャン・ビーチ・ピアで釣り餌店を開くほか、レストランへの魚介販売、リネン・レンタル業、不動産業と毎日忙しく働いていた。唯一の楽しみは若者たちが仕事に出かけた後の「紳士の時間」に昔ながらのロング・ボードで波に乗ることだ。同年輩の友人とサーフィンの傍ら、昔話に興じたり、シャワーの後のコーヒーを楽しんだりする。娘の学費を稼ぐため、仕事に精を出す必要はあるが「生活の質」は落とせない。フランクは手順通りに事をこなすのを好む。

そんな冬のある日、フランクが襲われる。何者かが伝説の凄腕の殺し屋、フランキー・マシーンをこの世から消し去ろうとしている。からくも難を逃れたフランクは誰にも知られていない隠れ家に身を潜め、自分を殺そうとする相手とその理由の謎解きに取りかかる。足を洗ったとはいえ元マフィアの殺し屋。相棒のマイクと組んで何人も人を殺めてきた。恨みを買っていたとしても不思議はない。フランクはそもそもの始まりから記憶をたどり始める。

二つの物語が、一篇の小説の中に同居する。ひとつは、足を洗って久しい元殺し屋と彼を狙う相手との死闘を描くミステリ。もう一つはサンディエゴを舞台にあくの強いマフィアたちの勃興と権力争い、栄光の日々と失墜を描くクライム・ノヴェル。漁師の子倅がボスの一人に目をかけられ、その運転手となり、様々な試練を経て伝説の殺し屋になっていく、ある種ビルドゥングスロマン風の話が滅法面白い。

原題は<The Winter of Frankie Machine>。流石は東江一紀。そのまま邦題にしている。老境に入りつつある男の苦境を「冬の時代」と見て、彼の半生を振り返る部分に「夏(春)の時代」を見たのだ。作中、フランクや彼の友人は何度も「いい時代だった」と過去を懐かしむ、ノスタルジックでセンチメンタルな感情を隠しもしない。確かにアメリカは変わった。今の状況は特別だが、ベトナム戦争が終わった当時、戦争から帰ってきた若者は深く傷つき、祖国の凋落を感じただろう。

フランク自身は衰えとは無縁だ。今でも現役バリバリで愛人のドナと愛しあい、別れた妻が暮らすもとの自分の家の修理もやるし、生活費も出している。大きな波に乗ることもできれば、射撃の腕も当時のままだ。フランクは歳はとったが衰えてはいない。落ち目になったのは、彼の昔の仲間たちだ。落ち目になった者の目には過去は美しく輝いて見えるのだろう。彼らは何も考えてこなかった。その時その時の衝動に合わせて生きてきたつけがたまっていたのだ。

フランクはマフィアの馬鹿話に適当に付き合いながら、店の台所に立って料理をすることを楽しみにしていた。派手に遊ぶことはあっても自分を見失いはしない。マフィアの実態は十分理解していた。何度も足を洗い、その世界から距離を置いてきた。時にはそのために海兵隊に入ることまでした。皮肉なことに軍が彼を育てたのだ。ベトナム戦争のさなか、狙撃兵になった彼は、抜群の射撃の腕でテト攻勢を切り抜ける。フランクの強みは、どんな相手からも自分に必要な知識、技術を吸収できることだ。

それは軍に限らない。ラスヴェガスの高利貸し、ハービーからは玉葱入りベーグルの味とクロスワードの愉しみを、警官上がりのクラブ経営者、通称ビッグ・マックからはクンフーとオーディオを。サンディエゴの副長で伝説の殺し屋バップからは標的を確実に追い詰める技術を学んだ。彼はそれらを忘れることなく、忠実に教えを守り、自分のものにしてきた。だからこそ、多くの者が殺される中、フランクは伝説のまま生き抜いてこれたのだ。

「餌屋のフランク」から伝説の殺し屋「フランキー・マシーン」に返り咲いた男は、自分を殺そうとした相手に近づくが、相手は新たな殺し屋を差し向けてくる。しかも、フランクの居所はどういうわけか筒抜けだ。相手はどうやらマフィアに限らない。FBIまで絡んでいる。この謎を解くには姿を隠したマイクに聞くしかない。フランクは友人の連邦捜査官デイヴにマイクの居所を問い詰める。マイクが仄めかした言葉を手掛かりにフランクは相手の正体を突き止め、最後の戦いに挑む。

家族を愛し、地域の子どもたちを大事にする男が、マフィアの組織や政府の組織相手にひとり敢然と立ち向かう。これには肩入れしたくなる。要所にリチャード・ニクソンやボビー・ケネディといった実在の人物を配し、ビーチ・ボーイズのサーフィン・サウンドが鳴り響き、CCRのヒット曲にちなんだ愛称を持つ人物が重要な小道具となる。ニューヨークのマフィアを描いた映画『ゴッドファーザー』の台詞を真似て笑いをとるところなど、遊び心も満載だ。初のドン・ウィンズロウだったが、充分堪能した。同時代を生きた読者にお勧め。

『われらのゲーム』ジョン・ル・カレ 村上博基 訳

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元英国情報部出身で、数々の名作を生みだし、スパイ小説というジャンルを確立したジョン・ル・カレが昨年十二月に亡くなった。つい最近『スパイはいまも謀略の地に』を読んで、その健在ぶりに目を見張ったばかりだったのに。もうこれで、彼の新作を読む機会は永久に失われたわけだ。その死を悼んで未読の一篇を探し出して読んだ。1996年刊行だからおよそ四半世紀も前の本だが、ル・カレの描く男たちの世界は今も色褪せることがない。

ティム・クランマーは元英国情報部工作指揮官(コントローラー)。冷戦が終わると、情報部はティムをリサイクル不可能な人員と見てお払い箱にした。ティムは四十七歳にして早々と退職し、叔父から相続したハニーブルック荘園(マナー)で葡萄を栽培し、ワインを醸造、地元の名士としてボランティア活動に精を出す暮らしに満足していた。何よりも歳の離れた愛人エマとの暮らしに夢中だったのだ。十月のある夜、そんなティムのところに二人の刑事が現れ、ラリー・ペティファーの行方を捜していると告げる。

ラリーとティムはパブリック・スクール、オックスフォードを通じて一緒だった。事あるごとに上級生に逆らってはいじめを受けていた三つ年下のラリーをティムはよく助けてやった。素行の悪さでウィンチェスター・コリッジを追われ、ヴェネティアで観光ガイドをやっていたところを新婚旅行中のティムに拾われる。問題行動を起こす割に、誰にも愛されるラリーに二重スパイの才能を見て取ったティムは、彼をオックスフォードに入れ、自分の手足となって働く工作員として何から何まで教え込んだ。ラリーはティムの自信作だった。

ティムが引退するとラリーも情報部を去り、バース大学で臨時雇いの講師となった。しかし、引退生活を楽しむティムとちがい、ラリーはおよそ冒険とは無縁の大学生活に飽き飽きしていた。離婚後、独身を謳歌していたはずのティムに女ができたことを聞きつけ、ティムが車でティムの家を訪れたのが事の起こりだ。二人の男と一人の女、それに車一台あれば映画が撮れる、と言ったのは誰だったか。エマはラリーに夢中になる。

大きく三つに分かれる。出だしは詐取事件への関与を疑われ、警察と情報部の両方で審問を受けるティムを描く。ティムは警察と情報部を相手にしらを切り続けるが、実はラリーとエマについて知るところがあり、読者にも情報を小出しにしている。何の前触れもなく突如として紛れ込む回想場面を通してそれが徐々にわかってくる。ティムは大きな世界の問題とは拘りを持たなかったが、小さな世界の方には大きく関わっていたのだ。内心の焦燥と異常自己抑制のきく外面の乖離がサスペンス・フルに描かれる。

ラリーには、チェチェーエフという元KGB工作指揮官と組んで、ロシア政府から巨額の金を詐取した嫌疑がかかっていた。確かにチェチェーエフは二重スパイであるラリーのソ連側コントローラーだった。二重スパイは、相手陣営にいるときには芝居ではなく本心から相手のために働かなければならない。そういう意味ではチェチェーエフはラリーの一番のお気に入りで、その人物に入れあげていたといってもいいくらいだ。

情報部はティムを共犯者扱いし、パスポートをとり上げて監視をつける。ティムは監視の目を搔い潜り、ラリーの行動の真の意味を暴こうとする。金で魂を売るような男ではないのだ。何よりもラリーの後を追って家を出たエマのことが心配だった。現役時代に培った伝手を頼り、少しずつ事の真相を暴いていくティムのスパイとしての実力が最も発揮される場面である。遂にエマとラリーの隠れ家を発見し、残されていた留守電の録音や燃え残りの手紙、メモその他を解読し、ティムは二人の行先を突き止める。

ティムにとってスパイ活動は頭と口を使って人を動かし敵と戦う、ある種のゲームだった。ただ、それは仕事であって、自分の全生命を賭してやることではなかった。だから、退職後は仕事に未練を残さなかった。することは他にいくらでもあるのだ。ラリーにとってスパイであることがすべてだった。ティムがそう仕向けたのだ。だから、辞めたら他に何かすることを見つけなければならなかった。ロシアという大国の横暴に抵抗しようというイングーシの戦いにそれを見つけたのだ。

幕引きの舞台は北カフカズ。チェチェンを挟んでロシア連邦と隣り合うイングーシの暮らす国だ。イスラム神秘主義を奉じるイングーシの人々は山に住む野蛮人扱いを受け、不当な差別を受けてきた。戦おうにも武力に圧倒的な差があり、無惨な目に遭ってきた。チェチェーエフはイングーシの出身だった。ラリーと共謀して奪った大金が、ロシアと戦うイングーシへの武器供与に使われたというなら、話は通じる。

何の疑問も抱かずにゲームのようにスパイをやってきた男が、無実の罪で国を追われて初めて、真の自分の姿を知る。ラリーにミドル・クラスであることを揶揄され、いっそその仮面をかぶり通そうとしていたことを。ラリーの青臭い演説を聞く耳を持たなかった。今に至る事態を予測できる記録をとりながら忘れていた。自分で自分を欺いていたのだ。操り人形のように動かしていたはずの相手は知らぬ間に自分の頭と胸を使って勝手に動き出していた。ティムはラリーの後を追って戦火のイングーシへと向かう。

ティムとラリーは陽画と陰画の関係にあたる。ティムがそれまで見ていた世界は、大国中心のパワー・バランスに則った華麗なゲームだった。しかし、ラリーが飛び込んだ世界は、人々の思いや命が簡単に奪い去られる苛烈で酷薄な戦場だ。時代がどれほど変わろうと、本当の世界はそういう場で満ち溢れている。見ようとしないから見えないだけだ。ル・カレの描くイングーシの人々の世界は峻厳ではあるが、限りなく美しい。執筆時の状況下では危険を理由に現地取材は許可されなかったと聞く。作家の想像力というものの凄さをあらためて思い知らされた気がした。

『ストーンサークルの殺人』M・W・クレイヴン 東野さやか 訳

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イングランド北西部カンブリア州はなだらかな丘陵や山の多い地域。厳しい冬が過ぎ、春の日差しに露に濡れた芝とヘザーが輝いている。この地方独特の石壁の修復に一日を費やしたワシントン・ポーは天然石づくりの屋敷つきの小農場、ハードウィック・クロフトに珍客が来ていることに気づいた。国家犯罪対策庁(NCA)重大犯罪分析課(SCAS)刑事部長ステファニー・フリンだ。かつてのポーの部下だが、彼が停職処分を受けてから、今はその後を引き継いで警部になっている。

ポーが停職を食らった事情はこうだ。少女拉致事件が起き、SCASが容疑者を絞り込んだ。それが下院議員の補佐官だったため、上司は逮捕を認めず、議員はその理由を告げた上で側近を解雇した。監視されていることを知れば、犯人は拉致した少女に近づかず、放置された少女が死ぬ恐れがある。ところが、被害者は救出された。父親が容疑者を拷問し、娘の居所を突き止めたのだ。その後、怪我が原因で容疑者が死亡。ポーが被害者家族に渡した報告書の中に、容疑者の名を記したポーの私文書が混じっていたことが明らかになったのだ。

フリンが、誰も知らないポーの隠遁場所をわざわざ調べてやってきたのは理由がある。ポーが暮らすカンブリア州で、立て続けに連続殺人事件が起きたからだ。それも普通の殺し方ではない。ストーンサークルの真ん中に立てた金属の杭に、裸にした被害者をワイヤで縛りつけ、燃焼促進剤を塗って、生きたまま火をつけるという凄惨なもの。発泡スチロールを細かく砕いてガソリンの中に入れ、融けるところまで融かした薬剤を塗ると身体の脂肪まで燃えるので、後には炭化した遺骸しか残らない。おまけに局部が切り取られ、喉の奥に詰め込まれているという異様な手口だ。

NCAの部長でSCASの責任者であるヴァン・ジルは、カンブリア州警察にいたポーをSCASに誘った人物で、誰よりもその能力を買っていた。停職処分を解いて、ポーを現場に戻すためフリンを寄越したのだ。しかし、ポーは今の暮らしが気に入っていた。もともと、人を人とも思わないところがあり、上司とはいつも衝突していた。なまじ能力があるため、人と協調して動くことを嫌い、自分勝手に動くため、同僚の受けもよくはない。今さら警察に戻る気はさらさらなかった。ポーはフリンが持参した辞職願にサインして突っ返した。

ところが、話はそれでは済まなかった。書類はもう一通あり、それは「オズマン警告」と呼ばれる、誰かに重大な危険が差し迫っていることを警告する文書だった。自分が誰の標的になっているのか尋ねたポーに、フリンは現職警官になら話せると言い、署名したばかりの辞職願を差し出す。ポーは辞職願を破り、話を聞くことにした。フリンが見せてくれたのは連続殺人事件の三人目の被害者の写真だった。

被害者はカンブリア地方に住む裕福な六、七十歳代の老人男性に限られている。当初は地元警察が担当したが、連続殺人であることが明らかになり、SCASに協力の申し入れがあった。手がかりが皆無で、遺骸は断層撮影にかけられた。非常に薄い断面図を撮影することで、生前及び死後につけられた傷を割り出すことができるのだ。コンピュータと数学に天才的な頭脳を持つ分析官のティリーが、それを画像処理したところ、被害者の胸部につけられた多数の切り傷から、二つの単語が読み取れた。「ワシントン・ポー」と。

被害者の中に思い当たる人物もおらず、かつて自分が関わった事件との関係も考えられなかった。つまり、犯人がポーのことを知っていることになる。早速、捜査に加わることになったポーは、課で最も腕の立つ分析官を捜査に同行させたい、とフリンに申し出る。一番の凄腕はティリーだっが、彼女には少々問題があった。オックスフォード大学で最初の学位を受けたのが十六歳という早熟の天才は、世間に触れた経験がほとんどなく、極端な温室育ちだった。

上層部に疎まれ、同僚に嫌われている刑事と、頭脳は天才的ながら、他人との関係がうまく処理できず、いじめを受けて孤立している分析官がコンビを組み、犯人を追い詰めて行くという、けっこうありがちなパターンではある。言葉の裏にある意図が読めず、文字通りにしか受け止められない、また自分の思いをオブラートに包まず、言ってはならないことを平気で口に出すティリーの存在が、それぞれの思惑で閉塞的になりがちな場の空気を開放的に変える。同時に、ポーという理解者を得たことでティリーは急速に成長を遂げて行く。

いちいち上の者にお伺いを立てて動く普通の刑事と違ってポーは自分の思い通りに動く。横紙破りに腹を立てる者は多い。一方、相手の職業や権威によって態度を変えない、率直な態度を好む者もいる。今回は、趣味を同じくするバリスタや、暇を持て余した老人たちに気に入られ、民間人のネットワークがポーを助けてくれる。お世辞や嘘というものを言えないティリーの天真爛漫な会話や立ち居振る舞いが、それを後押ししてくれたのも間違いないところ。はみ出し者同士、最強バディの誕生である。

どんでん返しがもてはやされ、煩雑なミス・ディレクションを凝らした謎解きミステリが多い中で、本作は珍しくストレートな快作。作者との知恵比べに負け、悔しい思いをするのもミステリを読む楽しみの一つだが、あまりにあざといミス・ディレクションにはかえって興ざめになることも多い。フェアな叙述から、犯人の見当をつけ、真犯人に迫るというのも、クイーンの国名シリーズ以来のミステリの正統的な楽しみだろう。

カンブリア州という、人間の数より羊の数の方が多い地方を舞台にしていることもあって、カバーの折り返しにある「登場人物」の数も知れている。この中に犯人がいる、というのがミステリのお約束である。また、犯行の手口、被害者の年齢層、といった点も犯行動機を絞り込むのに有益な情報となる。本作では、提示された事実を論理的に読んでいくことで、かなり早い時点で犯人の目星がつく(はずだ)。

原題は<The Puppet Show>。「人形劇」のことだが、そのままでは、書店で児童書の棚に並べられそうだ。それで無難な『ストーンサークルの殺人』にしたのだろう。ただ、無邪気な原題には、かえって濃厚なミステリ臭が漂う。こちらを生かす手もあったのでは。主人公にはまだ語られていない部分が多い。ときに激しく暴力的な振舞いを見せるのも、過去に原因があるのかもしれない。ワーズワースビアトリクス・ポターで有名な湖水地方のある、カンブリア州は独特の風物で知られている。今後が楽しみなシリーズの登場である。

『誓願』マーガレット・アトウッド 鴻巣友季子・訳

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静かなディストピア社会の怖さは、一定の形で社会が完成してしまうと、その中で暮らす市民にはそれが普通の状態に感じられ、何ら不都合のない社会のように見えてしまうことである。権力が軍や警察を使って暴力的な弾圧を行う、ラテン・アメリカ諸国の独裁主義国家と異なる怖さがそこにある。権力の行使が可視化できないよう配慮されていて、一般市民には自分がどんな権利を奪われているのか、決して見えないからだ。

たとえば、国民が政府にとって不都合な真実を見たり聞いたりすることがないように、報道は規制されている。もし、政府に向かって不都合な態度をとる者があれば速やかに排除する。そうすることで、右に倣おうとする者に脅しをかけるのだ。そこまで来ると国民に供されるのは、報道とは名ばかりのフェイク・ニュースか、さもなければ政権に都合のいい提灯持ちの番組ばかりになる。それを繰り返すことで、ものをいう者は政府寄りの人物だけになり、静かなディストピア社会が完成する。今この国はここまで来ている。

アトウッドが『侍女の物語』を発表したのが1985年。おそらく、ジョージ・オーウェルの『1984年』を意識したにちがいない。組織的な監視と盗聴によって、批判的な意見を封じ込めるのは、ディストピア社会のやり口としては通常だが、女性を出産のための手段と規定し、それ以外の存在の仕方を奪ってしまうという、徹底した男性中心のディストピア社会というのは新鮮だった。それから三十五年がたつ。果たして社会は変化したのだろうか。

トランプ政権下で『1984年』や『侍女の物語』が再び話題になっている、と聞かされ、さもありなんと思っていたら、アトウッドが『侍女の物語』の続編を書いたというニュースが飛び込んできた。しかし、発表された『誓願』には、続編の文字はなかった。作家自身がそれを認めなかったと聞いている。たしかに、これは続編という位置にはとどまらない。独立した一篇の小説として読んでほしい、と作家は思ったにちがいない。

侍女の物語』は、完成したディストピア社会の中で育ち、次第にその世界に異和を感じるようになる年若い女性の視点を通して描かれている。先に述べたように、静かなディストピア社会では、特に何かがなければその異様さに気づくことはできない。しかし一度それに気づけば、その閉鎖性、徹底した監視社会に息詰まる思いがし、そこから逃げ出したくなる。『侍女の物語』が描いたのは、自分を監視する<壁>に周囲を囲まれ、生得の権利を奪われた者の恐怖だ。

完成されたディストピア社会とはいっても、それが強固に感じられるのは、美しく飾られた表面だけのことで、映画のセットのようなその世界の裏側に回ったら、薄っぺらい材料ででき、補強材の目立つ粗雑な構成物でしかない。外部はそれを知っている。しかし、内部でそれを知るのは権力を握る一部の者だけだ。だから、ディストピア社会は外部と内部を<壁>で遮断する。アトウッドが、三十五年後に描こうとしたのは、そのディストピア社会を囲む閉じた<壁>の内部と外部の<交通>ではなかったか。

そこで、三者の視点人物が必要となる。まずは、<壁>の成立時代から、その存在を熟知し、なおかつ<壁>の維持に努めてきたギレアデの女性幹部であり、アルドゥア・ホールを取り仕切るリディア小母。<壁>の内外を共に知る、全知の存在である。次に<壁>の内側でぬくぬく育ち、年頃になって初めて自分の置かれた立場がのみ込めないことに気づいて、おろおろするばかりの初心なアグネス。<壁>の内側しか知らない。そして、カナダ在住の十六歳の娘デイジー。幼いころに組織の手でカナダに運ばれてきた、本当はギレアデの<幼子ニコール>。今どきの普通の女の子で<壁>の外側しか知らない。

リディア小母という操り手の繰り出す巧妙なからくりで、若い二人は、内側と外側から<壁>の崩壊を遂行する運命を担うことになる。どちらかといえばSFに出てくる架空の国家の物語のように思えた『侍女の物語』に比べ、『誓願』は、よりリアルな政治小説の趣きが濃厚である。特に、静かなディストピア社会が完成されるまでの、体制の移行期の暗殺、粛清といった革命やクーデターにつきものの避けることのできない暗黒面の陰惨な描写は、ラテン・アメリカ作家の描く独裁者小説を思わせるものがある。

リディア小母と呼ばれる女性は、アメリカ合衆国の判事を務める有能なキャリア・ウーマンだった。とはいえ、上流の出ではなく、苦労を重ねてその地位に上り詰めた上昇志向の強い女性である。それが、クーデター軍に逮捕され、スタジアムに集団で着の身着のまま収容され、放置監禁、精神的にどこまで耐えられるかを試されたのち、軍に従うか死ぬかどうかを問われ、やむなく従うことを認める。やがて、その性格、能力が評価され、権力を一手に掌握するジャド司令官とホットラインでつながる関係を築くまでになる。

リディア小母は監視カメラと盗聴器を駆使して、内部外部を問わず情報を収集することで、他人の弱みを握り、相手を思うままに操る術を身に着けている。ディストピア社会は相互監視による相互不信が基本である。反面、一望監視システムの中心部にいるものは、他者の監視を免れる。リディア小母はそれを利用して権力強化を務めるとともに、権力者の腐敗、堕落の証拠を握り、それを記録にとどめ、さらに時機を見て外部に流すことで、ギレアデの崩壊を期すのだった。

パノプティコンの中心で指揮を執るリディアは自ら動くことができない。代わって動くのがアグネスとデイジーの二人。<壁>の外から潜入してきたデイジーは、ベッカの犠牲に助けられ、アグネスとともに再び<壁>の外へ。その手にはギレアデの秘密を暴く情報が握られていた。ベッカとアグネスの関係は単なる友情を超え、互いに連帯して解放を願う<シスターフッド>の域に達している。女性たちの協力が男性中心のディストピア社会を崩壊させる、この物語は<シスターフッド>の勝利を描く物語ともいえる。アトウッドが三十五年の時を隔てて紡ぐ、『侍女の物語』ならぬ「小母の物語」。痛快無比のエンタメ小説でもある。まずは手に取って読まれることをお勧めする。