青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『祖国』上・下 フェルナンド・アラムブル 木村裕美訳

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<上・下巻併せての評です>

ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペイン両国に跨がるバスク地方。古くから独自の言語、バスク語を話す民族が暮らす土地だが、現在は国境によって北はフランス領、南はスペイン領に分断される形になっている。この小説は、スペイン側のギプスコア県にある村に暮らす二家族の確執を描く。確執を生み出すもとになったのは、民族独立運動から派生し、今やヨーロッパ最後のテロ組織といわれるETAバスク祖国と自由)が起こした殺人事件。

殺されたのは、村で運送会社を経営するチャト。それ以前からETAに運動資金として多額の金銭を要求されていた。何度か応じはしたものの、相手の要求は増すばかりで、誰かに仲介を頼もうと働きかけていた矢先、自宅や会社の壁に落書きが書かれ始める。それは次第に過激なものとなり、いつの間にか暗殺さえ仄めかす落書きが村中の至る所で見られるようにまでなる。しかし、息子の再三の助言にもかかわらず、頑固なチャトは村から立ち退くことを認めない。村のために、それまでも力を尽くしてきた自負があるからだ。

同じバスク人ではあるが、個人で企業を経営するチャトの家はまずまず裕福で、息子のシャビエルは病院勤めの医師となり、娘のネレアはサラゴサで大学に通っていた。家族で外国旅行にも行く。経営者として組合のストにも立ち向かわざるを得ない。雇われているのは地元の人間だ。資本家と労働者、富める者と貧しい者という構図で見れば、両者は敵対関係にある。それが地域固有のナショナリズムと結びつき、尖鋭化した組織から非協力者=敵と目されるようになったわけだ。

問題は、加害者の一人として警察に逮捕されたのが、チャトの家とは家族ぐるみで付き合いのあるホシアンの長男、ホシェマリだったことだ。屈強な若者であったホシェマリはそれまでの活動が認められ、ETAの仲間に入り、フランスで訓練を受けていた。おまけに犯行当時、村にいたのを目撃されていた。ややこしいのは、ここからだ。村人は、殺されたチャトの葬儀には顔を見せず、逮捕されたホシェマリを英雄視したのだ。

二人の子は家を出て行き、ひとり村に残されたチャトの妻、ビジョリはそれまで親しく付き合っていた村人から村八分の目に合わされる。姉妹のように仲の良かったホシェマリの母親、ミレンは息子可愛さのあまり、ETAのシンパとなって、ビジョリを敵対視しするようになる。テロが、二つの家族を仲たがいさせ、家族の構成員である親子兄弟の間にも対立が生じる。この小説は、家族の崩壊と、そこからの再生の道のりを、二家族九人のそれぞれの視点から描き出す構成をとる。

それぞれの人物の視点から、一つの事件を見ることで、単なるテロによる殺人が、ちがった意味合いを帯びて目に映るように見えてくる。ともすれば、イデオロギー的になりがちな主題を扱うにあたって、単純な善悪二元論に陥らないように、年齢、性別、兄弟関係を違えた複数の視点を確保した作家の工夫が生きる。読者は、最愛の夫を殺された妻の立場、官憲に犯人扱いされ、投獄された息子を持つ母の立場、兄に怖れと反発を感じながらも、逃亡の手助けをせずにおれない弟の立場などに寄り添いながら、事態の進展を見守ることとなる。

背景にあるのは民族独立運動とその尖鋭化された形としてのテロリズムだが、話を引っ張っていくのは、家の中心となる二人の母親の姿である。特に、愛する夫を殺され、村人から相手にされなくなり、ついには息子シャビエル(余談ながら、有名なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルバスク人。おそらく同名だろう)の助言を聞きいれ、サンセバスティアンのピソ(集合住宅)に引っ越してからも、村の墓地に通い続けるビジョリのぶれない芯の強さだ。

頑固だった亡きチャトを除けば、この小説の中の男たちはみな、善人ではあるが、どちらかといえば、自分の立ち位置をはっきりしようとしない。父を殺されたシャビエルは、その報復や復讐ではなく、父に託された母を守ることに専念するあまり、遂には愛する人さえ失ってしまう。チャトの親友だったホシアンは、村人の目や妻からの叱責を気にしてチャトと目を合わせることすら避けるようになる。しかも、内心それを大いに恥じている。

ホシェマリは、勉強嫌いだが運動能力は高い、よくある悪童の典型だ。スリルを求めてやり始めた悪戯がエスカレートして、いつの間にかテロリストの実行部隊にリクルートされてしまう。何も知らない村人からは英雄視されるが、本人はいたってナイーブな家族思いの青年に過ぎない。その弟のゴルカは、兄とは対照的な文学好きの内向的な少年として育つ。後に流暢なバスク語の使い手となってラジオ局に勤めるが、自分を局外者の位置に置き、周囲とは一線を画す。それには訳があるのだが、それはまた別の話。

それに比べ、女たちはみな、確固とした意志の強さを見せる。息子に肩入れするあまり、柄にもなく政治的な言辞を吐くミレンの姿は、強いというより弱さを見せないための強がりにも見える。しかし、ホシェマリの姉のアランチャは、突発性の難病のせいで、頭は働くものの体はほとんど動かせない障碍者ながら、iPadを駆使して自分の意思を表明し、母親の反対にもめげず、両家の間にある確執を解こうと努力する。アランチャの介護をするエクアドル人女性のセレステといい、何度も男で痛い目を見ながら、めげることを知らないネレアといい、女たちの逞しさには圧倒される。

チャトとホシアンが日曜ごとにサイクルツーリングに出るところや、さほどスポーツに関心のなさそうなシャビエルがレアル・ソシエダードを応援するためにサッカー場に出かけるところ、ミレンの得意なメルルーサの衣揚げ、バルでつまむピンチョス、といった、この地方ならではの独特の文化を点景に、古くから続く歴史と文化を持つバスク地方の光と影を人々の哀歓に寄り添いながらくっきりと描き分けたフェルナンド・アラムブルの『祖国』。ベルナルド・アチャガの『アコーディオン弾きの息子』とは、またひと味ちがう、現代バスク文学の傑作の誕生である。

 

『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』エリザベス・ハンド 市田 泉 訳

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世界幻想文学大賞受賞作である中篇三篇、ネビュラ賞を受賞した短篇一篇を収録したエリザベス・ハンドの傑作選である。ネビュラ賞とあるからには、ジャンル的にはSFに括れるのだろう。その分野にあまり詳しくないのは確かだが、それにしても、どれも今まで知らなかったというのが信じられないほどの完成度の高さだ。どうして、今まで、どこかですれ違いもしなかったのか、不思議でならない。

なかでも、若い男女の視点で語られる中篇二篇がいい。歳をとったせいで、今の若い人たちについていけなくなったせいか、最近は若者を中心に据えた作品を手に取ることがなくなった。しかし、誰にでも若い時分はあったはずで、若者の心情に共感できないはずはない。要は、現代の若者を囲む、文化の潮流について行けないだけだ。その点、舞台を少し前に取ったものにはそれがない。

表題作「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」は、友だちが、主人公の母のことを「ウッドストック・フェスティバルでLSDをキメすぎたみたいだな」と評するところがある。ヒュー・グラント主演の『アバウト・ア・ボーイ』の中で、少年の母がヒッピー風であることがいじめの原因になっていたのを思い出す。ある時を境に、ヒッピーは、時代に取り残された思想や生活スタイルにしがみつく、いかれたやつら、という認識になってしまっているようだ。

ムーニーは、メイン州にあるマーズ・ヒルで夏を過ごすようになって何年にもなる。母が、スピリチュアリストのコミュニティで<クリエイティブなサイコキネシス>のワーク・ショップを始めたからだ。そこで、ゲイの父を持つジェイソンと知り合った。現在、二人の親は重病を患っている。マーズ・ヒルには病を癒す力を持つ何かがいて、「彼ら」と接触できれば病は消える、と信じられていた。ただ、この地を去ればその効力は失われる。二人の親は、この夏を最後に街に帰らないことを決めている。

人はいつか独り立ちしなければならない。しかし、年少の子どもにとって、親との別れは耐えがたい。片親だったらなおさらだ。二人はその辛さを分かち合いながら、自分たちとは相容れない世界に生きる親世代とひと夏を過ごす。チュニックやカフタンを身に纏ったエキセントリックな男女が、夏の夜を祝うイヴェントであるファースト・ナイトに集う様は、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を思い起こさせる。魔法にかかった一夜が明け、少女の夏は終わる。幼年時代の終わりを鮮やかに描き切った一篇。

「イリリア」というのはシェイクスピアの戯曲『十二夜』の舞台となる国の名。「ティアニー家は有名な演劇一家で、シェイクスピアの時代にまでさかのぼれる役者の家系」だった。「わたし」は、往年の名女優マデラインの名前を受け継いだ。マディには同じ日に生まれたいとこのローガンがいる。二人の父親は一卵性双生児。そのせいでマディとローガンは「似た者同士(キッシング・カズンズ)」と呼ばれ、いつも行動を共にしていた。

曾祖母マデラインは早々と女優を辞めて資産家と結婚し、ヨンカーズに屋敷を構えた。マディたちは、今もその屋敷に住むが、一家は演劇とは無縁の生活を送っていた。ただ一人、おばのケイトだけが、それを嘆いていた。というのも、一族の末っ子であるローガンとマディには才能が受け継がれていた。才能は「贈り物(ギフト)」だが、大事に育てないと失われてしまうものだからだ。ケイトは、学校の演劇祭で演じられる『十二夜』に二人を引きずり込み、二人は瞬く間に舞台の魅力にとりつかれる。

長身で美しいローガンは美声の持ち主で、その歌を聞いたものは誰でも心を鷲づかみにされる。オーディションに受かった二人は練習に励むが、マディは、生まれつきの才能を持つローガンに激しく魅了され、自分の凡庸さを嘆く。しかし、ケイトはこう諭す。「魅惑の力(glamour)――それは文法(grammar)という言葉と同じ語源を持つの、一種の知識。つまり、教えることができるってこと。身につけることができるの」。

天賦の才を持つ者と、努力によって才能を鍛え上げることのできる者の対比。そして、激しく愛し合いながら、近親婚というタブーによって仲を裂かれることになる男女の悲恋。芸術家としての聖痕を持つ者と、それに対してアンビヴァレンツな感情を抱くブルジョア精神の持ち主たちの対立。それらが相俟って引き起こされる悲劇。劇中劇として演じられる、シェイクスピアの『十二夜』が、トランプの絵札のように二人一組で生きてゆくはずだった似た者同士が、運命の悪戯によって、無惨にも海を隔てて引き離される運命を暗示している。

ある一つの小さな仕掛けさえ仕込まれていなかったら、幻想文学の範疇に括られることはない小説である。ところが、そのささやかな仕掛けが大きな力となって物語を牽引している。それは、二人が禁断の愛の巣とし、根城にもしているローガンが暮らす屋敷の屋根裏部屋に隠されていた。壁の向こうで音がするので、ネズミでもいるのか、と思った二人が動いたそのはずみで壁の一部が壊れ、闇の中に光がこぼれ出る。

おそるおそる覗いた二人の目に映ったのは――「壁の内側にはおもちゃの劇場があった。折り紙や金ぴかの厚紙、ブロケードやレースの端切れで作ってある。緋色の薄紙でできた幕がプロセニアム・アーチにとりつけてある。(略)だまし絵(トロンプ・ルイユ)の切り抜きや折り紙の壁とアーチが目眩を覚えるほど複雑に配されて、舞台が果てしなく奥まで続いているように見せかけている」。ライトに照らされた舞台には、動くものもないのに、サラサラ、コツコツという音がし、造りものの雪さえ降るのだ。

エリザベス・ハンドが小説の中に持ち込む「幻想」はほんのわずか。どこからか降り注ぐ黄金の光や、壁の一部に埋め込まれたおもちゃの舞台、といった些細なもの。ガチなSFのような壮大な異世界は必要ない。人が気づかなかったら、それっきり誰にも知られず、現実世界の傍らにずっと存在し続ける。見る眼を持つ人にだけ、それは存在する。この精緻に作りこまれた小世界が、この人の持ち味。心に響き、いつまでも忘れ難い余韻を残す。

ほかに、誰もいなくなった島にひとり残された女性が、時々届く愛する男からのメッセージを読む「エコー」、失敗に終わった世界初の飛行実験を模型を使って再現しようという試みを描いた「マコーリーのベレロフォンの初飛行」の二篇を収める。珠玉のという言葉が語の真の意味で相応しい中短篇集である。

 

『複眼人』呉明益 小栗山智 訳

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海の上をぷかぷか浮きながら漂う島といえば、我々の世代は『ひょっこりひょうたん島』を思い出すが、時代が変われば、物事は変わるものだ。近頃では廃プラスチックが寄り集まってできたゴミが島となって漂う。「二〇〇六年ごろネットで、太平洋にゆっくりと漂流する巨大なゴミの渦が現れ、科学者にも解決の手立てがないという英文記事を読」んだのが、作家にこの小説を構想させたようだ。

複数の人物が登場し、それぞれの人生の物語を紡いでいるが、一人選ぶとするなら、台湾生まれの作家志望の女性アリスになるだろう。文学博士号を取得し、ひとり出かけたヨーロッパ旅行で、デンマーク人の探検家トムと出会い、トムはアリスを追って台湾にやってくる。二人は結婚し、ストックホルム市立図書館を建てた建築家アスプルンドの「夏の家」に想を得た「海辺の家」を海岸沿いに建てて暮らし始めたころ、思いがけずトトを授かる。

問題は、探検家というものはひとつところにじっとしてはいられないということだ。台湾のめぼしい山を登り終えると、トムはさらなる冒険を目指し、家に居つかなくなる。二人の間に距離が生まれ始める。そんなある日、山に出かけたまま、父と息子は二度と戻らなかった。トムの遺体は捜索隊のダフに発見されるが、トトは今に至るも見つかっていない。愛する者の喪失から立ち直れないアリスはすべてを放り出し、自殺を考えている。それが物語の発端である。

もう一人の主人公ともいえるアトレは、ワヨワヨ島という、南太平洋の小島に生まれた若者。水や土地、樹々といった資源に乏しい島では、島に残れるのは長男だけで、二番目に生まれた子は、時が来ると自作の船に乗り、食料と水が尽きればそこで終わり、という死出の旅に出る。ところが、気力、体力に恵まれたアトレは死を免れ、大海に漂うゴミの島に漂着してしまう。溜まり水を飲み、廃棄物から銛や釣り針を作り、生き物を捕えて生き続けた。

そんなとき、台湾を地震が襲う。「海辺の家」にいたアリスは、波間に浮かぶ板切れに乗った仔猫を助け上げる。皮肉なことに、自殺を考えていたアリスは、仔猫の命を助けたことがきっかけとなり、絡めとられていた死の罠から逃れることになる。近くでバーを営むハファイは、そうしたアリスの変貌に気づく。自ら好んで周囲から孤立した暮らしを続けるアリスだったが、その周りには、ハファイやダフといった、アリスを気遣う仲間がいた。

台湾に限らず、気候変動は世界的な問題になってきている。物語のヤマ場で、地震が台湾を襲う。その力がゴミの島を台湾に衝突させる。科学的に見れば、地震ということになるが、無文字文化の中で育ち、大古から伝わる神話と昔話の中で育ってきた若者にとっては、何か大きな力によって、知らない世界に放り出されたようなものだ。その中でアリスとアトレが運命的に出会う。言葉の通じない二人だったが、通じるものはあり、アリスは傷ついたアトレを看取る。

何か大きなものから死を拒まれた二人の新しい生が始まる。作家を目指すアリスは、世界を言葉や文字で理解しようとして生きてきた。アトレはちがう。彼にとっては目で見て、手で触れるものが世界であり、それは今、ここだけでなく大古から続く神が創り出した世界である。彼の知る唯一の世界であるワヨワヨ島は、他を顧みない人間の営為が神の怒りを呼び、罰として、限られた資源の中で限られた者しか生きられない世界であった。

生まれた世界が異なる二人が共に生きることで、少しずつ互いの世界を理解し合い、言葉を共有しあうようになる。アリスは、喪失の痛みに絡み取られていたそれまでの自分の生を見直すことができるようになる。そして、アトレを道案内にして、トトが遭難した登山ルートを自分の足で確かめるため、あれほど嫌いだった山に登ろうとする。物語とは言わば、何かをきっかけにした主人公の変容を語るものである。

これは煎じ詰めれば、最愛の者を失い、自らを失いかけていた主人公が、「まれびと」によって新しい生を得る物語だ。そして、再び動き始めたアリスを通して、読者はトムとトトの死の真相を知る。それは、小さな人間の生死を越えた、もっと大きく根源的な世界との出会いを教えてくれる。語られることは多く、その世界の射程は地球規模に大きい。捕鯨やアザラシ猟の持つ問題、地球環境の保全、といった数多の問題が複数の登場人物によって背負われて、物語の中で犇めき合う。

比較的、親日的な台湾だが、日本人にとって台湾の問題は他人事として眺めていられるものではない。本作の中で、重要な脇役を務めるハファイは阿美(アミ)族、トムの捜索活動を担うダフは布農(ブヌン)族という先住民。日本や漢人の支配によって苦杯を嘗めさせられてきた人々である。ハファイは人を癒し、ダフは山を知る。彼らには民族に伝わる、生きる力や知恵が備わっており、島を傷つける力に抗し、傷をいやすものとなっているようだ。

『歩道橋の魔術師』、『自転車泥棒』の作者、呉明益による、近未来を描くSF、ファンタジーとも読める、ストーリー・テラーの才を遺憾なく発揮した長篇小説である。多くを詰め込み過ぎているような気もするが、連続短篇小説のつもりで読めば、複数の人物が織りなす多彩な物語の饗宴を愉しむこともできる。日本語の朝の挨拶である「オハヨ」と名づけられた仔猫が、大きな美しい雌猫に育ったところで、物語は幕を閉じる。「激しい雨が今にもやって来る」とハファイの歌う、ディランの『Hard Rain』が時代を越えて、胸に迫る。

『泡』松家仁之

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薫は東京の私立男子校に通う高校二年生。学校が休みになる八月の一か月間、紀伊半島にある砂里浜(さりはま)という漁師町で暮らすことになった。どうにも学校に足が向かなくなったのだ。特にいじめにあった、というのではない。生理的嫌悪感に似たもので、体育系教師が幅を利かす校風も嫌だし、もともと志望校に落ちて滑り止めに受かって通うようになっただけの学校で、そこに居場所が見つからなかったということもある。

祖父のいちばん下の弟で、薫にとっては大叔父にあたる兼定が、砂里浜でジャズ喫茶を営んでいた。両親ともに教職者という家庭で育った薫には、法事の際に帰郷しては面白おかしく話を聞かせてくれる兼定がお気に入りだった。東京にいれば同じ学校の生徒に出くわすこともある。かといって昼間誰もいない家に、ひとり閉じこもってばかりもいられない。温泉と海水浴場しかない漁師町だが、ひと夏過ごすにはうってつけだった。父が電話すると大叔父は快く受け入れてくれた。

佐内兼定(さないかねさだ)はもともと東京生まれだが、小樽高商でロシア語を学び、戦争が始まると軍属として満州に渡った。不可侵条約を破って侵攻してきたソ連軍により、シベリア抑留生活を送る憂き目を見た兼定は、復員後生家に戻ったが、両親は死に、長兄の鍬太郎が家長となっていた。当時、シベリア抑留者は、ソ連によって赤化教育を受けた「アカ」だという風評が蔓延っており、兼定の帰国を家族は喜ばなかった。

シベリア抑留時の友人の遺品を届けるため、砂里浜を訪れた兼定は、海が見えて坂のある町の佇まいが気に入り、当地に腰を据えることにした。保険の営業で得た蓄えを元手に、閉店したバーを格安で譲り受け、中古ながらオーディオ機材は高級品を揃えた。コーヒーと軽食を出し、モダンジャズを聴かせる店は、それなりに地元に受け入れられ、常連客もでき、どうやら軌道に乗るようになっていた。

はじめは一人でやっていた「オーブフ」(ロシア語で「靴」の意)に、ある日、ダッフルバッグを手にし、長髪に髭を伸ばし放題にした男が顔を出した。なぜかその男を見たとき、店にいつきそうだと感じた兼定は、そのまま自分の経営する貸アパートに案内し、店で雇うことにした。岡田というその男は、料理も上手にこなし、客あしらいも上々で、最近では岡田目当てに足を運ぶ客も出てきて、兼定は隠居気分になりつつあった。

それぞれ理由は異なるものの、東京を捨てた男三人が、太平洋に面した海辺の町で暮らし始める。薫にとっては、自分というものを意識してはみたものの、それをどう扱っていいやら分からない、思春期の葛藤を抱えた若者の自分探しの旅である。兼定にとってはシベリア抑留という過酷な試練を経て、ようやく帰国してみれば、国家や家族からまるで余計者扱いされるという理不尽な目に遭い、わだかまりを覚えていた親族との和解の機縁でもある。

根のある二人とちがい、流れ者の岡田は謎めいている。過去を語ることもない。ふらりとやってきて、偶々ここに草鞋を脱いだだけの人物だ。しかし、岡田が緩衝材となることで、年の離れた兼定と薫の関係がぎくしゃくせず、薫はいつもより自然に自分と向き合うことができる。兼定兼定で、親戚の年配者らしい説教を垂れたりせずにすむ。薫にしてみれば、邪魔にもされず、かといって放りっ放しというのでもない、東京にいるのとは違って、実に気持ちのいい毎日が送れるのだった。

緊張の高まる町にどこからか流れ者がやってきて、いつの間にか住み着いては町の人の気持ちを宥め、それぞれが自分の思うように生活を始める、そんな映画か小説がどこかにあったような気がするが、はっきりとは思い出せない。薫は岡田に料理を習い、その流れるような自然な動きに魅せられる。繰り返しを厭う気持ちの強い薫だが、ジャズ喫茶の調理場を手伝ううちに、日々の繰り返しの中に確かにある生きる実感のようなものを感じ始める。

妄想ばかりで、憧れの女性との関係は中途半端で終わる薫とちがい、岡田には新しい女性との関係が始まる。兼定の目には日に灼けた薫は外見だけでなく、内面もたくましくなったように見える。店はいつでも岡田に譲って引退する気でいるが、岡田にはそれが桎梏と受け止められはしまいか。お互い、突っ込んだ話は抜きでやってきた。それがよかったのだ。今更、面と向かって話すようなことでもない。

特に何が起きるでもない。都会を遠く離れた海辺の町のジャズ喫茶をめぐる他愛ないと言えばそうも言える話。ジャズ喫茶といっても、マニアが眉根に皺を寄せて黙りこくって曲に耳を傾ける、といった本格的な店ではない。昼食がてら店を訪れ、食後のコーヒーと店長こだわりのジャズをいっとき味わってはそれぞれの職場に帰っていく。そんな止まり木のような店だ。薫もまたひと夏、羽をやすめに来た若鳥のようなものだ。

一昔前のヨーロッパ映画の、若者のひと夏の経験を描いたモノクロフィルムのような、全篇に白く乾いた熱気を漂わせる一篇。年老いた者には、巡り巡ってようやく落ち着いた老年の淡々とした日々の何気ない日常の持つ滋味を、若者には、思春期の自我の芽生えに手を焼く疾風怒濤の惑乱を、そして、齷齪と人生を生きる者には、かつて夢見た何処の誰とも知れぬ流れ者だけが味わうことのできる放逸の生を、しみじみと思うさま味わわせてくれる。近頃、なかなかお目にかかれない端正な趣きのある小説である。

『平凡すぎる犠牲者』レイフ・GW・ペーション 久山葉子 訳

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「チビデブ」で、仕事には不熱心。口にこそしないが、内心では差別意識丸出しで他人をけなし続け、当然ながら自己評価はめちゃくちゃ高い。ところが、なぜか最後にはきまって事件を解決してしまう。こんな適当な人物が主人公を務める謎解きミステリ、読んだことがない。そりゃそうでしょう。普通は、この手の人物に光をあてたりしない。でも、そんな人物を視点人物に据えることで、心の中でつぶやく絶対に口にしちゃいけない言葉が外にだだ洩れ。ポリティカル・コレクトネスなどくそくらえ。これで面白くならないわけがない。

仕事ができないわけじゃない。結果的に犯人は上げるのだから捜査官としての能力は優秀だ。本人は気づいていないから、おそらく無意識で動いている。では、どうして周りの、特に上層部のウケが悪いのか。それは、彼らとちがって仕事第一人間じゃないから。妻子持ちでもないのに、定時に家に帰る刑事なんて見たことがない。おまけに、何かというと休憩をとっては甘いものに手を伸ばす。たっぷりとランチを食べた後は、地下のガレージで、バンの中に設置したベッドで二時間程度仮眠。すっきりした頭で捜査会議に出る。

誰でもそうありたい「クオリティー・オブ・ライフ」を体現しているわけで、したくてもできない周りからすれば癇に障る。もっとも、どこまで勤務実態がばれているのかはわからない。その辺の立ち回り方は極めてうまい。それだけじゃない。警察内部で手に入れた情報を知り合いに流しては見返りを得ることも日常茶飯。だから、素敵なアパートにアンティーク家具や、高級ベッドを置けるのだ。多方面に顔が利き、重要な情報も握っているので、実力者も協力を惜しまない。組合に手を回すことも忘れない。相次ぐ左遷や島流しから、不死鳥のごとく甦るのもそのせいだ。

その人事権を通じて、ベックストレームをストックホルム県警の物品捜索課に追いやったのも、今回ソルナ署に戻したのも、今は引退した元国家犯罪捜査局長官のラーシュ・マッティン・ヨハンソン。同じ作者による『許されざる者』の主人公である。この二人、実は同時代のスウェーデンの警察組織で働いている。一緒にではないが、あのパルメ首相暗殺事件を別の角度から追いかけてもいる。こういえばエリート階級に属するヨハンソンは心外だろうが、いわばある種のライヴァル関係にある、といってもいい。

ベックストレームの捜査で、実際に動いているのは部下なので、彼のやることは、自分が働かずに済むように部下に適当な仕事をあてがうこと。会議で報告を聞くときも「続けてくれ」などと言いながら、頭の中は全く違うことを考えている。今夜飲む酒のことや、食べ物のことならまだいい方で、その多くは、今発言している者に対する偏見と差別意識にまみれた批評。もっとも、それを腹の中で思うだけで、口にしないところは常識がある。これでも一応警部なのだ。

今回は、ソルナ署の管轄で一人の老人が惨殺される事件が起きる。当初、誰もが、アル中がアル中に殺されただけのよくある事件と思っていたが、事件の第一発見者である新聞配達の青年が殺されると、そうとばかりも言っていられなくなる。悪いことに、何日か前、空港で起きた現金輸送車強奪事件との関係まで疑われるようになってきて、ヨハンソンの肝いりで、あのアン・ホルトが署長になったばかりのソルナ署内は浮足立つ。両シリーズの登場人物が、どちらの作品にもちょっと顔を出すのがファンにはうれしい。

スウェーデン警察で何が起きている? 女々しい男にレズにガイジンに、普通のおめでたいバカども。まともなお巡りさんは、目の届くかぎり一人もいない」とうそぶくベックストレームだが、表題通り、犠牲者が平凡すぎるのに比べ、ベックストレーム率いる捜査陣の方は個性的すぎる。事実、ベックストレームのやることといえば、周りの仲間に対する、ガリガリだの、レズだのといった辛辣極まりない人物評。そうでなければ飲んだり食ったり、何したり、という訳で、周りにしっかりした部下がいなければ始まらない。

日本と違い、移民や難民を積極的に受け入れてきたスウェーデンでは、警察も多国籍化されている。鑑識のニエミはフィンランド野郎で、その部下のホルヘ・エルナンデスはチリからの移民の子、その妹のマグダも同様だ。事務捜査担当のナディアはロシアの博士号を持つ亡命女性。フェリシアはブラジルの孤児院からスウェーデンに養子としてもらわれ、強面のフランクはケニアからの養子。サンドラはセルビア人犯罪者の娘というから経歴も凄い。

むしろ、生粋のスウェーデン人の方が少数派で、旗色が悪い。ベックストレームは本当のところ、差別主義者でも何でもない。新しい状況に馴れていないだけだ。同じスウェーデン人でも、凡庸なアルムは軽んじられているのに、単なる行政職員でしかないナディアは、ベックストレームのロシア人観に影響を与えるほど、その捜査能力を頼りにされている。人を見る物差しが常人と異なるだけで、口ほど人は悪くはない。相手を深く知るにつれ、ベックストレームの他者に対する評価が変わってくるのがよく分かる。

許されざる者』などの、ラーシュ・マッティン・ヨハンソンを主人公とするシリーズを「正統」とすれば、ベックストレームのシリーズは、いわば「異端」。逆立ちしても、正統派になれないケチな悪徳警官、ベックストレームを主人公に仕立てることで、生まれも育ちもいい、優雅で高潔な人々の活躍する小説世界が被っている美しい見かけの皮を、ひん剥いてやりたい、というのが、このシリーズを書くときの作家の執筆動機ではなかろうか。

やたらと差別的な言辞を弄し、セクハラなんか気にも留めず、「チビデブ」の体にアロハシャツやマフィアみたいな黄色の麻のスーツを着こんで、あたりを闊歩するベックストレームは、それだけで顰蹙を買いかねないキャラだ。それでも、こちらのシリーズの方が海外での人気は高い。そりゃそうだろう。ヨハンソンやアンナ・ホルトがベックストレームを見る目はいかにも上から目線で、双方を共に知る読者から見れば、ちと鼻につく。それに比べると、どうしようもない男だが、ベックストレームにはどうにも憎めないところがある。

今回のベックストレームは、医者に言われて生活改善に励むものの見事挫折して、もとの不摂生に戻ってしまう。これなんかも、我々庶民にしてみれば、いかにも身につまされる「あるある」エピソード。他人の評価なんか気にしない。できる男であることは自分が一番よく知っている。何があっても意気軒昂、つまらぬことにくよくよしない、ベックストレームは、我々の等身大の自己を投影できる、いわば普段着のヒーローなのだ。

複雑に入り組んだ事件も、ベックストレームの適当な仄めかしを部下たちが勝手に忖度し、各自の特技を生かして捜査することで無事解決に至る。自分は何もせず、ただそこにいるだけで、カリスマ型リーダーシップを発揮するエーヴェルト・ベックストレーム。名探偵が鮮やかな推理力を働かせて謎を解く、というお定まりのミステリなど知らぬ気に、周りの思惑など知らず、己の夢想の中をひたすら駆け抜けるエーヴェルト・ベックストレーム。彼は、レイフ・GW・ペーション版の『ドン・キホーテ』なのだろうか。

 

 

『壊れた世界の者たちよ』ドン・ウィンズロウ 田口俊樹 訳

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ドン・ウィンズロウの最新作は意外なことに中篇集。しかも、全六篇のどれも少しずつタッチが異なるところがうれしい。『犬の力』にはじまるメキシコ麻薬戦争三部作は、おそらく作家の代表作となるのだろうが、実録小説風の『犬の力』や『ザ・カルテル』がドン・ウィンズロウだと思うと、それはちがう。ドン・ウィンズロウには他にも多くの作品があり、それぞれに意匠がこらされていて、どれも読んでいて楽しい。これもその一つ。

ドン・ウィンズロウが創り出す人物は、腕が立つだけでなくキャラも立つ。シリーズ物の場合もあれば、読み切りで一話にしか登場しない人物もいるが、たとえば一話完結の『フランキー・マシーンの冬』の主人公、餌屋のピートや『ボビーZの気怠く優雅な人生』のティム・カーニーなどは一回ではもったいない人物で、またその活躍が見たいと思わせる。読者がそう思うのだから、作者がそう考えても不思議はない。

「パラダイス」には、その二人だけでなく、ティムが助け出した少年キット、ティムの恋人エリザベスが家族となって再登場する。それだけでもうれしいが、副題に「ベンとチョンとOの幕間的冒険」とあるように『野蛮なやつら』『キング・オブ・クール』の主人公たちが、ハワイのカウアイ島を訪れ、地元の麻薬組織と揉めているティムとキット親子と共に戦うという筋立てだ。キレッキレの戦闘シーンはもちろんだが、ちらっと顔を見せるピートに寄せるOの感情など、親子関係が隠れた主題になっている。

表題作「壊れた世界の者たちよ」はニュー・オリンズが舞台。市警麻薬取締班班長ジミー・マクナブはチームの信頼厚い男だが、一度キレるとヤバい男でもある。ジミーはチームを率いて麻薬の密輸現場を強襲、一味を逮捕するが、無用な挑発で組織の長を怒らせてしまい、報復として弟のダニーが惨殺される。復讐を誓ったジミーは仲間とともに次々と相手を仕留めていく。しかし、それは法の執行というより、私怨を晴らすためのもので、守るべき一線を越えていた。原題は<BROKEN>。果たして壊れたものとは、何だったのか。

「犯罪心得一の一」はスティーヴ・マックイーンに捧げられている。カリフォルニア湾岸を走るハイウェイ101号線を舞台に、人を傷つけることなく鮮やかな手並みで宝石強盗を続けるデーヴィスを、誰も気づかなかった複数の事件に共通点を発見したサンディエゴ警察強盗課主任刑事、ルー・ルーベスニックが追う。これで足を洗う最後の一件になるはずの強盗劇に思いもよらぬ展開が起きる。マスタングやカマロといったマッスルカーが活躍するシーンが映画『ブリット』を彷彿させる、小気味良い仕上がりの一篇。

サンディエゴ動物園」にはエルモア・レナードへの献辞がある。リヴォルバーを手にしたチンパンジーが動物園から逃げ出し、近くにいた制服警官のクリスは椰子の木に登って捕獲しようとするが、相手にしてやられて見事に失敗。おまけに捕獲劇の一部始終がユーチューブに流され、一躍有名人に。名誉挽回をかけて銃の出所を調べ出すクリスだったが、それがもとでややこしいことになる。前作にも登場するルー・ルーベスニックがクリスの憧れの対象として、ちらっと顔を出す。もうけ役だ。

「サンセット」は、レイモンド・チャンドラーに捧げられている。伝説のサーファーが保釈金を踏み倒し、逃げ出してしまう。保釈保証業者のデュークは、『夜明けのパトロール』『紳士の黙約』で活躍していた私立探偵、ブーン・ダニエルズを雇い、伝説のサーファー、テリー・マダックスを追わせる。ブーンは昔、テリ-に憧れていた。テリーが落ちぶれ、麻薬中毒者となった今も、まだ忘れられないでいる。世の中には、その人間の値打ちとは別に、持ち前の魅力で人を惹きつけずにおかない人間がいる。チャンドラーの『長いお別れ』におけるテリー・レノックスがそうであるように。

「サンセット」とは落日のこと。「人生の落日」期に入ったのは何もテリーだけではない。ウィンズロウ初期の作品『ストリート・キッズ』を含む五作品の主人公、ニール・ケアリーも年を取った。今は大学で英文学を教える身だが、デュークやルー・ルーベスニックとは毎木曜日に集まってポーカーをやる仲間。仲間の危機を見捨てておけず、ニールもブーンを助けて追跡劇に馳せ参ずる。ジャケットに入っていたペーパーバックに銃弾があたって命拾いするというお定まりのパターンも、これくらいの年齢になるとご愛敬として許せる。「人生の落日」期も、友があれば、またよし、

掉尾を飾るのが、ウェスタン小説風の「ラスト・ライド」。父のようにカウボーイとして牧場で働くことを夢見ていたキャルだったが、今ではカウボーイに出る幕はない。国境警備局の隊員となり、不法入国者を収容する任務に就くが、母親と引き離されて檻に入れられた少女と目があってしまう。お役所仕事の無責任ぶりに腹を立てたキャルは自分で調べ、母親がメキシコにいることを突き止め、違法と知りつつ、老いぼれた愛馬に跨り、国境を越えて自ら少女をメキシコに届けようとする。

共和党の支持者の多いテキサス州が舞台。キャルもトランプに票を入れた一人だが、少女を母親と引き離し、檻に入れる仕事には納得がいかない。父の言葉がキャルの背を押す。「たいていの人間は大きな犠牲をはらわずにすむなら、正しいことをするものだ。だけど、大きな犠牲が必要なときに正しいことができる者はきわめて少ない。すべてを犠牲にするとなったら、正しいことをする人間などひとりもいないだろう」と。しかし、時にはすべてを犠牲にしなければならないこともある。

旧作の登場人物が一堂に会し、まるで同窓会みたいにてんやわんやを繰り広げる、後日譚という仕掛けが楽しい。ファンなら、懐かしい顔ぶれがそろって、新しい事件に取り掛かる様子を見られてたまらないだろう。しかし、それまで、ドン・ウィンズロウを読んだこともなく、経緯を一切知らなくても、この中篇集はまちがいなく面白い。これをきっかけに、未読の作品を読みはじめる読者も出るだろう。恐るべし、ドン・ウィンズロウ

 

『フランキー・マシーンの冬』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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<上下巻併せての評です>

「自分流に生きるのは骨が折れる」これが書き出し。実にその通り。できるなら、人に合わせ、時流に合わせて生きていくのが楽に決まっている。でも、それができない人間がいる。フランク・マシアーノがそうだった。コーヒーの淹れ方一つとっても、自分流でなければ飲む気がしない。こういう男は厄介だ。特に組織の中で生きていくのは。そういうわけでフランクは自分一人で仕事をすることを好む。

サンディエゴのオーシャン・ビーチ・ピアで釣り餌店を開くほか、レストランへの魚介販売、リネン・レンタル業、不動産業と毎日忙しく働いていた。唯一の楽しみは若者たちが仕事に出かけた後の「紳士の時間」に昔ながらのロング・ボードで波に乗ることだ。同年輩の友人とサーフィンの傍ら、昔話に興じたり、シャワーの後のコーヒーを楽しんだりする。娘の学費を稼ぐため、仕事に精を出す必要はあるが「生活の質」は落とせない。フランクは手順通りに事をこなすのを好む。

そんな冬のある日、フランクが襲われる。何者かが伝説の凄腕の殺し屋、フランキー・マシーンをこの世から消し去ろうとしている。からくも難を逃れたフランクは誰にも知られていない隠れ家に身を潜め、自分を殺そうとする相手とその理由の謎解きに取りかかる。足を洗ったとはいえ元マフィアの殺し屋。相棒のマイクと組んで何人も人を殺めてきた。恨みを買っていたとしても不思議はない。フランクはそもそもの始まりから記憶をたどり始める。

二つの物語が、一篇の小説の中に同居する。ひとつは、足を洗って久しい元殺し屋と彼を狙う相手との死闘を描くミステリ。もう一つはサンディエゴを舞台にあくの強いマフィアたちの勃興と権力争い、栄光の日々と失墜を描くクライム・ノヴェル。漁師の子倅がボスの一人に目をかけられ、その運転手となり、様々な試練を経て伝説の殺し屋になっていく、ある種ビルドゥングスロマン風の話が滅法面白い。

原題は<The Winter of Frankie Machine>。流石は東江一紀。そのまま邦題にしている。老境に入りつつある男の苦境を「冬の時代」と見て、彼の半生を振り返る部分に「夏(春)の時代」を見たのだ。作中、フランクや彼の友人は何度も「いい時代だった」と過去を懐かしむ、ノスタルジックでセンチメンタルな感情を隠しもしない。確かにアメリカは変わった。今の状況は特別だが、ベトナム戦争が終わった当時、戦争から帰ってきた若者は深く傷つき、祖国の凋落を感じただろう。

フランク自身は衰えとは無縁だ。今でも現役バリバリで愛人のドナと愛しあい、別れた妻が暮らすもとの自分の家の修理もやるし、生活費も出している。大きな波に乗ることもできれば、射撃の腕も当時のままだ。フランクは歳はとったが衰えてはいない。落ち目になったのは、彼の昔の仲間たちだ。落ち目になった者の目には過去は美しく輝いて見えるのだろう。彼らは何も考えてこなかった。その時その時の衝動に合わせて生きてきたつけがたまっていたのだ。

フランクはマフィアの馬鹿話に適当に付き合いながら、店の台所に立って料理をすることを楽しみにしていた。派手に遊ぶことはあっても自分を見失いはしない。マフィアの実態は十分理解していた。何度も足を洗い、その世界から距離を置いてきた。時にはそのために海兵隊に入ることまでした。皮肉なことに軍が彼を育てたのだ。ベトナム戦争のさなか、狙撃兵になった彼は、抜群の射撃の腕でテト攻勢を切り抜ける。フランクの強みは、どんな相手からも自分に必要な知識、技術を吸収できることだ。

それは軍に限らない。ラスヴェガスの高利貸し、ハービーからは玉葱入りベーグルの味とクロスワードの愉しみを、警官上がりのクラブ経営者、通称ビッグ・マックからはクンフーとオーディオを。サンディエゴの副長で伝説の殺し屋バップからは標的を確実に追い詰める技術を学んだ。彼はそれらを忘れることなく、忠実に教えを守り、自分のものにしてきた。だからこそ、多くの者が殺される中、フランクは伝説のまま生き抜いてこれたのだ。

「餌屋のフランク」から伝説の殺し屋「フランキー・マシーン」に返り咲いた男は、自分を殺そうとした相手に近づくが、相手は新たな殺し屋を差し向けてくる。しかも、フランクの居所はどういうわけか筒抜けだ。相手はどうやらマフィアに限らない。FBIまで絡んでいる。この謎を解くには姿を隠したマイクに聞くしかない。フランクは友人の連邦捜査官デイヴにマイクの居所を問い詰める。マイクが仄めかした言葉を手掛かりにフランクは相手の正体を突き止め、最後の戦いに挑む。

家族を愛し、地域の子どもたちを大事にする男が、マフィアの組織や政府の組織相手にひとり敢然と立ち向かう。これには肩入れしたくなる。要所にリチャード・ニクソンやボビー・ケネディといった実在の人物を配し、ビーチ・ボーイズのサーフィン・サウンドが鳴り響き、CCRのヒット曲にちなんだ愛称を持つ人物が重要な小道具となる。ニューヨークのマフィアを描いた映画『ゴッドファーザー』の台詞を真似て笑いをとるところなど、遊び心も満載だ。初のドン・ウィンズロウだったが、充分堪能した。同時代を生きた読者にお勧め。