青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ボドキン家の強運』P・G・ウッドハウス 森村たまき 訳

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気の利いた会話、自立した女性、という設定に風変わりな人物が加わって騒動を巻き起こす、映画でいうなら、スクリューボール・コメディウッドハウスが二度にわたり、脚本家としてハリウッドに招かれていた三十年代は、その全盛期。三組の男女の結婚をめぐる顛末を描いたこれは、些細な出来事を大仰なセリフ回しで聞かせる「話芸」を楽しむユーモア小説。主たる舞台は、大西洋航路をアメリカに向かう、R・M・S・アトランティック号の船上。「主な登場人物」は以下の通り。

モンティ・ボドキン………気のいい青年紳士。大金持ち。ガートルードと婚約中。
ガートルード・バターウィック………イングランド代表女子ホッケー選手。
レジ―・テニスン………モンティの友人。ガートルードのいとこ。
アンブローズ・テニスン………レジ―の兄。モンティの友人。小説家。
ロッティ・ブロッサム………映画スター。スペルバ=ルウェリン映画社所属。
アイヴァ―・ルウェリン………スペルバ=ルウェリン映画社社長。
メイベル・スペンス………ルウェリン氏の妻グレイスの妹。
アルバート・ピースマーチ………R・M・S・アトランティック号所属スチュアード。

冒頭、ルウェリンが、真珠の首飾りを密輸せよという妻の指令を、義妹の口から聞くところから話が始まる。そのとき突然話しかけてきたモンティを彼は関税局のスパイだと勘違いしてしまう。なんとか金で丸く収めたいルウェリンは、モンティに口止め料を払う代わりに、俳優として雇おうと持ちかける。何といってもハリウッド黄金期。この話を断る馬鹿はいないはず。モンティは金に不自由はない。ただ、ガートルードの父が無職の夫に娘は遣れないと婚約を認めない。職につけば結婚ができるのだ。

アンブローズは脚本家としてルウェリン社と契約し、ハリウッドに向かうため海軍省をやめてきた。ところが、ルウェリンが欲しかったのは、あの有名な詩人のテニスン(とっくの昔に死んでいる)だった。人違いと知ったルウェリンはアンブローズの契約を破棄する。アンブローズはロッティと婚約中だったが、プライドの高い小説家は女優に食わせてもらうことをよしとせず、婚約は破棄されること必至。

弱ったロッティは、ピースマーチの勘違いで手に入れた、モンティがガートルードにプレゼントしたミッキーマウスのぬいぐるみをかたにとり、ルウェリンとの契約条項にアンブローズとの契約も付け加えさせようとする。一方、伯父に命じられてカナダの会社に向かおうとしていたレジ―は、船中で出会ったメイベルに一目惚れ。結婚したくてもレジ―には金がない。ぬいぐるみを取り戻せたらアメリカでの滞在費を出すというモンティの話に乗り、ロッティの部屋に忍び込むが、そこにロッティと兄が現れる。

アンブローズがロッティに非を悟らせたことで、ぬいぐるみは無事モンティの手に戻るが、兄の立派な振る舞いに自分の至らなさを思い知らされたレジ―は、自分も妻の資産に頼ることをやめる。それでも、メイベルをあきらめきれないレジ―は一計を案じ、首飾りの密輸を引き受ける代わりに、ルウェリン社と契約を結ぼうとする。

その嫉妬深さでモンティを散々振り回すガートルードの焼きもちの激しさと言ったらない。まあ、昔の恋人の名前を刺青した胸もあらわな写真を婚約者に送りつけるモンティもモンティだが。彼女がまたもや嫉妬した相手が女優のロッティ。赤毛で奔放。子ワニをペットとしてバスケットに入れて旅行中も持ち歩くところから見ても、かなり変わっている。おまけにこうと思ったら汚い真似でも平気でやらかす。メイベルはハリウッド・セレブ御用達のオステオパシーの施術師で、姉譲りの美貌だけでなく怜悧で仕事のできる女性。

元気で行動的な女性に比べると。男たちは人柄の良さ以外に誇るところがない。モンティは金はあってもその使い方を知らない。レジ―はモンティのためにひと肌も二肌も脱ぐのだが、やることなすこと裏目に出る。海軍省に勤務しながら小説を書くオックスフォード出身の小説家とくれば、まるでル・カレだが、アンブローズは真面目一点張りで融通が利かない。美貌の妻の尻に敷かれ、義妹を厭いながらもその力を借りずにいられないハリウッドの大物ルウェリンもそうだが、総じて男の影が薄い。

真珠の首飾り、ミッキーマウスのぬいぐるみ、結婚、というお題による三題噺。金もあり、家柄も人柄もよい青年紳士が、無職というだけで結婚できない、という不条理さが笑える。モンティのような億万長者が働く必要がどこにあるだろうか。まあ札束で人の頬を引っぱたたいたりしないところは買えるが。テニスン兄弟にしたところで、女性は立派な職業婦人として自活しているのだから、結婚してから何なりと仕事を探せばいいだけのことだ。そのいかにも上流階級らしい浮世離れしたところに、俗世間とズレた面白さがある。

映画『めぐり逢い』をはじめとして、大西洋航路を舞台にとった名作は数多い。飛行機ではなく、ゆったりとした旅程を楽しむ、サウサンプトン発、シェルブール経由ニューヨーク行きの六日間の船旅。人との出会いや別れを描くには最良の舞台だが、それを逆手に取って、船室を交換したことによる、すれ違いや人違いを使って、家柄と人の良さだけが取り柄の男たちを徹底的にいたぶる、人を食ったユーモアはウッドハウスの真骨頂。ジーヴスが有名だが、今回初登場のピースマーチもそれに負けない働きぶり。新シリーズから目が離せない。

『砂漠で溺れるわけにはいかない』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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何ごとにも終りがある。というわけで、これがシリーズ最終巻。最後になって一人称の探偵が話者を務めるハードボイルド小説のスタイルが戻ってきた。そうは言っても、カレンを話者にしてみたり、脇を務める登場人物の書簡、電話の録音、日記をそのまま本文に持ち込んでみたり、と多視点も採用している。ページ数も短めで、登場人物も限られている。何しろジョーでさえ電話で登場するだけだ。少し変化をつけたかったのかもしれない。

ピカレスクに付き物の社会批評が本作に欠けていることから、シリーズは前作で完結していて、本作は後日談と見る評者もいる。そういう見方もできなくはないが、生まれも育ちも悪いピカロ(悪者)が自分の一生を振り返る自伝形式の小説をピカレスクだというなら、自分の人生を語るにはニールはまだ若過ぎる。いつでもこの続きを書くことはできるわけで、作者としては、ここらで、一区切りつけておきたかったのではないだろうか。

というのも、ニールは一息つきたがっているからだ。相変わらず、ネヴァダ州オースティンのカレンの家に居候を決め込んでいるが、結婚を二カ月先に控えた今になって、突然カレンが子どもが欲しいと言い出したのだ。父の顔も知らず、麻薬中毒の娼婦の子として生まれたニールとしては、自分が親になることに抵抗がある。親に育ててもらっていないので、親というものがよく分からず、親になる覚悟ができていないのだ。

そんな時、ジョーから電話が入る。例の「簡単な仕事」だ。今回は仕事ともいえない雑用みたいなものだという。パームスプリングスに住む八十六歳の爺さんがラスヴェガスから帰ってこないので、連れ帰れという。ホテルの部屋番号も分かっているし、見張りもついている。上手くすれば日帰りで帰って来れて、ボーナスが手に入る。ニールは今度も断りかけるが、惻隠の情に訴えられて、結局引き受けてしまう。文句たれだが、ニールは本当は優しい子だ。そこに付け入るスキがある。ジョーはそれをよく知っている。

ところが、この爺さんが食わせ者だった。歳は取っているが、食欲も性欲もいっかな衰える様子はない。おまけによくしゃべる。次から次へと繰り出すギャグが途切れることがない。その昔、ストリップ小屋でショーの合間に客が飽きて帰らないように引き留めるのがコメディアンの役目だった。ストリップが下火になってからは、ラスヴェガスの一流の舞台で鍛えた。ナッティー・シルヴァーと言えば、泣く子も笑わせる芸人だったのだ。

アボットコステロという有名なお笑いコンビがいる。ナッティー・シルヴァーこと、ネイサン・シルヴァーマンは、そのコステロにギャグを教えたというから、古強者だ。今は引退しているが、誰彼つかまえては当時のネタを披露して笑わせるのが大のお気に入りときている。ヴェガスには当時のネイサンを知る者が多く、今でも喜んでつきあってくれる。当然、ニールにもそれを披露するが、早く連れ帰りたい一心のニールには付き合ってる暇がない。焦るあまり、深く考えもせず、少しの間老人から眼を離したすきに逃げられる。

ヴェガスはマフィアの街だ。当然、朋友会とのつきあいも深い。ニールはミッキー・ザ・Cという顔役に会い、ネイサンを探してもらう。ネイサンは飛び入りで舞台に立っていた。古いユダヤのジョークで客席は沸いていた。ニールはその様子を見て、焦っていた自分を反省し、一泊することにした。それが甘かった。翌朝、搭乗寸前になってから飛行機は嫌だといい出す。ジープに乗せようとすると軍用車は体に悪い。レンタカーが日本車だと知ると、真珠湾を忘れたか、とくる。

やっと借りたシヴォレーに乗せると、また牛の涎のごとく繰り返されるネタが始まる。「一塁にいるのは誰だ?」という超有名なギャグに、心底うんざりしていたニールがつきあわないでいるとネイサンが拗ねてしまう。心優しいニールはこの沈黙に耐えられず、車を停め、用を足して戻ると車が消えていた。警察署での警官とニールのやりとりがまるで掛け合い漫才。パトカーに同乗して後を追うと、車は見つかるものの、肝心のネイサンがいない。

いったいこうまでして帰るのを嫌がるのはなぜだろう? そう考えて自分の車を走らせていたとき、ネイサン発見。ところが、邪魔が入る。銃を持ったアラブ人が、自分が車で送るといってきかない。銃が出てきては、いうことを聞くしかない。車にのせられ、モハーヴェ砂漠を走行中、銃の奪い合いになり、ニールは車の底を撃ち抜いてしまう。ガソリンが漏れ出し、外へ逃げたとたん車は爆発炎上。三人は廃坑跡の小屋で夜を明かすことに。

焚火を囲んでネイサンが繰り出す持ちネタに仕方なく聞き入るうち、帰りたくなかった理由が分かった。その中に、放火は儲かる、という話がそれとなく挿入されているのだ。隣の家に男が放火しているのを見てしまったネイサンは、相手に脅され、身の危険を案じてヴェガスに逃げてきた。それを無理矢理ニールが連れ戻そうとするから、あれこれと難癖をつけて引き延ばしにかかっていたわけだ。

今回ニールを襲う危機は、坑道に放り込まれるというもの。あれほど高みを目指してきたニールが、乾き切った砂漠の中で坑道に溜まった雨水の中で溺れかけるというのが皮肉だ。定時連絡のないことを心配したジョーがヴェガスのミッキー・ザ・Cに電話し、ニールはからくも溺死を逃れる。ギャグは満載だが、ストーリーにひねりがなく、仕掛けも小振り。最後にしては、少々物足りない気がするが、銃を手にしても人を撃たないニールが戻ってきて、ファンとしては一安心。

ニールは他人と関わることが苦手。必要に迫られた時は、作り話や皮肉、嫌味で相手を翻弄してきた。しかし、延々としゃべり続ける相手につきあうのは初体験。自分のこらえ性のなさに否応なく向き合った今回の経験は有意義だ。子どもに舌先三寸は使えない。嫌でも正面から向き合うしかないのだ。今のニールにはまだそんなことはできない。モラトリアムの期間がいる。それで、この辺で一休みしようというわけだ。続編が書かれることになったら、この一篇はさしづめ幕間劇という扱いになるのだろう。ニールのその後を知りたい向きは『壊れた世界の者たちよ』をご覧あれ。

 

『ウォータースライドをのぼれ』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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中国四川省ネヴァダの草原を舞台にした前二作と比べると、ずいぶんスケール・ダウンしたものだ。カレンの部屋や、ホテルの一室、キャンディの家といった狭苦しいところに、女性三人が閉じこもって、ガールズ・トークに精を出し、酒を飲んで大騒ぎするところは、まるで昔懐かしい『ルーシー・ショー』。今回のニールは、ルーシーの相手役を務める銀行の副頭取「ムーニーさん」の役どころ。

というわけで、ニール・ケアリー・シリーズ第四作は、シチュエーション・コメディ・タッチ。もちろん、タイトルにあるように、ヤマ場ではウォータースライドをのぼらなくちゃいけないので、野外のアクション・シーンも用意されてはいるんだけど、高いといってもプールに設けた滑り台なわけで、三千メートル級の峨眉山に挑んだニールにしてみればいかにもショボい。つまり、今回のニールの冒険は意図的に矮小化されているのだ。

なぜ、そんなことになってしまったかというと、断じて、そうすべきではなかったのに、性懲りもなくニールがコーヒーの匂いを嗅ぎ、あまつさえ飲んでしまったからだ。「断じて……するべきでなかった」という決まり文句で始まる、このシリーズ。ニールに簡単(?)な仕事を持ってくる養父のジョーの登場で始まるのがお約束。繰り返しには少しずつ変化があり、今回ニールはどこにも出かけない。対象の方がやってくる。

前作『高く孤独な道を行け』で殺人に手を染めたニールは、官憲の目を恐れ、長髪に髭という偽装までしてカレンの家に引き籠っていた。ジョーが手土産に「簡単な仕事」をぶら下げてやってきたのは、やっと金で解決がついたという知らせだ。ニールはジョーに、そろそろ引退したいと弱音を吐くが、家にジャグジーつきのテラスがほしいカレンは儲け話に乗り気になる。結婚前から主導権を握られているニールは、渋々ヒギンズ教授役を引き受ける。

ケーブル・テレビ・ネットワークの創設者で社長のジャック・ランディスが、事務所のタイピストをレイプするというスキャンダルが発生。その相手がポリー・バジェット。朋友会はランディスの会社の株主で、社長の追い落としをはかるハサウェイの依頼を受け、ポリーの弁護を引き受ける。しかし、裁判で証言させるにはひとつ問題が。ブルックリン育ちのポリーは発音も文法も無茶苦茶。それを矯正するのがニールに課された使命。流暢に話せるようになるまでマスコミから隠しておくにはネヴァダ州オースティンは絶好の場所だった。

外に出ることができない三人は、カレンの家でひたすら『マイ・フェア・レディ』のまねごとを延々と演じ続けるしかないわけだ。そこで、シチュエーション・コメディ風の設定が生きてくる。このイライザ役のポリーのセリフの日本語訳が、さすが東江一紀噴飯物のセリフが次から次へと繰り出され、まさに抱腹絶倒。ところが、頭隠して尻隠さず。上手の手から水が漏れ、隠れ家の在り処がばれてしまう。

ポリーを探していたのは、ランディスの妻のキャンディ。レイプ事件が夫の言うように嘘なのかどうか、本当のところを知りたいのだ。次にランディスと組んで、テーマ・パーク「キャンディランド」を建設中のマフィア、ジョーイ・フォーリオ。ポリーの証言で視聴率が落ちると資金繰りの目途が立たず、工事中止ともなれば中抜きの旨い汁が吸えなくなる。その他に、借金返済のため功を焦る落ち目の私立探偵ウォルター・ウィザーズ。更には得体の知れない殺し屋まで、危ない連中が先を争ってネヴァダにやってくるから、さあ大変。

もっとも、かつてジョーの憧れだった名探偵は今はアル中で、酒を見ると手を出さずにいられない最悪の状態。かたや、完璧な仕事をすることで知られている殺し屋は、バー<ブローガン>の番犬ブレジネフに手首を噛まれ、カレンに金属バットで背骨を叩かれ、這う這うの体で逃げ出す始末。威勢のいい女性陣と打って変わって、男性陣の登場シーンは、こてこてのスラップスティック仕立て。レギュラー陣以外の男たちは全員笑いのネタにされている。

そんな中、人妻キャンディに恋慕するモルモン教徒の元FBI捜査官チャック・ホワイティングが大活躍。麻薬課から引き抜いた部下の働きで盗聴は大成功。チャックの連絡を受けたキャンディがポリーの前に現れるから修羅場になるのは必至。ところが、初めこそ険悪だった二人の仲は急速に雪解けムードになり、いつの間にやら互いの立場を理解し合い、自分たちの置かれた境遇を憂える同士となってしまう。敵の敵は味方、というやつだ。

今回は、徹底して女性が主役。フェミニズムの旗幟鮮明で、ニールも手を焼くほど。もっとも、今のニールはカレンに夢中。朋友会はランディスの一件にマフィアが一枚噛んでいることを知り、ニールに手を引けといってくるが、金で手打ちにすることにポリーが応じず、カレンがそれを後押ししていては、ニールも後に引けない。策を講じて、ジョーに一役買ってもらい、ホワイティングがジョーイに盗聴器を仕掛け、一世一代の大博打を打つことに。

下っ端連中がドタバタ喜劇を演じている間、イーサン・キタリッジは服役中のマフィアの首魁に会って、事態の幕引きを図る。このマフィアのボスと朋友会会長の一対一の話し合いの場面が作中最もシリアス。一緒に仕事をしていても、イタリア系の人間を人並みに扱おうとしないアングロサクソンに対するイタリア系の恨みつらみの深さも凄いが、話がぶち壊しになるのも恐れず、犯罪に易々と手を染める相手を侮蔑するアングロサクソンの銀行家の腹の据わり具合も見事。だが、キタリッジは汚れ仕事に嫌気が差し、引退を考えはじめる。

主人公の成長に絡めてアメリカ社会を批判的に描くという構想で、二十世紀のピカレスクを目指したのが、ニール・ケアリー・シリーズ。ピカレスクは「悪者小説」とも呼ばれるが、「悪者」には括弧がつく。生まれのせいで、そうとしか生きられなかったからピカロ(悪者)になるのだ。娼婦の子というニールの設定が、まさにそれ。ニールがトバイアス・スモレットばかり読んでいるのにもわけがある。スモレットは十八世紀イギリスのピカレスク作家。ニールはピカロであることを自認していたのだ。

前作がウェスタン仕立てだったのは、当時大統領だったレーガンが、元はB級西部劇役者だったのを揶揄する趣向。今回、標的にされるのは国民的人気の仮面夫婦。舞台はポンペイを模したラス・ヴェガスのホテル、手抜き工事のテーマ・パーク、とまがいものばかり。アメリカの顔となる存在自体が虚像と化したことに対する痛烈な風刺である。しっかり者の妻のおかげで今の地位に着けたのに不倫に耽るジャックは、誰が見てもビル・クリントンだが、モニカ・ルインスキー事件が発覚するのは作品の発表後というから、作家の想像力というものの凄みを思い知らされる。

『高く孤独な道を行け』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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浮浪児あがりの青年が、育ての親が見つけてくる簡単な仕事を引きうけては、いつのまにか大事件に巻き込まれる、というお馴染みのシリーズ第三作。第一作はイギリス、第二作は中国と世界を股にかけてきたが、今回はアメリカに戻る。だが、地元ニューヨークではなく、ネバダ州が舞台。英文学を専攻する活字中毒で、孤独を好む街っ子のニールにカウボーイがつとまるのだろうか、と心配になるが、冒頭で中国拳法を修行中とあり、刮目した。

ニール・ケアリーは子どもの頃、ジョー・グレアムから財布を掏ろうとしたところを、つかまったのがきっかけで素質を見込まれ、探偵術を叩きこまれた。ジョーはニールの「父さん」になった。そして、自分の勤める「朋友会」に引きいれた。朋友会というのは銀行家のイーサン・キタリッジが、本業とは別に特別な顧客の抱えている難問を処理するために設けている部門である。その後ろ盾があって、資金面の不自由はない。

ニールは三年間、中国は峨眉山の僧房に籠っていた。その前はヨークシャーでやはり隠棲中のところをジョーがニールを引っ張り出しにやってきた。ニールとしては引き籠って、トバイアス・スモレット研究に勤しむことに不満はないのだ。ジョーはちがう。仕事をしないでいて勘が鈍るのを恐れている。実はニールには余人をもって代えがたい能力がある。朋友会ニューヨーク支部長のレヴァインは、ニールには「自分がない」という。それは別人に成りすます潜入捜査にうってつけなのだ。

ニールは父の顔を知らない。麻薬中毒者の母親は面倒を見てくれなかった。たった独りでニューヨークのストリートで生き抜いてきたのだ。食っていくのが精一杯で自己形成どころではない。人とのつきあいもなければ友人もいない。食うに困らなければ本を読んでいたい。だからジョーは仕事にかこつけてニールを世間に出そうとする。はじめは簡単な仕事のつもりだった。危険だと思ったら直ぐ手を引ける。問題はニールにある。人を好きになると、そのまま放っておけなくなるのだ。他人との間に適当な距離を保てないのは、その生い立ちに寄るのだろうか。

今回は、二歳の赤ん坊を連れ去った元夫を見つけ、我が子を取り戻してほしいという母親からの依頼だ。簡単な仕事に見えるが、相手が悪かった。ハーレーは悪人ではなかったが、夫婦関係のもつれから身を持ち崩し、真正キリスト教徒同定教会というカルト集団の信徒になっていた。そこは教会とは名ばかりで、KKKやネオナチと連携する白人至上主義者の集まりで、FBIの情報によれば、似た者同士が集まって地下テロ組織を創り上げようとしている最中らしい。そこに逃げ込まれる前に捕まえようという計画だったが、一足遅かった。

三年の休暇のせいで勘が鈍ったのか、隙を突かれたニールは車と金を奪われる。偶然通りかかった男に助けられ、車に乗せてもらう。男はスティーヴ・ミルズといってオースティンの牧場主だった。車はそこに向かうところだという。運のいいこともあるものだ。最後につかんだ情報では、ハーレーがいるのもオースティンだった。ニールはミルズの牧場で働きながら、ハーレーの行方を捜し始める。

原題は<Way Down on the High Lonely>。<High Lonely>は地名で「孤独な高み」とルビが振られている。ミルズ牧場のある草原を囲む三千メートル級の山々の一峰だ。そこからは牧場のある渓谷が見渡せる。ニールは小さな小屋を借りて一人暮らしを始める。コヨーテがうろつく、この地は冬になれば深い雪に埋もれるという。ニールはここが気に入り、仕事が終わったら小屋を買って暮らそうかと考えている。おまけにカレンという女性ともつきあい始めるから成長著しい。

ニールは隣のハンセン牧場がテロ組織のアジトであることを突き止める。舌先三寸で組織に潜り込み、昼はミルズ牧場で働きながら、夜は戦闘訓練に明け暮れる。少しずつ信用を得ていくものの、なかなか最後の壁を崩せない。そんな中、現金輸送車を襲う計画の責任者を命じられる。朋友会と連絡を取り、まんまと襲撃を成功させたことで信用を得たニールは幹部に昇格することになる。最終テストが輸送車の護衛に化けたジョーの処刑だった。ジョーは撃て、と合図するが、ニールには撃てない。二人は囚われ、レヴァインの救出作戦を待つ。

ウェスタン調のストーリーは単純だ。流れ物がやってきて小さな牧場に雇われる。隣には大きな牧場があり、二つの牧場の対立が決闘という形で終焉を迎える。問題はユダヤ系のミルズの牧場で働くニールが、裏で反ユダヤ主義者と通じていた点である。無論、ハーレーと赤ん坊の居所を探るための偽装である。しかし、争いが表面化しては、いつまでも曖昧な態度を取ることは許されない。ミルズの小屋を出て、ハンセン牧場に移るニールは、地獄に堕ちろ、と罵られる。

それより問題なのは、シリーズの主人公であるニールがすっかり変貌を遂げることだ。反ユダヤ主義者の群れに紛れ、戦闘訓練を受け、信用を得るためとはいえ強盗にまで手を染め、どっぷりと悪の世界に浸かってしまう。繊細で傷つきやすい心を憎まれ口で隠してきた好青年のイメージがごろっと変わってしまう変貌ぶりに驚く。まあ、そうはいっても、もともと人様の懐中をねらう悪ガキだったわけだから、素質はあったわけだ。今までそちらの世界に行ってしまわなかったのはジョーが目を配ってきたからだ。

ニールはこれまで、孤独な闘いを強いられて来たが、その後ろにはいつもジョーがぴったり貼りついていた。いわば父の掌中にいたのだ。ところが、今回ともに仕事をすることで、二人は対等になり、子は父の掌から出てしまった。そして、ジョーが危惧していたことが起きる。ニールは、父の想いを知りながらも、ついに一線を超える。自分がどうしても許すことができない人間を撃ち殺してしまうのだ。

ミルズの妻のペギーが以前警告したことがある。「ひげを剃らなくなったら、山のならず者。だから、ひげを剃りなさい」と。ニールはその言葉に従ってひげをきちんと剃っていた。ところが、末尾にちらっと顔を見せるニールは長い髪にひげを伸ばしている。つまり、ニールは「ならず者」であることを選んだのだ。しかも、今までは仕事が終わるたびに心の傷をいやすため、長い隠棲に入っていたニールが、酒場に顔を出している。カレンとの食事までの時間つぶしだというから恐れ入る。どうやら、このシリーズはピカレスク方面に舵を切ったようだ。

『仏陀の鏡への道』ドン・ウィンズロウ 東江一紀 訳

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この痛快さはどこから来るのだろう。国家のイデオロギーや指導者の大局観などとは一切無縁。一人の青年の美しい女性に寄せるひたむきな愛が、成就されることもなく、そうとしか有り得なかった結果を引き出す爽快ともいえる空しさにあるのかもしれない。生粋のストリート・キッズが、大自然の要害に徒手空拳、よれよれのからだで挑む、向こう見ず極まりない冒険の成り行きが、なまじい世間を知った年寄りにはただ切なく眩しいのだ。

はじめてドン・ウィンズロウを読んだのは『フランキー・マシーンの冬』だった。作品や作家が好きになるのに理屈はいらない。肌合いというか肌理というか、何かがぴたりとはまったのだ。その次に読んだのが『ボビーZの気怠く優雅な人生』。これも気に入った。それから『犬の力』にはじまるメキシコ麻薬戦争の内幕を綴った実録小説風のシリーズを通して読んだ。

ただ、生来ひよわなたちで、いくらよく書けていても、あまりに暴力的な小説は苦手。ミステリは楽しい思いで読みたい、というのが勝手な本音。そんなとき、新作の『壊れた世界の者たちよ』に出会った。中篇集ということもあってか、出会った頃のウィンズロウの持ち味を思い出した。軽く洒落のめしたテイストだ。所収の一篇に、念願の英文学の教授になったニール・ケアリーが顔を出していた。はじめまして、ニール。

シリーズ物を読む時の常で、第一話の『ストリート・キッズ』から読みはじめた。頼れる親のいない少年が、親代わりになるジョー・グレアムに出会い、探偵術を教わり、やがて「朋友会」という組織の一員となり、人探しの下請け仕事を命じられる話は、まるでディケンズの『オリヴァー・ツイスト』。しかし、本作を読むと、『ストリート・キッズ』は序曲に過ぎなかったという気になる。それほどまでにスケール感がアップしている。

何しろ舞台は、雨のヨークシャーに始まり、花のサンフランシスコ、それから香港は九龍寨城(ウォールド・シティ)の魔窟、そして四川省成都、最後は峨眉山の頂上へと至るのだ。仕事は姑娘に懸想して任地から失踪した米人の肥料研究者の目を覚まし、会社に戻るよう説得するだけのはずだった。ところが、ミイラ取りがミイラになり、李藍(リ・ラン)という中国人女性に一目惚れしてしまったのが運のつき。彼女を魔の手から救い出そうと単身、香港に飛んだのがまちがいのはじまりだった。

朋友会に仕事を依頼したのはCIAで、表立って動けない組織の猟犬となって、相手を駆り立てるのがニールの務めだった。ところが、何が何やら分からないままに命までねらわれた青年は、危険なことには近づかないというジョーの言いつけを忘れ、いくつもの思惑がからまり合った陰謀の網の中に飛び込んでしまったから、もういけない。九龍城の迷路の中に封じ込められ、自由を奪われ、阿片浸けにされては、グレアムたちにも手の施し様がなくなる。

ヒッピー文化も下り坂のサンフランシスコでの追いかけっこが第一部。香港の彌敦道(ネイザンロード)、ヴィクトリア・ピークといった観光名所でCIAのシムズや三合会や十四Kといった台湾、香港の組員たちとの命のやりとりを経て、九龍寨城に置き去りにされるまでが第二部。阿片浸けで正体を失った本人の知らぬ間に、舞台は第三部、中国の中西部、料理で有名な四川省に移る。李蘭の手で魔窟から救い出されたニールは中毒から回復するため療養生活を送っている。

巻き込まれ型ヒーローというのがある。自分はその気がないのに、いつの間にか事件の渦中にいるタイプの主人公を指すが、ニール・ケアリーがまさにそれだ。二十四歳という若さでは、いくら人間観察に長けていても、自分自身を統御できない。窮地に陥ったとき、ニールは、ジョー・グレアムの名を呼ぶ。するとどこからか救いの手が差し伸べられるのだが、今度ばかりは場所が悪い。いくら方々に顔がきいても、中国にはおいそれと手出しができない。

毛沢東による「大躍進」が、官僚の欺瞞を産み、人民は飢えた。中国の米びつと言われる四川省でも事は同じ。鄧小平の意を汲む省共産党書記、暁昔陽(シャオ・シーヤン)は、毛路線とは一線を画し、農地の私有化を進め、生産量を上げようと、娘の李蘭を使って化学肥料の研究者ロバートを秘かにアメリカから四川省に迎えようとしていた。中央に知れたら反革命の汚名を着せられ、処分を覚悟の行為だ。準備が整うまで、二人が香港に身を隠していたところにニールが現れ、CIAやら三合会、それに朋友会まで騒ぎ出し、計画が危うくなる。

自分の近くにいる党中央のスパイの目をそらし、計画を成就しようとする暁昔陽、それを阻止しようとする省共産党書記補佐、彭(ポン)、中国の二重スパイであることを隠すためニールや李蘭、ロバートを消したいCIAのシムズ、三者三様の想いが峨眉山という景勝地を舞台に闘いを繰り広げる。ニールとしては、ロバートの真意を確かめ、本人が望むなら自由にさせたい。ただし、そのロバートが隠れているのが標高三千メートル級の聖地峨眉山となると、高所恐怖症のニールにとっては苦行でしかない。

どこで、仕入れたのか知らないが、中国人民の苦難の歴史に対する理解、楽山大仏はじめ、中国の名所旧跡、そして何より、四川省という土地に広がる田畑、人々の様子など、見てきたように描き出すのがまるで映画。余談ながら、ニールの通訳を務める紹伍(ショー・ウー)との罵倒語のやりとりが楽しい。「決まり金玉(ファック・イエス)」は、ルビ振りで分かるが、あとの「くされちんこ」や「いかれぽこちん」の原文は何だったのか? 東江一紀の名訳が快調だ。 

本好きは、ニールが大の活字中毒で、どこに行っても本屋とあれば中をのぞかなくては気が済まず、成都の本屋で自分の研究対象であるトバイアス・スモレット作『ロデリック・ランダム』と紹伍の愛する『ハックルベリー・フィンの冒険』を手に入れるところでニンマリ。その『ハックルベリー・フィンの冒険』が、最後に重要な役割を果たすところなど、ビブリオ・ミステリ・ファンには涙なくして読めない。そう、全篇これ軽いノリで語られるこの小説。時々鼻の奥がツーンとさせられる。世界はクソみたいなものだが、それを変えるのは、真っすぐな若者の行動でしかない。いつまでも読み継がれたい青春純情探偵小説である。

『友達と親戚』エリザベス・ボウエン 太田良子訳

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第一次世界大戦は終わったが、次の大戦がすぐそこまできている、そんな時代のイギリスが舞台。ジェーン・オースティンでおなじみの姉妹の結婚問題が主たる話題。コッツウォルズの西の方チェルトナムに、ローレルとジャネットという姉妹が住んでいた。父はコランナ・ロッジの当主で退役軍人のスタダート大佐である。まず姉が結婚し、そのあとを追うように妹が婚約する。婚約相手はバッツ・アビーというカントリー・ハウスの領主にして、猛獣狩りで有名なコンシダインの甥のロドニー。バッツ・アビーの後継者でもある。

願ってもない良縁のようだが、落とし穴があった。姉の夫エドワードの母、レディ・エルフリーダには姦通罪に問われた過去があり、その相手が誰あろうコンシダイン・メガットだったのだ。スタダート家の方に異存はなかったが、離婚してすぐ父が死に、叔母たちによって母親の手からひったくられるようにバッキンガム・シャーに引き取られた五歳の少年にとって、母の不倫問題は避けては通れない過去であった。

仲の好い姉妹ではあったが、美しく愛らしいローレルに比べると、妹のジャネットは何ごとにも興味を持ちながら、その考えていることが両親にもよく分からない娘であった。ところが、ローレルの結婚式の日、その妹の中に「スタイル」ともいうべきものを見つけた者がいた。エルフリーダその人と、スタダート家の親戚のシオドラという十五歳の少女だった。シオドラは、ジャネットがエドワードを愛していることを一目で見抜き、そのジャネットに激しく惹かれてしまう。

波乱含みではあったが、ジャネットとロドニーは同じ年の十月に晴れて結婚。第二部「晴天の一週間」は十年後のバッツ・アビーが舞台。ローレルにはサイモンとアナという兄妹が、ジャネットにはハーマイオニーというアナと同い年の九歳の娘がいる。サイモンとアナはアビーの草地に寝転がるコンシダインにお話をせがんでいる。スタダート大佐は木陰の椅子で眠りこけ、ジャネットはグースベリーの具合を見るのに忙しい。エドワードの親友ルイスの目に映るこの牧歌的な風景は喩えようもなく美しく、あのイ―ヴリン・ウォーの『ブライヅへッドふたたび』を想起させずにはおかない。

ジャネットは人と人との結びつきを大事にする。ここでの暮らしを今ひとつ楽しめないコンシダインを気にかけていた。婚約が破棄されそうになったこともあり、メガット家はティルニー家の子どもたちの滞在中は、エルフリーダをアビーに寄せ付けないようにしていた。そんな時、エルフリーダのロンドン暮らしに問題が発生する。困っている彼女を放っておけず、ジャネットはアビーに招くことにした。それを知ったエドワードは子どもたちを取り返すため、慌ててアビーを訪れる。

子どもがそのまま大きくなったようなローレルと違って、自分なりの考えを持っているジャネットにエドワードは気後れして平静さを保てない。二人が二人だけで対峙する場面は、作中三度ある。最後の場面を除き、あとは二回とも緊張感で息がつまりそうだ。宙に浮いた言葉が、そのまま行き場をなくして部屋の中のあちこちに飛散し、強い想いは自分の裡に留められ、本心でない言葉だけが行き交う。その裏腹な思いを語り手が補綴することで、読者はやきもきしながら二人の会話に立ち会うことになる。

それでなくても、ボウエンの文章は難解で、話が途中で飛んだり、言いかけて言い淀んだり、いっこうに埒が明かない。何度も読み直し、首をひねりながらとにかく読み終えた。「訳者あとがき」で、発表当時から難解さで定評のある文体だったと知り、気を取り直して再読。語順が普通でなく、よく分からない部分は残るものの、作者のいうように、そこは「詩」なのだと思って読めば、緊張をはらんだ、繊細で詩情溢れる文章だともいえる。

お互いに顔を合わすことなく十年間もやり過ごしながら、突然激しくやり合う破目に陥ったのは、せっかくアビーに滞在しているのに、ジャネットにまともに相手されないことに業を煮やしたシオドラが、ローレルに不穏な手紙を書き、それを妻が夫に見せたことが原因だ。義妹の気持ちに気づいていたのか、全く知らなかったのかは分からないが、激しい言葉のやりとりを通して、エドワードはジャネットの中にあった自分への強い想いに気づく。

知らない間はよかったが、相手に知られてはもう隠してはおけない。二人とも自分の仕事にかかり切りで、色恋には疎かった。元のように距離を置いた二人だったが、一度顔を合わせると、抑えてきた気持ちは一気に激しく燃え上がる。肉体的な関係は何もないが、両家が再び「姦通」の汚名を着せられてはたまらない。子どもたちのことを考えればなおさらだ。二人きりで会えた最後の夜、二人は互いの気持ちを確認しながらも、これが最後だと思い切る。この二人の愛の切ないこと。

ジャネットにしてみれば、子どもの頃からずっと慕ってきた相手にやっと気持ちを知ってもらい、相手の気持ちを知った今、愛の歓喜に打ち震えながら、同時に別れを覚悟しなければならない。愛する男は姉の夫なのだ。母親の不倫がトラウマとなり、エルフリーダに「ナーサリー・ティー」と揶揄される、おままごとみたいな夫婦ごっこを演じてきたエドワードにとってはこれが初めての恋愛だった。やっと本気で向かい合える相手が見つかったと思ったら、相手は妻の妹だった。何という皮肉だろう。

「一九三〇年代になってフィクションに繰り返し扱われたテーマは、地理の重要性、心理的セクシュアリティを取り上げること、そして同性愛問題への関心の高まりであった」と「訳者あとがき」にある。実家のチェルトナム、ティルニー家の暮らすロンドン、それに、バッツ・アビーを人物が行き交うことでドラマが生まれ、「姦通」という<passion>(恋情・受難)を主題とし、シオドラという同性愛者をトリックスターとして擁する本作は、当時の小説の鑑といえる。今まで読んだボウエンの中で、これがいちばん好きかも知れない。多分、何度も読み返すことになるだろう。

『フリント船長がまだいい人だったころ』ニック・ダイベック 田中 文 訳

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ティーヴンソンの『宝島』に出てくる「フリント船長」が題名に取られているところから分かるように、主人公は十四歳の少年である。時は一九八七年、合衆国北西部ワシントン州にあるロイヤルティ・アイランドという漁師町が舞台。町の男たちは大半が漁師で船に乗ってアラスカにカニをとりに出て行く。一度漁に出ると一年のほとんどは家を空ける。残された妻や子はひとしきりその不在をかこつ、そんな小さな町の話だ。

十四歳の少年カルの父、ヘンリーはカニ漁船の船長。たまにしか帰ってこない父に一人息子は話をせがむ。大好きな『宝島』の話が終わっても、続きを聞きたがる。父は仕方なく、フリント船長がまだいい人だったころの話をして聞かせるのだった。『宝島』の話を知ってる人なら、あのフリント船長が、いい人だったことなんてあるのか、と疑いたくなるだろうが、人の人生には、往々にして他人の知り得ないことがあるのだ。

カルの母は父に連れられてカリフォルニアからこの町にやってきた。大量のレコードと一緒に。父はそんな母のために地下室を改造してスタジオを作ってやった。何かやりきれないことがあると母はそこに独りで閉じこもって何時間も音楽を聴くのだった。どうやら、その頃、父と母は息子の将来について異なる意見を持っており、互いに譲ろうとはしなかったらしい。その町では息子は父の跡を継いで舟に乗るのが当たり前だった。しかし、母は別の世界を知っていて、息子を小さな世界に閉じ込めたくなかったのだ。

その町が今あるのはゴーント家の曽祖父ローリーがカニ漁を始めたことによる。代々手を広げ、今ではすべての船や工場、その他の会社が三代目、ジョン・ゴーントのものになっていた。そのジョンの突然の死が町を騒然とさせる。ジョンが死ねば一人息子のリチャードが継ぐことになるが、リチャードは一度も船に乗ったことがなく、相続したらすべてを日本の会社に売り渡すと噂されていたからだ。そんなことになったら、カルの父ばかりではなく、町中の男たちが仕事を失ってしまう。

ジョンの葬式も終わり、恒例の記念日の会食が、今年ばかりはヘンリーの家で行われた晩、招かれざる客であるリチャードが姿を現し、噂が本当であることをぶちまけてしまう。漁師たちはヘンリーの家に集まっては、夜な夜な打開策を相談するが、万策尽きる。そんなある日、カニ漁の再開が告げられ、町中が沸き立つ。なんと、ヘンリーらの説得が功を奏し、リチャード自らが舟に乗り、アラスカに向けて出発するという。

その出航前夜、父と母はまたもや激しい言い争いになり、出産の準備のために母は家を出てカリフォルニアに引っ越すことになる。母に一緒に来るかと訊かれたが、カルはうんと言わない。一人暮らしとなる息子の身を案じた父は同僚で、ジェレミーという同級生の息子がいるサムの家に息子を預ける。他人の家で父の帰りを待つカルのところに吉報が舞い込む。今年の漁は奇蹟的な大漁だった。しかし、その後に飛び込んで来たのは、リチャードが海に落ちて死んだという哀しい知らせだった。

そんなとき、久しぶりに立ち寄った自分の家の地下から音楽が聞こえてくる。母がこっそり帰ってきたのかと喜んだカルだったが、カリフォルニアの母から電話があった。地下室にいるのが母でないなら、いったいあれは何なのか。ひょっとしたら自分の気のせいかと思い、再度訪れてもやはり音楽が聞こえてくる。カルは自分の気は確かなのかと思い悩み、遂に、地下室に声をかける。すると、そこから帰ってきた返事は思いもよらないものだった。

小さなコミュニティに暮らす少年が自己を形作っていくときに頼りにするのは、父である。ところが、その父が一年の大半留守をする。残された母が地域の中でコミュニティとうまくつきあっているなら、それなりに何とかなるのかもしれない。ところがカリフォルニアから来た母にそんな気はさらさらなく、友人と言えるのは今は引退したジョン・ゴーントくらいのもので、ジョンは父の留守中も、よく母のスタジオを訪れ、地域の噂など気にせず、二人で音楽を聴いていた。

父の留守中にとんでもない厄介ごとを背負いこんでしまったカルは、ジェレミーの手を借りながら、何とかそれを処理しようと躍起になる。しかし、自分の意志を通そうとすれば、父を、ひいてはコミュニティを裏切ることになる。しかし、もしそうしなければ事態を解決することができない、というディレンマに陥ってしまう。これは、少年が大人になるために誰もが一度は通らなければならない「通過儀礼(イニシエーション)」を描いた物語である。

カルは自分の背負いこんだ厄介ごとと格闘する中で、父の仲間のビルや同い年のジェレミーたちとそれまでにないほど濃厚な接触をすることになる。それまで自分というものを深く考えたこともなかったカルだったが、他者の目から見たかルは、意外なことに、自分でも気づかない性格や能力を持っていた。いよいよ事を決しなければならなくなった時、カルは思いもよらぬ行動に出るのだった。

デューク・エリントンの「ロータス・ブロッサム」はじめ、マイルスやコルトレーンのジャズの名曲、ボブ・ディランニール・ヤングといったフォーク、ロックの懐かしい曲が地下のスタジオから流れてきて、真空管のオレンジ色の灯りとともに、物語に色を添える。母がカリフォルニアから連れてきた音楽が小さなコミュニティから出て行くための翼になっている。作者は『シカゴ育ち』のスチュアート・ダイベックの子息。瑞々しい抒情性に溢れた鮮烈なデビュー作である。