青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『ブリーディング・エッジ』トマス・ピンチョン 佐藤良明+栩木玲子 訳

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原題は<BLEEDING EDGE>。辞書によれば「技術などが開発最先端の(テスト段階にある、試作的な、アルファ版の)通例、安全性・実用性などが十分に確認されていないもの」を指すらしい。作中にコンピュータおたく二人が開発した「ディープ・アーチャー」というサイバー・スペースが登場する。いまだライセンス化されていない試作段階のサイバー空間には、それなりの腕を持つハッカーなら誰でも侵入可能で、各々が好き勝手なことをし放題の状態にある。つまり、「ブリーディング・エッジ」は、まだ知られぬ能力を持つハッカーたちの草刈り場にもなるわけだ。

あの、トマス・ピンチョンの最新作である。前作『LAヴァイス』で、サンダル履きのヒッピーくずれを探偵にしたかと思ったら、今度は二人の子持ちのシングル・マザーを探偵役に起用している。しかも今回は本物の私立探偵ではない。投資関係の不正処理を暴く、本人いうところの「帳簿係」だ。人の好いのが災いして、信用してはいけない人物の口車にのせられた挙句、資格を剝奪され、今は「非公認会計不正検査士」を名乗っている。それでも腕が立つからか、あっちこっちからひっきりなしに依頼の電話がかかってくる。

そんなマキシーンのオフィスに、以前クルーズ船で知り合ったドキュメンタリー映像作家のレッジが現れる。ある会社に仕事を依頼されたが、実際仕事にかかってみると、かなりヤバそうな会社なので調べてほしい、というのだ。その会社というのが、新興IT長者のゲイブリエル・アイスが興した「ハッシュスリンガーズ」。調べてみると、誰に訊いてもいい評判が返ってこない、いわくつきの会社だった。

時は二〇〇一年、場所は前作のロサンジェルスから一転して、ニューヨーク。ここまで書いたら、生粋のニューヨーカーならずとも思い当たる。物語が始まるのは春分の日。運命の九月十一日まであと半年足らず。物語の背景にワールドトレードセンターのツイン・タワーが暗い影を落としている。あの同時多発テロイスラム過激派によるものでなく、アメリカによる自作自演だったという説は、早くから囁かれていた。では、いよいよピンチョンが満を持して、お得意のパラノイア的想像力を駆使してその解明にあたるのか?

いやいや早まるでない。ハンドバッグにベレッタを忍ばせることはあっても、マキシーンはただの会計不正検査士。大規模犯罪を暴くにはあまりにも非力だ。物語の基本的な枠組みは、あくまでも悪徳企業で働く一人のエンジニアの死の背景を追う、ハードボイルド小説のそれだ。しかるに、マキシーンは薄汚れた都会を彷徨う孤高のヒーロー、なんかじゃない。二人の子の学校への送り迎えもしなければならないし、ママ友と女子会したり、両親の家を訪ねたりもしなけりゃならない。いたってドメスティックな役回りなのだ。

面白いのは、全盛期を過ぎたとはいえ、ルックスもスタイルもかなりイケてる三十代女性が探偵役となると、周りに集まってくる男の対応が、男の探偵の時とは違ってくる。イタリア系の投資家ロッキー、ロシア系の顔役イゴールをはじめとして、普通なら敵側に回りそうな面子が、みなマキシーンに力を貸すから愉快だ。そんな大物たちや、足フェチの天才ハッカー少年エリックの力を借りて、マキシーンが立ち向かう当面の敵は、ゲイブリエル・アイス。この男をめぐる金の一部が中東その他に流れ、闇のプロジェクトに使われているらしい。その上前をはねた男が殺されたところから事件は動き出す。

ジョン・レノンが殺された現場に建つダコタ・ハウスがモデルとされる、屋上にプールのあるビルだとか、モントーク岬にアイスが建築中の別荘の地下にある使途不明の巨大空間だとかいうお定まりのガジェットに加え、今回魅力を振り巻くのがディープ・アーチャーというサイバー空間。開発者の一人は、マキシーンのママ友ヴァーヴァの夫。その話を聞いたマキシーンは実際に仮想空間を体験する。このあたり、ゲーム好きなら、解像度や何やかやの凄さが分かるのだろうが、素人にはIT用語はさっぱりで、楽しめないのがもったいない。

実は、マキシーンはユダヤ系。妹の夫はイスラエル人でアイスに雇われているし、アイスの妻タリスの母親は、マキシーンとは旧知の間柄で反体制活動家のマーチ。アイスが何をしているのかは知らないが、マキシーンたちは、初めから事件に巻き込まれていた。そんなマキシーンの前にウィンダストという男が現れる。国家と関わりの深いネオリベ組織の活動員らしいが、危険な魅力を発散し、マキシーンはそれから逃れられない。そんな折、マキシーンの家に、ビルの屋上で行われるスティンガー・ミサイルの演習実践のビデオが届けられる。一見して分かるように、航空機の狙撃を企む連中がいるのだ。

トマス・ピンチョンと聞いて怖毛を奮う必要はまったくない。これがニューヨーカーという人種だろうか? 主人公マキシーンの一人称視点による軽いノリで、ポップカルチャーを適当にピックアップしながらテンポよく会話が進んでいく。話があまりスピーディーに進んでいくので、五十人弱に及ぶ、付録の「主要登場人物紹介」を手許に置き、時々のチェックは欠かせないものの、要所要所には註が付されているのでネタの解釈に悩む心配はない。ピンチョンがこんなにスラスラ読めていいのかしら、という疑問が湧くぐらいのものだ。

が、そこはピンチョン。国家の枠を超えて動く使途不明の金の動きを追いながら、ふた昔も前のテレビ番組や映画、ポップミュージック、イタリア系、ロシア系、ユダヤ系、それぞれのお気に入りの飲食物、それに今回はファッションやら香水にまで蘊蓄を披露して飽きさせない。巻末に、ニューヨーク市ロングアイランド、マンハッタン、アッパー・ウェストサイドと四枚の詳細な地図が付されている。舞台となるニューヨークという街を知らないのがいかにも悔しい。当時を知る人なら、ジュリアーニ市長が登場する前のNYCと、それ以降の景観のちがいを思い浮かべ、感慨に耽るのではあるまいか。

覆面作家であるのがわざわいして受賞に至らないものの、その正体を明かす気さえあるならノーベル文学賞間違いなしというポスト・モダンの旗手、トマス・ピンチョン。ファンが手ぐすね引いて待っていただけはある、読みごたえ充分の作品だが、一般の読者にも門戸は広く開かれている。『ヴァインランド』がそうだったように、入り口は広く奥の深いのがピンチョンの世界だ。若い読者なら『LAヴァイス』や、この作品からピンチョン・ワールドに入っていくのが正解かも知れない。

『台北プライベートアイ』紀蔚然 船山むつみ 訳

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原題は<Private Eyes>。私立探偵を表す「プライベートアイ」はふつう<Private Eye>と単数扱いだ。語り手は別の説を挙げているが、あまり説得力があるとは言えない。小説の終わりに、主人公である呉誠(ウー・チェン)の手助けをするタクシー運転手が、正式に相棒になり、私立探偵の仲間入りをしたことが書かれているので、複数形にした、と考えてもいいだろう。台湾の実質的な首都といえる、台北という魅力的な都市を舞台にした、一風変わったハードボイルド小説、と一口には言えるだろう。

なぜ語尾を濁すのかといえば、ことはそれほど簡単じゃないからだ。もし、純然たるミステリファンの読者がこの本を読んだら、腹は立てないにしても、何がハードボイルドだ、と呆れるだろう。なにしろ、この呉誠、私立探偵の看板こそ掲げているが、推理小説を読んだだけのズブの素人。もとは大学教授で劇作家。それが五十歳を前にして、突然大学教授の席を投げうち、劇団仲間とも一切関係を断って、修行のやり直しとうそぶき、臥龍街(ウォロンジェ)の洞窟めいた安アパートで隠棲を始めたのだ。

しばらくは退職金その他で食べていけても、長くは無理。そこで人助けも兼ねて、私立探偵稼業を始めることに。興信所組合に行くと何かと面倒な手続きが必要らしく、組合にも入る気もないので、それはパス。看板と名刺だけを頼りに仕事を開始した。拳銃も持たず、自動車にもバイクにも乗れない、チャリンコ探偵の登場である。はじめのうち、これはハードボイルド小説のパロディかと思って読んでいったのだが、どうやらそうでもないらしい。ちゃんと謎解きもあり、羊頭狗肉の気味はあるもののミステリにはなっている。

ある女性から夫の素行調査を引き受け、不可解な密会の謎を解き、探偵料も頂戴し、尾行の際に手足となって働くタクシー運転手の添来という仲間も得て、幸先の良い出発をしたはずが、青天の霹靂。マスコミが「六張犁(リョウチャンリ)の殺人鬼」と名づけた連続殺人事件に巻き込まれ、重要参考人として警察で事情聴取される羽目になる。しかも、ことはそれで収まらず、ついには容疑者扱いされ、逮捕されてしまう。著名な演劇人で元大学教授ということもあり、マスコミは大騒ぎ。母や妹にも心配をかけ、呉張は落ち込む。

瞬く間に街のあちこちに監視カメラが据え付けられ、常時誰かの目が市民の行動を監視しているという、オーウェルの描いた未来社会がいつの間にか常態化していることに今更驚きもしないが、それは台湾も変わらない。警察が収集した監視カメラの映像に、呉張と二人の被害者が偶々一緒に映りこんでいたのだ。そんな偶然が重なるはずがないことは素人にも分かる。どうやら、犯人の狙いは、呉張その人にあるらしい。ところが、呉張が留置されている間に新たな殺人が起こる。犯人がおちょくっているのは警察か、それとも呉張本人なのか?

羊頭狗肉と言うには訳がある。帯に「台湾生まれのハードボイルド探偵日本初上陸!」と派手派手しく謳っておきながら、主人公にハードボイルド探偵の気迫が感じられない。ハードボイルド探偵といえば、腕と度胸を頼りに、他人を頼らず、権威におもねらず、悪と対峙する孤高のヒーローというイメージがある。ところが、呉張ときたら、妻に見捨てられたせいで酒浸りになって、芝居の打ち上げの夜に泥酔し、海鮮料理店亀山島にいた、ほぼ全員を罵倒したあげく、一切合切を放り出して、臥龍街に逃げ込んだ情けない男。

おまけに、これは本人の責任ではないが、鬱病パニック障害のせいで夜は満足に眠ることができず、精神安定剤が欠かせない。それだけでなく高所恐怖症や対称強迫神経症にも悩まされている、病気のデパートみたいな存在だ。しかも、あろうことか事件の捜査に警察の協力を仰ぐとあっては、ハードボイルド探偵の名折れ。いつの間にか警察小説みたいになってしまっている。しかも、犯罪自体はサイコパスによる見立て殺人で、犯人は早くに見当がつき、小説は見立ての意味を探る、ホワイダニットの謎解きミステリとなっている。

実は、呉張のモデルは作家自身。戯曲がが上手く書けなくて、このままでは駄目だと思いながら、街歩きをしているうちに、推理小説の構想が浮かんできた、と訳者あとがきで紹介されている。「書き終わってみたら(略)実は推理小説の形で、日記を書いていたんだ」とも書かれている。俗にいう「中年の危機」もあったのだろう。ある程度、やるべきことをやり、それなりのところに来ると、自分を高い位置に置き、周囲の至らなさが目に付きはじめ、苛立ちを覚える。それでも何とか抑えつけるが、そのうちそれが手に負えなくなって、いつか爆発する。

呉張の場合、それが「亀山島事件」だった。それを契機として、自分の人生や台湾人の性向、物の考え方などにもう一度目を向け、再考を始める。その経緯が、この一作に思う存分詰め込まれている。普通ハードボイルド小説は一人称のモノローグだから、作家が自分の思いを吐露するにはうってつけの設定だ。ところが、先にも述べたように、呉張のモデルは大学教授の劇作家だから、所謂インテリ。日本人と台湾人を比較したり、サイコパスとソシオパスのちがいをあげつらったり、およそハードボイルド探偵らしからぬことを喋り散らす。

この小説の妙味はそこにある。実のところ、正味は全然ミステリなどではないのだ。行列の出きる社会には連続殺人事件が多い。秩序があるからこそ、それを乱す殺人が行われる、などといった比較社会学めいた物言いが随所に展開され、それがいちいちツボにはまって面白い。また、台湾ならではの伝統的な風習や、家族関係はじめ濃厚な人間関係がぎゅう詰めで、台湾好きでなくても一度は現地に行ってみたくなる。それもあって、欧米を舞台にしたミステリや、それを手本にした日本のミステリ、とは一口も二口もちがう、アジアン・テイスト満載の推理小説になっている。

呉張の棲む「臥龍街」だが、中国に「伏龍鳳雛(ふくりょうほうすう)」という熟語がある。「臥龍(伏龍)」は、池の中に伏して、昇天の機会をねらう龍のこと。そこから、世に知られずにいる大人物を指す言葉だ。ならば、呉張を助ける警官の陳や助手の添来たちは鳳雛鳳凰の雛)、つまり将来が期待される若者ではないか。原題の<Private Eyes>にはその辺の意図があるのかもしれない。小説の末尾、呉張に新たな事件以来の電話がかかってくる。シリーズ物にする気あり、と見たがどうだろう。

『シブヤで目覚めて』アンナ・ツィマ 阿部賢一 須藤輝彦 訳

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一口に言えば、夭折により作品数が極めて少ないマイナー・ポエットの未発表原稿をめぐる探索行。いうところのビブリオ・ミステリである。本に関する蘊蓄が熱く語られるのが、この手の作品の常道で、そういう衒学趣味的な部分を愛する読者には喜ばれるにちがいない。もっとも、これを書いたのが、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』をチェコ語に訳した翻訳者でもあることからも知れるように通常のミステリとはいささか様子がちがう。

というのも、作中に堂々とというか、いけしゃあしゃあとというか、ドッペルゲンガー(分身)を持ち込んでいるからだ。まともなミステリ作家なら、作中に超常現象は持ち込まない。そんなものを読まされた日には、真剣に謎を追う気が失せてしまうからだ。ということは、これはビブリオ・ミステリの形式を借りた、所謂ポスト・モダン小説なのか、とまあそんなことはどうでもいい。読めば分かる。とんでもなく面白いから。

舞台となるのは日本の渋谷、とチェコプラハ。主人公はプラハの大学で日本文学を専攻するヤナ。彼女は博士論文のテーマに、川下清丸(かわしたきよまる)という作家を選んだ。横光利一らと親交があるので、新感覚派に属すると考えられるが、若くして死んだため、作品の数が極端に少なく、作家についても未知な部分が多い。当然それについて詳しく調べることが論文を書くための下準備となる。ヤナは日本文学に詳しい院生、クリーマの手を借りて、川下の作品と作家その人について追い始める。

二つの世界が同時進行で語られる。一つは、言うまでもなくプラハの大学で、川下という日本人作家とその作品を精査するチェコ人の若い男女の物語。志を同じくする仲間であり、余人をもって代えがたい資質を持つ二人は当然のように惹かれあい、急速に関係を深めていく。しかし、二人とも、言ってみれば日本文学オタクで、本の中に頭を突っ込んで生きている。それ以外の部分についてはほとんど言及されない。二人の恋愛感情は、日本人作家川下の書いたテキストの中で生成変化していく、いうなれば形而上的恋愛である。

二人の代わりに生々しい恋愛を生きるのは、川下が自分をモデルにして創り出した聡(さとし)という若者と、どうやら聡の父の愛人であったらしい、聡の叔母にあたる清子という年上の女性である。大正期の作家川下の書いた「恋人」という作品が、この本の中では本文とフォントを変えて引用されている。部分的引用というより、作中作のように一篇まるごと抛りこまれているようなのだ。いかにも大正・昭和初期を思わせる、いささか古風な文体で書かれた短篇を何度も読まされるうち、読者は奇妙な感覚に陥る。ミステリと思って読んでいたものが、いつの間にか純文学を読まされている、といった思いに駆られるのだ。

もう一つの世界は日本の渋谷、ハチ公前がその舞台。こちらの主人公がドッペルゲンガーのヤナだ。実はヤナは数年前に友だちと日本を訪れたことがある。そのとき、友だちとはぐれた彼女は、待ち合わせのお約束、ハチ公前で街を行き交う人並を眺めながら、このままここにいられたら、という思いに駆られていた。その所為なのかどうか、気がつけば、肉体だけがプラハに帰り、ヤナの<想い>だけがそのまま渋谷に残った。実体のない想念としてのヤナは、まるで幽霊みたいにそれからの年月を今に至るまで渋谷を彷徨い続けていた。

おかしいのは、プラハにいる本物のヤナが頭でっかちで、文学の中で恋愛しているというのに、想念としてのヤナは、憧れの日本にいて、毎日お気に入りのビジュアル系バンドのメンバーで仲代達矢に似た青年を追っかけまわし、停電で地下の練習スタジオに閉じ込められたところを救出したりしている。こっちのヤナは、七年前で成長が止まっているからか、けっこうミーハーで、分身テーマでよくある、見かけは同じだが、中身は別というお約束を守っている。幽霊のヤナの方が、本物のヤナより形而下的であるのが面白い。この一つひねった感じが本作の持ち味。

二つの世界が平行線をたどるばかりでは、話が終わらない。プラハのヤナと、渋谷のヤナを一つにする役目を担うのが、日本に留学中のクリーマだ。プラハに一人残してきたヤナのことを思いながら、渋谷の町を歩いていた彼は、街中でヤナを発見する。誰にも見えないはずのヤナが、なぜクリーマには見えたのか、その辺の説明は特にないが、よしとしておこう。七年前からこの<閾>の中に閉じ込められているヤナは、当然二年前にプラハで出会ったクリーマのことを知らない。このあたりのクリーマとヤナのちぐはぐな会話が愉快。

ヤナの現状を理解したクリーマは、分裂したヤナを一つにするには、もう一度ヤナが日本に来るしかない、という結論に至る。そのためには川下についてもっと研究し、その成果をもとに論文の概要を提出して留学の審査に通るしかない。ずっと渋谷にいたので、川下のことを知らないヤナに、彼は常時携帯していた「恋人」と「揺れる想い出」の二篇を渡し、これを読むように言う。こうして、川下に興味を抱いたヤナは、クリーマと友人の兄であるアキラの手を借り、自殺した川下の未発表原稿を処分した川島の妻に会うことになる。

未亡人が川下の遺した原稿類を処分したのには理由がある。川下清丸の本名は上田聡。父は姪の清子と恋仲になり、清子を妊娠させてしまう。世間への外聞を憚った父は伝手を頼って渡仏する。日本文学をかじったことがあれば、これは誰をモデルにしているかは自明だろう。上田聡は、叔母である清子に恋慕し、周囲の反対に耳を貸さず、関係を持つに至る。その結果二人は川に身を投げ、清子は助けられて命を拾うが、聡は水死する。妻の幸子が、夫の残した原稿を他人の目に触れさせたくないという気持ちも分かろうというもの。

さて、肝心のその原稿は果たして、言葉通り処分されていたのか、それとも秘匿されていて、百年の時を超え、遂に日の目を見ることになるのか、興趣は尽きないが、それは本作を読んでもらうしかない。それより、ヤナとクリーマが探り出してくる川下の書き物の中には、日本文壇の動向、新感覚派をめぐる文士たちの交友関係、さらには文士たちが遭遇した関東大震災についての回想録、などと言った珍品がザクザク出てくる。読んでいるうちに、これが1991年にプラハで生まれた作家の書いたものであることを忘れてしまうほどだ。

この作品の真骨頂は新感覚派の流れを汲む、川下清丸の作品の引用部分にある。いわゆるパスティーシュ。漢字仮名混じりの和文で読んでこそ、その味わいが伝わる。一つ気になるのは、原文ではどうなっているのかだ。これほど日本文学に詳しい作家なら、日本語で創作するのは容易だろうが、それではチェコの人にはまず読めない。よくある、作者によるチェコ語への翻訳という手を使ったか。もしそうなら、川下の作品を日本語で読めるのは、この邦訳しかないことになる。こういう例が過去にあっただろうか、寡聞にして知らない。

日本人には、外国人の目からは、日本や日本人はどう見えるのかを気にするところがある。そういう観点からいうと、この小説は大いに好奇心を満足させてくれるにちがいない。表紙カバーの印象からすると、書店では平台でなければ、外国文学(翻訳小説)の棚に並ぶと想像されるが、ちょっと勿体ない。翻訳小説好きはもちろんだが、ふだんは外国文学を敬遠しているような、日本の純文学が好きな読者にこそ手に取ってもらいたい作品だ。

ひさしぶりのトリミング

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書斎で本を読んでたら、見えないところでクウクウ、寝息が聞こえた。

いつの間にか、ニコが来て、椅子の上で丸くなっていた。

そっと頭を撫でたら、ニコが目を覚ました。

で、散髪したての顔の記念撮影。

 

少し調子が悪くて、一回トリミングの予定をキャンセルしたので、

今日は三月以来、三カ月ぶりのトリミング。

肉球にかぶさるように伸びていた毛もカットしてもらった。

これで窓際のカウンターに飛び乗っても滑ることはない。

顔のまわりに伸びていた毛も、まあるくカットしてもらってちょっと小顔に。

 

 

毛がわりの季節なので、手で撫でるだけで指に毛がからんでくる。

本ニャンもむず痒いのだろう。よく後肢で掻いていた。

車に乗るのが嫌いで、「帰るう、帰るう」と鳴くのがかわいそうだけど

長毛種のヒマラヤンには、シャンプーとトリミングは欠かせない。

 

これで、今日から楽になるだろう。

 

『祖国』上・下 フェルナンド・アラムブル 木村裕美訳

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<上・下巻併せての評です>

ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペイン両国に跨がるバスク地方。古くから独自の言語、バスク語を話す民族が暮らす土地だが、現在は国境によって北はフランス領、南はスペイン領に分断される形になっている。この小説は、スペイン側のギプスコア県にある村に暮らす二家族の確執を描く。確執を生み出すもとになったのは、民族独立運動から派生し、今やヨーロッパ最後のテロ組織といわれるETAバスク祖国と自由)が起こした殺人事件。

殺されたのは、村で運送会社を経営するチャト。それ以前からETAに運動資金として多額の金銭を要求されていた。何度か応じはしたものの、相手の要求は増すばかりで、誰かに仲介を頼もうと働きかけていた矢先、自宅や会社の壁に落書きが書かれ始める。それは次第に過激なものとなり、いつの間にか暗殺さえ仄めかす落書きが村中の至る所で見られるようにまでなる。しかし、息子の再三の助言にもかかわらず、頑固なチャトは村から立ち退くことを認めない。村のために、それまでも力を尽くしてきた自負があるからだ。

同じバスク人ではあるが、個人で企業を経営するチャトの家はまずまず裕福で、息子のシャビエルは病院勤めの医師となり、娘のネレアはサラゴサで大学に通っていた。家族で外国旅行にも行く。経営者として組合のストにも立ち向かわざるを得ない。雇われているのは地元の人間だ。資本家と労働者、富める者と貧しい者という構図で見れば、両者は敵対関係にある。それが地域固有のナショナリズムと結びつき、尖鋭化した組織から非協力者=敵と目されるようになったわけだ。

問題は、加害者の一人として警察に逮捕されたのが、チャトの家とは家族ぐるみで付き合いのあるホシアンの長男、ホシェマリだったことだ。屈強な若者であったホシェマリはそれまでの活動が認められ、ETAの仲間に入り、フランスで訓練を受けていた。おまけに犯行当時、村にいたのを目撃されていた。ややこしいのは、ここからだ。村人は、殺されたチャトの葬儀には顔を見せず、逮捕されたホシェマリを英雄視したのだ。

二人の子は家を出て行き、ひとり村に残されたチャトの妻、ビジョリはそれまで親しく付き合っていた村人から村八分の目に合わされる。姉妹のように仲の良かったホシェマリの母親、ミレンは息子可愛さのあまり、ETAのシンパとなって、ビジョリを敵対視しするようになる。テロが、二つの家族を仲たがいさせ、家族の構成員である親子兄弟の間にも対立が生じる。この小説は、家族の崩壊と、そこからの再生の道のりを、二家族九人のそれぞれの視点から描き出す構成をとる。

それぞれの人物の視点から、一つの事件を見ることで、単なるテロによる殺人が、ちがった意味合いを帯びて目に映るように見えてくる。ともすれば、イデオロギー的になりがちな主題を扱うにあたって、単純な善悪二元論に陥らないように、年齢、性別、兄弟関係を違えた複数の視点を確保した作家の工夫が生きる。読者は、最愛の夫を殺された妻の立場、官憲に犯人扱いされ、投獄された息子を持つ母の立場、兄に怖れと反発を感じながらも、逃亡の手助けをせずにおれない弟の立場などに寄り添いながら、事態の進展を見守ることとなる。

背景にあるのは民族独立運動とその尖鋭化された形としてのテロリズムだが、話を引っ張っていくのは、家の中心となる二人の母親の姿である。特に、愛する夫を殺され、村人から相手にされなくなり、ついには息子シャビエル(余談ながら、有名なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルバスク人。おそらく同名だろう)の助言を聞きいれ、サンセバスティアンのピソ(集合住宅)に引っ越してからも、村の墓地に通い続けるビジョリのぶれない芯の強さだ。

頑固だった亡きチャトを除けば、この小説の中の男たちはみな、善人ではあるが、どちらかといえば、自分の立ち位置をはっきりしようとしない。父を殺されたシャビエルは、その報復や復讐ではなく、父に託された母を守ることに専念するあまり、遂には愛する人さえ失ってしまう。チャトの親友だったホシアンは、村人の目や妻からの叱責を気にしてチャトと目を合わせることすら避けるようになる。しかも、内心それを大いに恥じている。

ホシェマリは、勉強嫌いだが運動能力は高い、よくある悪童の典型だ。スリルを求めてやり始めた悪戯がエスカレートして、いつの間にかテロリストの実行部隊にリクルートされてしまう。何も知らない村人からは英雄視されるが、本人はいたってナイーブな家族思いの青年に過ぎない。その弟のゴルカは、兄とは対照的な文学好きの内向的な少年として育つ。後に流暢なバスク語の使い手となってラジオ局に勤めるが、自分を局外者の位置に置き、周囲とは一線を画す。それには訳があるのだが、それはまた別の話。

それに比べ、女たちはみな、確固とした意志の強さを見せる。息子に肩入れするあまり、柄にもなく政治的な言辞を吐くミレンの姿は、強いというより弱さを見せないための強がりにも見える。しかし、ホシェマリの姉のアランチャは、突発性の難病のせいで、頭は働くものの体はほとんど動かせない障碍者ながら、iPadを駆使して自分の意思を表明し、母親の反対にもめげず、両家の間にある確執を解こうと努力する。アランチャの介護をするエクアドル人女性のセレステといい、何度も男で痛い目を見ながら、めげることを知らないネレアといい、女たちの逞しさには圧倒される。

チャトとホシアンが日曜ごとにサイクルツーリングに出るところや、さほどスポーツに関心のなさそうなシャビエルがレアル・ソシエダードを応援するためにサッカー場に出かけるところ、ミレンの得意なメルルーサの衣揚げ、バルでつまむピンチョス、といった、この地方ならではの独特の文化を点景に、古くから続く歴史と文化を持つバスク地方の光と影を人々の哀歓に寄り添いながらくっきりと描き分けたフェルナンド・アラムブルの『祖国』。ベルナルド・アチャガの『アコーディオン弾きの息子』とは、またひと味ちがう、現代バスク文学の傑作の誕生である。

 

『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』エリザベス・ハンド 市田 泉 訳

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世界幻想文学大賞受賞作である中篇三篇、ネビュラ賞を受賞した短篇一篇を収録したエリザベス・ハンドの傑作選である。ネビュラ賞とあるからには、ジャンル的にはSFに括れるのだろう。その分野にあまり詳しくないのは確かだが、それにしても、どれも今まで知らなかったというのが信じられないほどの完成度の高さだ。どうして、今まで、どこかですれ違いもしなかったのか、不思議でならない。

なかでも、若い男女の視点で語られる中篇二篇がいい。歳をとったせいで、今の若い人たちについていけなくなったせいか、最近は若者を中心に据えた作品を手に取ることがなくなった。しかし、誰にでも若い時分はあったはずで、若者の心情に共感できないはずはない。要は、現代の若者を囲む、文化の潮流について行けないだけだ。その点、舞台を少し前に取ったものにはそれがない。

表題作「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」は、友だちが、主人公の母のことを「ウッドストック・フェスティバルでLSDをキメすぎたみたいだな」と評するところがある。ヒュー・グラント主演の『アバウト・ア・ボーイ』の中で、少年の母がヒッピー風であることがいじめの原因になっていたのを思い出す。ある時を境に、ヒッピーは、時代に取り残された思想や生活スタイルにしがみつく、いかれたやつら、という認識になってしまっているようだ。

ムーニーは、メイン州にあるマーズ・ヒルで夏を過ごすようになって何年にもなる。母が、スピリチュアリストのコミュニティで<クリエイティブなサイコキネシス>のワーク・ショップを始めたからだ。そこで、ゲイの父を持つジェイソンと知り合った。現在、二人の親は重病を患っている。マーズ・ヒルには病を癒す力を持つ何かがいて、「彼ら」と接触できれば病は消える、と信じられていた。ただ、この地を去ればその効力は失われる。二人の親は、この夏を最後に街に帰らないことを決めている。

人はいつか独り立ちしなければならない。しかし、年少の子どもにとって、親との別れは耐えがたい。片親だったらなおさらだ。二人はその辛さを分かち合いながら、自分たちとは相容れない世界に生きる親世代とひと夏を過ごす。チュニックやカフタンを身に纏ったエキセントリックな男女が、夏の夜を祝うイヴェントであるファースト・ナイトに集う様は、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を思い起こさせる。魔法にかかった一夜が明け、少女の夏は終わる。幼年時代の終わりを鮮やかに描き切った一篇。

「イリリア」というのはシェイクスピアの戯曲『十二夜』の舞台となる国の名。「ティアニー家は有名な演劇一家で、シェイクスピアの時代にまでさかのぼれる役者の家系」だった。「わたし」は、往年の名女優マデラインの名前を受け継いだ。マディには同じ日に生まれたいとこのローガンがいる。二人の父親は一卵性双生児。そのせいでマディとローガンは「似た者同士(キッシング・カズンズ)」と呼ばれ、いつも行動を共にしていた。

曾祖母マデラインは早々と女優を辞めて資産家と結婚し、ヨンカーズに屋敷を構えた。マディたちは、今もその屋敷に住むが、一家は演劇とは無縁の生活を送っていた。ただ一人、おばのケイトだけが、それを嘆いていた。というのも、一族の末っ子であるローガンとマディには才能が受け継がれていた。才能は「贈り物(ギフト)」だが、大事に育てないと失われてしまうものだからだ。ケイトは、学校の演劇祭で演じられる『十二夜』に二人を引きずり込み、二人は瞬く間に舞台の魅力にとりつかれる。

長身で美しいローガンは美声の持ち主で、その歌を聞いたものは誰でも心を鷲づかみにされる。オーディションに受かった二人は練習に励むが、マディは、生まれつきの才能を持つローガンに激しく魅了され、自分の凡庸さを嘆く。しかし、ケイトはこう諭す。「魅惑の力(glamour)――それは文法(grammar)という言葉と同じ語源を持つの、一種の知識。つまり、教えることができるってこと。身につけることができるの」。

天賦の才を持つ者と、努力によって才能を鍛え上げることのできる者の対比。そして、激しく愛し合いながら、近親婚というタブーによって仲を裂かれることになる男女の悲恋。芸術家としての聖痕を持つ者と、それに対してアンビヴァレンツな感情を抱くブルジョア精神の持ち主たちの対立。それらが相俟って引き起こされる悲劇。劇中劇として演じられる、シェイクスピアの『十二夜』が、トランプの絵札のように二人一組で生きてゆくはずだった似た者同士が、運命の悪戯によって、無惨にも海を隔てて引き離される運命を暗示している。

ある一つの小さな仕掛けさえ仕込まれていなかったら、幻想文学の範疇に括られることはない小説である。ところが、そのささやかな仕掛けが大きな力となって物語を牽引している。それは、二人が禁断の愛の巣とし、根城にもしているローガンが暮らす屋敷の屋根裏部屋に隠されていた。壁の向こうで音がするので、ネズミでもいるのか、と思った二人が動いたそのはずみで壁の一部が壊れ、闇の中に光がこぼれ出る。

おそるおそる覗いた二人の目に映ったのは――「壁の内側にはおもちゃの劇場があった。折り紙や金ぴかの厚紙、ブロケードやレースの端切れで作ってある。緋色の薄紙でできた幕がプロセニアム・アーチにとりつけてある。(略)だまし絵(トロンプ・ルイユ)の切り抜きや折り紙の壁とアーチが目眩を覚えるほど複雑に配されて、舞台が果てしなく奥まで続いているように見せかけている」。ライトに照らされた舞台には、動くものもないのに、サラサラ、コツコツという音がし、造りものの雪さえ降るのだ。

エリザベス・ハンドが小説の中に持ち込む「幻想」はほんのわずか。どこからか降り注ぐ黄金の光や、壁の一部に埋め込まれたおもちゃの舞台、といった些細なもの。ガチなSFのような壮大な異世界は必要ない。人が気づかなかったら、それっきり誰にも知られず、現実世界の傍らにずっと存在し続ける。見る眼を持つ人にだけ、それは存在する。この精緻に作りこまれた小世界が、この人の持ち味。心に響き、いつまでも忘れ難い余韻を残す。

ほかに、誰もいなくなった島にひとり残された女性が、時々届く愛する男からのメッセージを読む「エコー」、失敗に終わった世界初の飛行実験を模型を使って再現しようという試みを描いた「マコーリーのベレロフォンの初飛行」の二篇を収める。珠玉のという言葉が語の真の意味で相応しい中短篇集である。

 

『複眼人』呉明益 小栗山智 訳

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海の上をぷかぷか浮きながら漂う島といえば、我々の世代は『ひょっこりひょうたん島』を思い出すが、時代が変われば、物事は変わるものだ。近頃では廃プラスチックが寄り集まってできたゴミが島となって漂う。「二〇〇六年ごろネットで、太平洋にゆっくりと漂流する巨大なゴミの渦が現れ、科学者にも解決の手立てがないという英文記事を読」んだのが、作家にこの小説を構想させたようだ。

複数の人物が登場し、それぞれの人生の物語を紡いでいるが、一人選ぶとするなら、台湾生まれの作家志望の女性アリスになるだろう。文学博士号を取得し、ひとり出かけたヨーロッパ旅行で、デンマーク人の探検家トムと出会い、トムはアリスを追って台湾にやってくる。二人は結婚し、ストックホルム市立図書館を建てた建築家アスプルンドの「夏の家」に想を得た「海辺の家」を海岸沿いに建てて暮らし始めたころ、思いがけずトトを授かる。

問題は、探検家というものはひとつところにじっとしてはいられないということだ。台湾のめぼしい山を登り終えると、トムはさらなる冒険を目指し、家に居つかなくなる。二人の間に距離が生まれ始める。そんなある日、山に出かけたまま、父と息子は二度と戻らなかった。トムの遺体は捜索隊のダフに発見されるが、トトは今に至るも見つかっていない。愛する者の喪失から立ち直れないアリスはすべてを放り出し、自殺を考えている。それが物語の発端である。

もう一人の主人公ともいえるアトレは、ワヨワヨ島という、南太平洋の小島に生まれた若者。水や土地、樹々といった資源に乏しい島では、島に残れるのは長男だけで、二番目に生まれた子は、時が来ると自作の船に乗り、食料と水が尽きればそこで終わり、という死出の旅に出る。ところが、気力、体力に恵まれたアトレは死を免れ、大海に漂うゴミの島に漂着してしまう。溜まり水を飲み、廃棄物から銛や釣り針を作り、生き物を捕えて生き続けた。

そんなとき、台湾を地震が襲う。「海辺の家」にいたアリスは、波間に浮かぶ板切れに乗った仔猫を助け上げる。皮肉なことに、自殺を考えていたアリスは、仔猫の命を助けたことがきっかけとなり、絡めとられていた死の罠から逃れることになる。近くでバーを営むハファイは、そうしたアリスの変貌に気づく。自ら好んで周囲から孤立した暮らしを続けるアリスだったが、その周りには、ハファイやダフといった、アリスを気遣う仲間がいた。

台湾に限らず、気候変動は世界的な問題になってきている。物語のヤマ場で、地震が台湾を襲う。その力がゴミの島を台湾に衝突させる。科学的に見れば、地震ということになるが、無文字文化の中で育ち、大古から伝わる神話と昔話の中で育ってきた若者にとっては、何か大きな力によって、知らない世界に放り出されたようなものだ。その中でアリスとアトレが運命的に出会う。言葉の通じない二人だったが、通じるものはあり、アリスは傷ついたアトレを看取る。

何か大きなものから死を拒まれた二人の新しい生が始まる。作家を目指すアリスは、世界を言葉や文字で理解しようとして生きてきた。アトレはちがう。彼にとっては目で見て、手で触れるものが世界であり、それは今、ここだけでなく大古から続く神が創り出した世界である。彼の知る唯一の世界であるワヨワヨ島は、他を顧みない人間の営為が神の怒りを呼び、罰として、限られた資源の中で限られた者しか生きられない世界であった。

生まれた世界が異なる二人が共に生きることで、少しずつ互いの世界を理解し合い、言葉を共有しあうようになる。アリスは、喪失の痛みに絡み取られていたそれまでの自分の生を見直すことができるようになる。そして、アトレを道案内にして、トトが遭難した登山ルートを自分の足で確かめるため、あれほど嫌いだった山に登ろうとする。物語とは言わば、何かをきっかけにした主人公の変容を語るものである。

これは煎じ詰めれば、最愛の者を失い、自らを失いかけていた主人公が、「まれびと」によって新しい生を得る物語だ。そして、再び動き始めたアリスを通して、読者はトムとトトの死の真相を知る。それは、小さな人間の生死を越えた、もっと大きく根源的な世界との出会いを教えてくれる。語られることは多く、その世界の射程は地球規模に大きい。捕鯨やアザラシ猟の持つ問題、地球環境の保全、といった数多の問題が複数の登場人物によって背負われて、物語の中で犇めき合う。

比較的、親日的な台湾だが、日本人にとって台湾の問題は他人事として眺めていられるものではない。本作の中で、重要な脇役を務めるハファイは阿美(アミ)族、トムの捜索活動を担うダフは布農(ブヌン)族という先住民。日本や漢人の支配によって苦杯を嘗めさせられてきた人々である。ハファイは人を癒し、ダフは山を知る。彼らには民族に伝わる、生きる力や知恵が備わっており、島を傷つける力に抗し、傷をいやすものとなっているようだ。

『歩道橋の魔術師』、『自転車泥棒』の作者、呉明益による、近未来を描くSF、ファンタジーとも読める、ストーリー・テラーの才を遺憾なく発揮した長篇小説である。多くを詰め込み過ぎているような気もするが、連続短篇小説のつもりで読めば、複数の人物が織りなす多彩な物語の饗宴を愉しむこともできる。日本語の朝の挨拶である「オハヨ」と名づけられた仔猫が、大きな美しい雌猫に育ったところで、物語は幕を閉じる。「激しい雨が今にもやって来る」とハファイの歌う、ディランの『Hard Rain』が時代を越えて、胸に迫る。