青玉楼主人日録

仮想の古書店「青玉楼」の店主が、日々の雑感や手に入った新刊、古書の感想をつづります。

『昏き目の暗殺者』マーガレット・アトウッド

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『昏き目の暗殺者』という表題は、作中に登場する二十五歳で夭折したローラ・チェイスの死後出版による小説のタイトルである。小説の中で売れない物書きの男が女にお話をせがまれて頭の中の小説を話して聞かせる。ウィアード・テイルズのような、扇情的な表紙のパルプ・マガジンに出てくる、目の見えない少年の暗殺者のことだ。その恋人は舌を切り取られてしゃべることができない少女。何やら暗示的ではないか。

所謂「入れ子構造」になっている。導入部に置かれた物語の中に、別の物語が入り込む形式のことだ。『千一夜物語』のような、といえば分かってもらえるだろう。ローラの書いた小説の中で、密会のたびに男が語る物語が勝手に羽根を広げ、想像の限りを尽くしてありえないディストピアを現出する。しかし、それらはすべて現実の世界を反映していることは必至で、読者はそれを手掛かりに謎を解いていかなければならない。

冒頭に関係者の死亡記事が引用されている。ローラ、その義兄、姪、叔母の死亡を告げる記事だ。高齢で死んだ叔母を除けば、三人は若死に、自殺を疑わせるようなところもある。これらの死の謎を解くというミステリ仕立ての小説でもある。小説の語り手をつとめるのはローラの姉のアイリス。今は亡き大工場主リチャード・グリフェンの未亡人。関係者のほとんどが他界した今、故郷で一人暮らしをする八十代の老女である

アイリスにはインドに行ってから消息が絶えたサブリナという孫がいる。たった一人の跡継ぎに、我が家の歴史を物語るという体裁で、震える手で黒いボールペンを手にして書き綴られたのがこの文章ということになる。しかし「あなた」と呼びかけられる相手は常に孫とは限らない。昔、頼りにしてた家政婦のリーニーの娘マイエラに変わることもある。もしかしたら読者ということもある。死後、誰がこの文書を読むのかは死者に分かるはずがない。

老いさらばえた「わたし」だが、文面を読む限り、したたかな意地悪婆だ。シニカルかつ辛辣。マイエラの夫で大工仕事や運転手役を務めるウォルターには心許しているふしがあるが、それ以外の周囲の人々を見る目はかなり手厳しい。記述はユーモラスなのだが、毒がある。それも半端ではない大量の毒を撒き散らすのだ。これを共感して読むにはかなりの努力がいる。語り手にも主たる登場人物にも共感できそうにないからだ。作者がリーニーとウォルターを創造しておいてくれたのが僅かな救いだ。

小さい頃に母を亡くし、戦争から帰った父は心身に傷を負い、一人塔屋の小部屋で酒浸り。リーニーという家政婦が何くれと世話を焼いてくれるものの、三つ下の妹は、言われた言葉を字義通りに受け止めてしまう「変わった子」で、両親から面倒を見るように頼まれた「わたし」には荷が勝ちすぎた。しかし、祖父が創設した釦工場がうまく運営されていた少女時代は、まだまだ幸せな時代といえるだろう。

問題は工場が経営難に陥ってからだ。父が頼ったのは競争相手であるリチャード・グリフェンという大工場主。働き盛りの独身男に十八歳になったアイリスを人身御供として差し出すことで経営を支援してもらう約束だった。ところが、二人が豪華客船で新婚旅行に出ている間に、工場は奪われ、失意の父は死んでしまう。親を亡くした十四歳のローラは、一人で自活もならず、リチャードの家に引き取られることになる。

このリチャードという男が悪党で、その妹のウィニフレッドが兄に輪をかけた食わせ物。アイリスが世間知らずなのをいいことに、妻宛ての電報や手紙を勝手に破棄し、本当のことを知らせない。だから、父の死に目にも会えず、妹が精神病院に運ばれても会わせてももらえない。姉が妹に再会するのは、リーニーの手配で救出された後である。共感できないというのは、こういうところで、いくらなんでもそこまで夫の言いなりになっていられるものだろうか。実の妹ではないか。

これは「信頼できない語り手」という手法ではないだろうか。人は誰しも自分をよく見せかけようとしてうわべを取り繕う。夫と年上の義妹を徹底的に悪者に仕立て上げ、妹に対して冷淡であった自分の過去から目を背けているのではないか。もしかしたら、世間知らずで人を見抜く力のなかったアイリスには、見ていても見えなかったのかもしれないが。

小説の中では「わたし」が昔とはすっかり様変わりした今の町を悪態をつきつつ彷徨する様子が辛口エッセイ風の文体で紡がれ、そこから過去の「わたし」の回想視点に移行するのだが、その中に時折、現在の「わたし」の視点が挿入されることで、過去は批判的に解釈され、懐疑的な思案が混じり込む。回想視点の「わたし」が「信頼できない語り手」であることを、今の「わたし」が読者にそっと目配せしているのだろう。

それでは真実はどこに書かれているのか。無論、挿入されている二重の入れ子状の物語の中にである。『昏き目の暗殺者』は誰かに追われる男と、夫のある身で密会を続ける女の逢引きをハードボイルド・タッチで描いた小説。男はその昔、姉妹の前に現れた共産主義者の流れ者、アレックスのその後の姿を彷彿させる。工場への放火犯と疑われた時に逃亡を助けたくらい、姉妹はアレックスのことが好きだった。

女にせがまれて男が語る構想中の小説のあらすじが、トカゲ男が登場する異世界ファンタジーで、豊富なアイデアが惜しげもなくばら撒かれている。ファンタジー好きの読者なら涎を垂らすところだ。異次元世界という設定だが、その背後に、二つの大戦、世界恐慌共産主義の躍進、ヒトラーの擡頭、といった当時の世相に対する批判、不安、否定、それと同時に暗殺、大量殺戮、クーデターといったものに対する暗い愛着もまた透けて見えている。

零落した元資産家令嬢が書き遺した一家の年代記と読むもよし、家族の隠された秘密を暴く暴露小説と見るもよし。贖罪の書とも、ゴシック・ロマンスとハメット風ハードボイルド小説、異世界ファンタジーがまちがって一冊に閉じられた乱丁小説とも読める。これ一冊の中にこの世界にありとある物語、詩、小説を封じ込めてやろうという作家の執念を見る思いがする。マーガレット・アトウッド渾身の一冊。

原題は<The Blind Assassin>。普通なら「盲目の暗殺者」だろう。<blind>に「昏い目」という訳をあてているところが、なかなか意味深だ。「黄昏」に使われているように、「昏」には「日が暮れてくらい」という意味がある。それと同時に「昏迷」のように「物の道理が分からない」という意味でも使われる。見る目さえあれば見える程度にはまだ光が残っている状態が「昏い」のであり、見えていても、それが分からないことを「昏い」というのだ。手練れの翻訳家、鴻巣友季子ならではの名訳。

 

 

『戦下の淡き光』マイケル・オンダーチェ

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大空襲の傷痕が残る第二次世界大戦直後のロンドンを舞台に、秘密を背負った人々の、誰にも知られず、勝利しても栄誉を与えられない非情な闘いを描く。二部構成で、第一部は十四歳の少年の視点で終戦直後の無秩序で無軌道な裏世界での活躍を描いている。第二部は二十八歳になった同じ人物の視点で、回想形式で時代を遡り、主人公の母の幼い時から今に至る暮らしとその人となりを想像をまじえて描いている。

「一九四五年、うちの両親は、犯罪者かもしれない男ふたりの手に僕らをゆだねて姿を消した」というのが書き出しだ。十六歳の姉と十四歳の弟を置いて、両親が仕事で海外に出かけてしまう。ところが、出発したはずの母のトランクが地下室で見つかる。母は本当はどこに行ったのか。二人の後見役を務めるのは「蛾」というあだ名を持つ間借り人のウォルター。もう一人が、川の北側で最高のウェルター級選手だったこともある「ピムリコの矢魚(ダーター)」という、どう見ても堅気には見えない胡散臭い人物。

それ以外にも得体のしれない人物が、主のいない家に夜半に集まっては話し込む。養蜂家や民族誌学者が一体この家に何の用があってやってくるのか訳がわからない。「僕」は彼らが犯罪者かもしれないと考える。だが、そのうちに「僕」は学校もそっちのけで「蛾」の仕事場であるピカデリー・サーカスの<クライテリオン・バンケット・ホール>で、洗濯係やエレベーター・ボーイ、そして皿洗いとして働きはじめる。両親の留守をいいことに、早くも大人の階段を上りはじめるわけだ。

挙句は、ダーターの仕事を手伝うまでになる。夜中にムール貝漁船を運転して運河や川筋をたどり、ドッグ・レースに使うグレイ・ハウンドや、中身の分からない荷物を密かに運ぶ仕事だ。監視船が来るとシートの下に犬を隠して静かにさせるのだから立派に犯罪の片棒を担いでいる。犬の血統書の偽造にまで手を貸すようになれば一人前のワルだ。バイト先で知り合ったアグネスとは、何度となく空き家で愛し合うようになる。

しかし、そんな生活は「蛾」の死とともに終止符を打つ。ある夜、姉弟が何者かに襲われ、二人を守ろうとして殺されたのだ。姉弟は家の客の一人に助けられる。我が子を危険な目にあわせたことで母は仲間と縁を切り、サフォーク州にある我が家へ引きこもる。親代わりを務めてくれた「蛾」を死なせた母を赦せない姉は一人で寄宿学校に入り、「僕」は母と二人きりで暮らし始める。ガーターともアグネスともそれっきりになる。

第二部、二十八歳の「僕」は、戦争中の資料を精査する文書係として情報部に勤務している。自らの意志ではない。外務省で働かないか、と声をかけられたのだ。そこで情報部に残された母に関するわずかな資料を調べ、母がなぜ我が子を残して家を出たのか、という謎を解こうとする。この時すでに母は亡くなっている。わずかな遺品の中にあった写真の人物は、葬儀の日「僕」に「お母さんは大した女性だった」と声をかけた人だ。一体誰なのか。

男の名はマーシュ・フェロン。屋根ふき職人の家の末っ子で、十六歳のとき祖父の家の屋根から落ちて骨を折る。動かすことができず祖父の家でしばらく暮らす間、八歳の母に出会う。やがて生来のナチュラリストであった少年は海軍提督だった祖父の支援を受け、カレッジに進むようになる。トリニティの煉瓦壁を登山に見立て、夜ごと登るうちに、一人の女性に発見され、ドイツ軍の侵攻を見張る要員にスカウトされる。

イギリス情報部に入るのは試験より縁故、本人をよく知る者の推薦であることが多い。家系や血筋、オックスブリッジ出身者であることはその資格の一つ。つまり糸は常に張られていて誰がひっかかるか目を光らせているわけだ。そして、候補者を見つけたらあとは教育する。その過程で合格、不合格がおのずと明らかになる。例えば、目的のためなら手段は選ばないとか、非情に徹することができるか、とかスパイに必要な資質が吟味される。

小さい頃、母はフェロンから色々なことを教えられて育った。その中には銃の扱いまであった。母はいい生徒だった。フェロンは結婚し娘を生んでいたローズに、子どもを守るために何をしなければならないかを教える。やがて母は無線の傍受の能力を買われ、敵の無線を聴き取り、味方に送信する仕事に就く。それを皮切りにフェロンとともに、ヨーロッパ各地に飛んで、暗号名ヴァイオラとして活躍するようになる。

フェロンは言う。「僕らのような仕事をしていると、政治的暴力から生き残った者が復讐の責任を担い、ときにはそれが次の世代に受け継がれているケースに出くわすことが少なくない」と。「僕」が襲われることになったのがまさにそれだ。戦争は終わったといえ、小規模な戦闘は各地に残っていた。母が送り込まれたのもそんな国のひとつだった。パルチザンを支援した行動が多くの民の命を奪うことになった。英国の英雄ヴァイオラはその地では悪魔の使者だったのだ。

もう一つ。「心得ておくべきなのは、戦闘地帯への入り方だけでなく、どうやってそこから抜け出すかだ。戦争は終わることがない。決して過去に留まらない。『セビリアで傷を負い、コルドバで死す』(ガルシア・ロルカの詩の一節)、それが大事な教訓なんだ」。戦争はどこまでも追いかけてくる。サフォーク州に引っ込んでからも、母は常に警戒を緩めることはなかった。その日がくるまでは。

一枚の紙にも表と裏がある。ひっくり返してみなければ裏に何が隠されているか、分かりはしない。第一部のあの奇妙な連中が誰で、何のためにあの家に集まってきていたのかが第二部を読むにつれて見えてくる仕掛けだ。彼らは親代わりとなって二人を守り、育てていたわけだ。しかし、それだけではない。あの自由を満喫し、いっぱしのワルを気取っていた少年を、沈鬱で孤独な世界に閉じこもる大人に変えている。あの「蛾」や、ダーターと過ごした日々は「僕」にとっての教育期間だったのだ。

紙の表面に書かれたことだけを読んで生きる者は幸せだ。しかし、裏面を読んでしまった者はそうはいかない。人から距離を置くことを覚える。下手にその中に入り込んでしまうと、きっと誰かを傷つけずにはいられないからだ。子どもたちを守るために母のやったことは、向こうの母から子を奪ってしまう罪深い所業でもあった。物事は表面だけで終わらない。裏の面を見た「僕」には、物事をそのまま受け取ることはできそうにない。

犯罪に手を染めていたダーターが青いモーリスを走らせていた道筋は戦時中、工場で作られたニトログリセリンを危険を冒して運ぶ道筋であったことを今の僕は知っている。記録に残されることはないが、彼らは知られざる英雄だったのだ。それに引き換え、故国の英雄とたたえられるヴァイオラは、その活動のせいで多くの無辜の人民を死に追いやっている。一つの戦争に関してもまったく別の一面が見えてくる。この二重の視点がうまく生かされ、小説世界は重層性を増す。

ひとつ気になったのが「ダーター」のことだ。<darter>というのは「突進するもの、ヒト」のこと。魚なら「矢魚」、鳥なら「ヘビウ」のことだ。「ダーター」だけでは何のことやら分からないから「矢魚(ダーター)」とルビを振ったのだろう。「ピムリコのダーター」がボクサーのあだ名なら、長身の「ダーター」は、長い首を水中に突っこんで魚をとらえるのが得意の「ヘビウ(蛇鵜)」の方がぴったりなのではないだろうか。

小説の最後で「僕」は探し当てたダーターと再会する。しかし、その再会は苦いものとなる。かつてあれほど「僕」の目に輝いて見えたダーターは、今や完全に別人になっていた。妻子持ちとなったダーターの変貌ぶりに気落ちした「僕」が、最後に目にしたものがそれまでの安定した世界をひっくり返しそうになる。どんでん返しが待っていた。『イギリス人の患者』のマイケル・オンダーチェの最新作。目に浮かぶ光景がすべて映画のように思えてくる。いつか映画化されないものだろうか。

 

『メインテーマは殺人』アンソニー・ホロヴィッツ

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斬新な手法で読者をあっと言わせた『カササギ殺人事件』のアンソニーホロヴィッツが、今度は正攻法で読者に挑む、フェアな叙述による謎解き本格探偵小説。しかし、そこはホロヴィッツ。大胆な仕掛けがある。なんとホロヴィッツ自身がワトソン役となって作中に登場し、ホームズ役の探偵とともに事件を捜査し、身の危険を冒しつつ解決に導くというから愉快ではないか。

ホームズ役をつとめるのは元ロンドン警視庁の腕利き刑事ダニエル・ホーソーン。過去に問題を起こして免職となったが、その腕を惜しむ元上司がいて、難事件となるとお呼びがかかる。警察の顧問(コンサルタント)として独自に捜査を行うというからまさにホームズそのもの。ただし、このホーソーン、口は悪いし、人付き合いも悪い。仲間内では鼻つまみ者で、妻とも離婚し、今は一人暮らしという、いささか剣呑な人格の持ち主だ。

ホロヴィッツとの接点は『インジャスティス』というテレビ番組の脚本を担当した時、ホーソーンが警察のやり方を教える係として一緒に行動したことがある。そのときも、頑固で自分の意見に固執する融通の利かないやり方に閉口したホロヴィッツは、二度と組みたくないと思っていた相手。ところが、ある日、そのホーソーンから一度会って話がしたいと電話がかかってくる。その話というのが、今自分が関わっている事件が面白い。本にしないか、というものだった。

しばらく会っていなかったはずなのに、会うやいなやホーソーンは作家の近況をすべて知っている口ぶり。不思議がる作家にホーソンがその推理を語って聞かせる。靴に砂が付着しているから別荘から帰ってきたばかり。ジーンズに犬の足跡がついているから犬を飼った。たぶんその犬は仔犬だ。靴ひもを噛んだ跡がある。と語り口がそのままホームズだ。はじめは断るつもりだった「わたし」も、ついつい話に乗せられて相棒役をつとめることになる。

事件というのが、資産家の老婦人が自分の葬儀の契約のために葬儀社を訪問したその日の午後に殺される、という偶然にしては話がうますぎる事件。しかも、被害者の息子はハリウッドの人気俳優ときては話題性に事欠かない。しかし、夫人はその人柄ゆえ誰にも好かれていて殺される理由が見つからない。警察は物盗りの犯行とみるが、ホーソンの見るところ、これは泥沼案件。そうこうするうち、葬儀のためにアメリカから帰国した息子が殺される。母子二人が殺される理由は何か、という「ホワイダニット」のミステリ。

実は十年前、夫人は眼鏡をかけるのを忘れて車を運転し、二人の少年をはねている。一人は死亡、もう一人は助かったものの脳に損傷を受けて障碍が残った。夫人は逮捕されたが裁判の結果無罪となった過去がある。殺される前、母が息子に送ったメールに「損傷(レスレイテッド)の子に会った、怖い」という文面が残っていたことと、脅迫状ともとれる手紙が残されていたことから、その子、もしくは親の犯行ではないか、と「わたし」は考える。

本格探偵小説もいろいろあるが、ホロヴィッツアガサ・クリスティがお好きなようだ。個人的にはクリスティは、好みではない。しかし、今回ホロヴィッツはフェアな叙述を心がけていて好印象。ただ、ホームズ物の新作を依頼されるほどの作家のはずなのに、実際の捜査に不慣れなためか、大事なところでホーソーンの注意をそらせたり、ミスディレクションを誘ったりする。これが効果的に用いられていて、容易に謎を解かせてくれない。

面白い設定で、まず小説の第一章が置かれているのは当然のことながら、第二章は作家、脚本家としてのホロヴィッツの仕事について触れている。コナン・ドイル財団に依頼されて、ホームズの登場する探偵小説の新作『絹の家』を書きあげたばかりで、テレビ・ドラマ『刑事フォイル』の脚本の仕事も終わったところ、というのは事実。次の仕事にかかろうとしていた矢先、ホーソーンが現れた、というところから虚構となる。第一章は、その新作の初稿ということだ。

「わたし」の仕事は、ワトソン役となってホーソーンに付き添って、現場に足を運び、目撃者や容疑者の話を聞き、メモを取り、事件解決後はそれを本に書いて出版するということだ。もちろん、読者が今手にしている本がその完成作、という設定。どこまでが本当でどこまでが虚構なのか、何やら番宣めいた、スピルバーグピーター・ジャクソンと映画『タンタンの冒険』の続編を撮るという話まで出てくるが、どうやら本当にあった話らしく、驚いた。

もちろん事件は虚構なのだが、その中に作家自身が関係する事実が混じるので事件がさも同じ頃に起きていたような錯覚が生じる。『カササギ殺人事件』でも、作中作が事件と絡み合っていたが、ホロヴィッツという作家は、こうした仕掛けがお気に入りのようだ。しかし、今回はホーソーンから、見たこと、聞いたこと以外は書いてはいけない、という縛りがかけられているので、読者は探偵たちとフェアな戦いができることは約束されている。

現実に、手がかりは目立つように書かれている。ホーソーンが意味ありげに呟いてみせるのもヒントになる。ただし、頭のどこかには残るものの、最重要な手がかりが登場してくるまで、犯人を絞り込むことができない。前作でアナグラムを使用しているホロヴィッツのことだ。メールに残る「損傷(レスレイテッド)の子」というのが鍵なのだが<lacerated>で合っているだろうか。いつも思うことだが、こういう箇所は原文を記すくらいの配慮が欲しい。勘のいい読者なら、それで分かるかもしれないのだ。

チェーン・スモーカーの探偵、ホーソーンという人物がよく描けている。個人的な話や世間並みの挨拶は一切抜き。一度口を閉じたら二度と開かない。ポリティカル・コレクトネスなど知ったことか。いつも単独で勝手な捜査をするため相棒がいない。裡に秘めた暴力性や同性愛者や小児性愛者に見せる憎悪、子どもに寄せるシンパシーからは、過去に何かある人物であることは伝わってくる。本人が考えた『ホーソーン登場』という題名からして、シリーズ物の第一作と考えられる。謎につつまれた探偵については、おいおい明らかになることだろう。次回作が楽しみなシリーズ物の誕生である。

『タタール人の砂漠』ディーノ・ブッツァーティ

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長い間、小競り合いと呼べるほどの戦闘すらなかった隣国と境を接する辺境の砦に新任の将校が赴任する。時を同じくし、今まで微妙な均衡の上に成り立っていた両国間の戦争と平和のバランスにかすかな亀裂が生じ、それがやがて運命的な悲劇を招き寄せることになる。ほぼ同じ頃に書かれた『タタール人の砂漠』は、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』に酷似する。

任地に先輩将校がいて、次第に気心が通じあう仲になってゆく点もよく似ている。『シルトの岸辺』が海、『タタール人の砂漠』が山を舞台にしている点が異なるが、事実上の戦闘行為というもののない軍事拠点で平穏な日々を費やす軍人たちの心境というものにはかなりの共通点が見いだせる。軍人として最も敵に近い位置にいながら、戦えない。それは大いなるディレンマといえる。

話を『タタール人の砂漠』に戻そう。舞台はどこともはっきりしない荒涼とした山岳地帯。大砲はあるが移動手段は馬や馬車、無線通信もない時代の話だ。主人公はジョヴァンニ・ドローゴという中尉。士官学校を出て初めての赴任先がバスティアーニ砦。北の王国に面した砦として、かつてそこに行くことは軍人としての名誉だったこともあるが、今では重要視されておらず、最近では昇進を望む若い将校の腰掛けにされている始末だ。しかし、中には長年月を砦で過ごす者もいて、砦に向かうドローゴが最初に出会ったオルティス大尉もその一人だった。

若い軍人の常として、戦功をあげ、昇進を夢見るドローゴは、砦に大した価値観を持たない大尉の話を聞くうちに、急速に砦での勤務に嫌気が差す。すぐにでも帰任しようと上官に願い出るもののうまく丸め込まれ、通例の四年間勤務を続けることになる。同じ年ごろの将校仲間も多く、馬を飛ばして近くの町で羽を伸ばす楽しみも見つけると、勤務自体は楽なものなので、砦の暮らしにも馴れ、悪いところでもないような気がしてくる。何しろ、期限が切られているので、それまでの我慢なのだ。

しかし、十年、二十年と居続ける者は、砦に何を期待しているのだろうか。両側を深い絶壁に遮られ、南には深い谷、北には絶壁と絶壁の間に三角形の土地が見える。砂礫が広がるばかりのそこが「タタール人の砂漠」といわれるところ。かつてタタール人が攻め入って来たという伝説が残る。その手前に国境線が横たわっており、バスティアーニ砦に勤務するということは、真っ先に敵と戦う栄誉を担っていることを意味する。

上は司令官から、下は仕立屋として働く兵曹長まで、いつかきっとタタール人の砂漠に敵が現れることを今か今かと待ち続けて今に至ったのだ。居続ける理由の一つに男所帯の気楽さがある。砦の料理は美味で、視察と称してわざわざ食べに来る将校もいるほど。新しい服が欲しければ腕のいい仕立て職人もいる。生活のこまごました世話は気の利く従卒がやってくれる。山岳地帯の自然は厳しいものの雪解けの季節のうれしさは格別である。長くいるうちに、不都合なことににも馴れ、何もない砦の暮らしに居心地の良ささえ感じるようになる。

いわば、これが罠なのだ。いつかやってくる敵の襲来を待つという大義名分を自分でも信じているふりをして、砦という閉鎖的な社会に閉じこもるうちに、一般的な社会との接点を失ってしまう。砦での暮らしは竜宮城にいるようなもの。帰ってみれば今浦島。四年が経過し、一時帰郷したドローゴは、自分と無縁の世界に住む友人に親しみを覚えられず、婚約者のマリアとの間にも壁を感じる。最愛の母さえもかつてのように自分を愛していないことを知り、砦に帰ることを選ぶ。

軍隊という世界は普通の場所ではない。人と人の通常の約束事の上に規律があり、それが支配する。そのために死ななくてもいい人間が死ぬこともある。また、様々な価値観や気質を持つ男たちが閉鎖的な空間に起居するため、相容れぬ気質を持つ者の間には確執が起きる。ふだんは何とかやり過ごしていても、一朝ことあるときにはそれが火種となり、命のやり取りさえ起きる。気楽そうに見える砦の生活にものっぴきならない事情のあることも作者はしっかり書き添えている。

要領のいい将校は四年で砦を去って下界に戻り、妻や子のある普通の暮らしを営む。それでは、砦の生活を選んだ者に何が残されているかといえば、敵の来襲以外何があろうか。目を皿のようにしてタタール人の砂漠を見張る兵が、黒いものの動くのを見つける。ざわめきたつ砦。それが敵兵の隊列であることが分かり、いよいよその時が来たと砦中が沸き立っている最中、竜騎兵が一通の書類を携えてやってくる。隣国の兵は、国境線の確定のためにやってくる武器を携行しない測量隊に過ぎないことが判明する。

期待と遅延、ようやく訪れたと思えた好機は一瞬にして潰える。これが狼が来たと呼ばわる少年の例となり、タタール人の砂漠に人影を見たり、夜半に灯りがちらつくのを見たと訴える将校に対し、軍は不必要に不安を煽るものとして、警告を与え、望遠鏡の使用を禁じる愚挙に出る。敵が道を作っているのだという同僚の意見を信じていたドローゴは、それ以降、確認する手段を失ってしまう。

博打で負け続けた客が起死回生の逆転劇を待つように砦に居続ける者たちの前に、今度こそ本当に敵が責めてくるという事態が勃発する。しかし、そのとき年老いたドローゴは肝臓の病でベッドから起きることもままならない。何というアイロニー。しかし、突然やってきたわけではない。事態がこのように進むことを話者は小出しに知らせてくれている。伏線を張り、幻想的な夢で仄めかしている。それを読者は知っているが、主人公は知らない。

第二次世界大戦前に書かれたこの小説が発表されたのは敗戦後のイタリア。当時はネオ・リアリスモが主流で、日の目を見なかったという。しかし、今読んでも心惹かれるものがある。いいものは時を選ばない。人は何かを待ちわび、待ち続け、報いられることもなく一生を終える。その事実に何の変りがあることか。俗世間での栄達や気散じが大事なら、そう生きるのもいいだろう。しかし、何かできるかもしれないという期待に一生を捧げる人生を選んだとして、仮に報いられることがなかろうと、誰がそれを笑えるだろうか。いつまでも読み継がれる物語だろう。

『セロトニン』ミシェル・ウエルベック

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私事ながら、読書を除けば趣味というものがない。昔はいろんなことに手を出したが、今は何もする気になれない。猫と暮らすようになってからは、あまり外へも出かけなくなった。仕事以外に人とのつきあいがなく、退職後は年に二度、夏と冬に学生時代の友人と会食するだけだ。まず、家族以外の人と話をすることがない。退職前によく人から「趣味を持て」と言われたが、このことを言っていたのだな、と今になって思い当たる。

妻は本気で「ひきこもり」を疑っているふしがある。しかし、人と話をしなくても別段不満はないし、お決まりのコースを半時間も歩けば、自然の変化に目はとまるし、運動不足の解消にもなる。家に帰れば猫が待っている。人との不必要な摩擦のない生活は、自分にとっては申し分のない生活なのだ。人生も残すところあと少しになった老人は笑ってそういってもいられるが、先の長い人間にとってはどうだろう。

セロトニン』は「ひきこもり」を扱っている。禁煙運動や環境問題、グローバル化した経済など、行き過ぎた社会規範や国家間の約束が、かつては自由にやっていた個人的な営為や習慣をことごとく縛り、そのことに敏感な人間を追いつめている。行き場をなくした「個人主義者」は反抗するが、時代の波には勝てず、自殺するか、ひきこもりか、いずれにせよ敗者となる。ウエルベックの主張は極端なようにも見えるが、世界から寛容さが失われつつあることは事実で、一面の真実をついている。

一人の男が自分の人生を振り返りながら、希望を見いだせないまま袋小路に追い詰められてゆく。人生が下り坂にあることを意識した男は、我知らず残りの人生を食いつめてゆく。あのミシェル・ウエルベックにしては、ペシミスティック過ぎる気がするが、陰鬱なユーモアをまぶしたアイロニカルな批評性といい、セックスと食事に対する過剰なこだわりといい、殊更に人種差別的な言辞を弄するところなど、所々に「らしさ」を見ることができる。フムスとやらを食べてみたくなった。

主人公は四十六歳になるフランス人男性。ブルジョワ階級で、環境団体がやり玉に挙げることで有名なモンサント勤務を経て、農業食糧省の契約社員となる。フランス産の農産物の輸出拡大や、外国から安い関税で入ってくる農産物から自国産のそれをどう守るか、という面でわずかではあるが貢献していた。しかし、EUという枠組みの中にあってフランスの農業は圧倒的に不利であり、彼は負け戦の連鎖に戦意を喪失しつつあった。

物語は、スペインの避暑地から始まる。ヴァカンスの最中で、パリからやってくる同棲相手の日本人女性ユズを待っているところだ。皮肉なことに彼はユズが来るのを怖れている。このユズというのが詳しく書く気になれないほどのビッチ。縁を切りたい主人公は、テレビで見た番組にヒントを得て、自分の借りているタワーマンションにユズを残し、自分は蒸発を決め込む。仕事もやめ、どこかに居場所を探してひきこもって暮らし始める。

彼には父の遺産があり、退職しても当座の暮らしには困らない。問題は煙草を吸うことができるホテルが激減していたことだ。どうにか探し当ててそこに暮らし始めてからが本編となる。正直なところ、出だしのユズのイメージがひどすぎて、共感がしづらいのだが、小説の常として、細部は小出しにされる仕組みになっている。話が進むにつれ、このいけ好かないスノッブにも共感できるところが出てくる。ウエルベックの語りの巧さがそうさせるのかもしれない。救いのない話なのに本を置く気になれない。

表題の「セロトニン」とは「脳内の神経伝達物質の一つで精神を安定させる働きがあるとされ」る。 このため、セロトニンが不足すると精神のバランスが崩れ、暴力的になったり、うつ病を発症する原因となることもあるという。主人公も医者の診立てによれば「悲しみで死にかけてる」。実はかなり重篤で、風呂はおろか、シャワーも浴びたくないほど。抗うつ剤の副作用で、性欲がなく、不能になりかけている。そうなったらなったで彼が考えるのは自分のせいで別れた恋人のことばかり。これはちょっと悲惨だ。

自分の四十六歳当時を思い出した。仕事も人間関係も発展途上にあり、バリバリやっていた。時代も今とちがって前向きであったし、国にも勢いがあった。ひるがえって今はどうだ。自国の凋落は目を覆いたくなる惨状。世界に目をやっても、悲惨な有様だ。戦争は止む気配はないし、指導者の質はがた落ちしている。ポジティブになれなくても無理はない。個人は自分一人で生きているわけではない。いやでも社会の中で生きるしかない。主人公を追い詰めるのは個人的な問題だけではないことをウェルベックは書いている。

最初から何もかもがあまりに明白だった。でもぼくたちはそのことを考慮に入れなかったのだ。個人の自由という幻想に身を任せてしまったのだろうか、開かれた生、無限の可能性に? それもあり得る、そういった考えは時代の精神だったからだ。ぼくたちはそうはっきりと言葉に出しては言わなかったと思う、関心がなかったのだ。ただそれに従い、そういった考えに身を滅ぼされるのに任せ、そのあと、長い間、それに苦しむことになったのだ。

はじめはおつきあいを遠慮したくなる主人公だったが、結末に至るといとおしく思えてくる。そう思い始めたところで小説は終わる。この世には、取り返しのつかないことがあり、それは失ってみて初めて気がつくのだ、という真理が痛いほど胸に迫る。読みおえたあと寂寥感が心に残る。主人公の変容の鮮やかさという点において、他の作品を凌駕している。ひょっとしたら代表作になるかもしれない。

『わたしのいるところ』ジュンパ・ラヒリ

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わたしたちが通りすぎるだけでない場所などあるだろうか? まごついて、迷って、戸惑って、混乱して、孤立して、うろたえて、途方にくれて、自分を見失って、無一文で、呆然として(傍点四七字)。これらのよく似た表現のなかに、わたしは自分の居場所を見つける。さあ、これがおまえの住まいだ。この言葉がわたしを世界に送り出す。

原題は<Dove mi trovo>。直訳すれば「私はどこにいますか」。四十六篇の掌編小説で構成された連作短篇小説のように思えるが、これはジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いた最初の長篇小説である。四十六もある各章のタイトルが「歩道で」「道で」「仕事場で」というふうに、表題に対する応答になっている。

「わたし」は四十代後半の女性。ローマと思しきイタリアの街に独りで暮らす。仕事は大学教師。父とは早くに死に別れ、母は地方の町でやはり一人暮らしをしている。神経質であることは自認している。出不精で観劇という唯一の趣味の他には金を使いたがらなかった父、とそれに不満を感じながらも我慢をし、その分娘に対して厳しくあたった母の影響で、「わたし」という人物が作られた。「わたし」は他者に対して、そう易々と胸襟を開けない。

しかし、心の中では周囲の人々や自分の暮らす街について思うところはある。というか厳しい批評眼を駆使し、気のついたことを日々手近にあるノートや紙にメモを残している。この本は、バールやトラットリアその他「わたし」が立ち寄る先で目にする人々の印象のスケッチであり、親しい友人のポートレートだ。気に入った若い人々や、気分のいい日の記録には心あたたまる言葉が並ぶが、好きになれない人々や気分がすぐれない日にはネガティブな感情や言葉があふれている。

『停電の夜に』をはじめ、英語で書かれた小説にはベンガル系移民という出自がついて回る感があったが、それら自分ではどうにもできないものから自由になるために、彼女はイタリア語で書くことを自ら選び取った。母語のことを<mother tongue>と呼ぶが、ラヒリにとっての英語は「継母」<stepmother>だったからだ。継母から自由になることで、小説の内容も変化することになった。舞台となる土地にも登場人物にも名前が与えられない。すべては抽象化し、より本質的なものにじかに触れるようになる。

そのエッセイ風なタッチは、堀江敏幸の小説を思わせると同時に、人との距離感や都市に対する愛着には『不安の書』において、フェルナンド・ぺソアが見せるリスボンという都市に寄せる愛着に似たものがある。血縁や顔見知りと始終顔を突き合わせていなければならない田舎とちがって、都市では気ままな独り暮らしが許される。人と顔をあわせたくなければ、自分の部屋に閉じこもることが許される。家族のいない独り者ならなおさらだ。

その一方で、一人暮らしの日々において、人がいつも相手をしなければならないのは孤独である。「わたし」は、親しい女友だちがつまらない夫や無神経な子どもに時間をとられていることを疎ましく感じている。それでいながら、自分の親しい友人と結婚した男と会った日には、もしかしたら、二人で暮らせたかもしれないなどと想像し、際どいところで距離を保ちながら、その出会いを楽しみにしてもいる。

「わたし」は生まれ育った土地に住んでいながら、ほとんど人と一緒に食事することがない。昼食はトラットリアで済ませ、夕食はツナ缶か何かをフォークで突っつくだけだ。たまに人に招かれると居合わせた客と言い合いになり、周囲の人々の顰蹙を買う。人と人とがいっしょに何かをしようとすれば、自分には無価値であっても、誰かにとっては大事な、無難でつまらないものが間に入ることも必要悪だが、「わたし」はそれに我慢できない。

孤独な「わたし」もかつては男と暮らしていたことがある。近くに住んでいて、たまに会うこともあるが、その切り捨て方は冷徹で、過去に愛したほとぼりのようなものを一切欠いている。とりとめもないような日常性に包まれているようなタイトルがつけられた章が並ぶ中に「精神分析医のところで」という章が現れる。ひやりとさせられる瞬間だ。特に何か病んでいるわけではないようだが、夢について話す場面は真に迫っていてかなり怖い。

子どもの頃の思い出に、適当な間隔を置いて木の切り株を並べた遊具を飛ぶ話が出てくる。小さかった「わたし」は、今いる切り株から次の切り株へと飛び出す勇気を持てないでいる。これがトラウマなのだろうか。今いる街を出て、新しい暮らしを試みるときが来ているのに、暮らし慣れた街や一人暮らしの気楽さを捨てる勇気が出ない。しかし、自分が煮詰まっていることは自分が一番よく知っている。お気に入りの文房具店も店を閉じ、スーツケース屋に変わってしまった。これは啓示なのか? 

それまで、およそ小説らしくない日常性の中に埋没しているように見えた「わたし」の前に自分そっくりの女性が現れる。ドッペルゲンガーだろうか? 「わたし」は、街角を颯爽と歩いて行くその女性の後をつけるが見失う。「そっくりさんの後ろ姿を見てわかることがある。わたしはわたしであってわたしではなく、ここを去ってずっとここに残る。突然の震動が木の枝を揺らし、葉っぱを震わすように、このフレーズがわたしの憂鬱を少しのあいだかき乱す」

ドッペルゲンガーを見た者は死ぬ、という説がある。たぶんこの街にいた「わたし」は、ここを去ることでなくなってしまう。しかし、生まれ育った土地を離れても、わたしはわたしだ。ここにいた「わたし」は、橋の上ですれちがう男友だちやパニーニ職人の記憶の中に留まって、この街に住み続けるのだろう。切り株と切り株の間の距離は思っていたより近かったのかもしれない。

 

『レス』アンドリュー・ショーン・グリア

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『レス』というのは主人公の名前である。最近では珍しくなったが、『デイヴィッド・コパフィールド』しかり、『トム・ジョウンズ』しかり、長篇小説の表題に主人公の名前をつけるのは常套手段だった。原題は<LESS>。これが「(量・程度が)より少ない」という意味を持っていることくらい、最近では小学生でもわかる。そういう名前の持ち主が主人公であり、それが表題や各章のタイトルになっているとしたら、初めから内容が想像できるというもの。

口の悪い評者がハリウッドの二流のロマコメのようだ、と評していたが、いいじゃないか。ロマコメは嫌いではない。スプラッターやホラーより、ずっと好きだ。でもこれはロマコメではない。男女間の恋愛は一切出てこない。というより主人公のアーサー・レスはゲイなのだ。ただし、コメディではある。行く先々でトラブルが待ち受けており、アーサーはバナナの皮に滑り、落とし穴に落ちる(いうまでもなくこれは比喩である)。読者は痛い目に遭うアーサーのしくじりを笑いながら、しだいに愛しはじめていることに気づく。

「行く先々」と書いたが、これは比喩ではない。本文中にもちらっと出てくるが、小説の中で主人公は世界を一周する。そう、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』のように。ただし、相棒のパスパルトゥを連れずに。それというのも、それまでパスパルトゥ役を受け持ってくれていた恋人のフレディが結婚式を挙げることになったから。勿論、喧嘩別れではないので式に招待されている。アーサーは式に出て、みんなに笑いものにされることをひどく怖れている。しかし、欠席しても陰口を叩かれるのは同じだ。

アーサーにはかつてピュリッツァー賞を受賞した詩人のロバートという年上の恋人がいた。マリアンという女性と結婚していた詩人を奪って長い間一緒に暮らした過去がある。その彼が若いフレディと暮らしていることをみんなが知っている。今度は、もうすぐ五十になる自分が捨てられた格好だ。式を欠席する口実を作るため、彼は放ったらかしてあった手紙の束を手にとり、スケジュールを組み上げた。世界各地で行われるコンテストや、講演、対談の依頼をかたっぱしから引きうけるのだ。言い忘れていたが、アーサー・レスは作家である。

処女作『カリュプソ』は、『オデュッセイア』の「カリュプソ」の視点からの語り直しだった。これは世界で訳書が出されるほど評判を呼んだ。ただし、最新作『スウィフト』は、出版社に留め置かれたままで出版のめどが立っていない。アーサーは長年の恋人と別れ、独りで五十歳の誕生日を迎えることに耐えられそうもない。そこで、旅に出ることにした。そうすれば、次々と立ち現れる新しい土地のできごとに気がまぎれ、フレディのことを考えずにすむだろうし、友人たちとサハラ砂漠ラクダで越えながら、誕生日を迎えられる。

一番目はサンフランシスコの自宅からニューヨークへ飛び、SF作家との対談。二番目はメキシコ・シティで開かれる学会に参加。三番目はトリノで最近イタリア語に訳された本に賞が与えられることになっている。四番目はベルリン自由大学の冬季講座で、好きなテーマで五週間の授業が待っている。五番目はモロッコマラケシュからサハラ砂漠を越えてフェズまでの旅。これは自費の旅行。六番目はインド。フレディの義理の父である旧友カーロスの提案でアラビア海を見下ろす丘にある隠遁所で小説を執筆する。最後が京都。懐石料理を食べて機内雑誌に記事を書く。東から飛び立ったアーサーは世界を一周して西から帰ってくることになる。

しかし、対談相手のSF作家は食中毒に苦しんでいるし、メキシコの学会は終始アーサーには理解できないスペイン語が使われている。トリノでは最終選考に残った作家たちの間で自身を喪失し、ベルリンでは自分のドイツ語のひどさを思い知らされる。ただし、悪いことばかりでもない。ベルリンの授業は若者たちに大うけだし、ヴィンセントという恋人もできる。サハラ砂漠ではお定まりの砂嵐に遭遇するが、自分の小説に足りなかった点を発見することもできる。インドでは、それを手掛かりに小説を書き直し始める。

主題は、アーサーがオーラのように身に纏うイノセント(無垢)である。よくある手法だが、語り手は知っているが主人公は知らない。アーノルド・ローベルの『お手紙』という絵本がある。かえるくんが親友のがまくんに手紙を書く。それをかたつむりくんに配達してもらうのだが。「まかせてくれよ」「すぐやるぜ」というが、勿論手紙はなかなか届かない。がまくんの家を訪ねたかえるくんはがまくんに書いた手紙を聞かせる。「いい手紙」を待つ二人の長い時間が愛おしい、というあの手法だ。

アーサーの小説は「仰々しく感傷的」と評されたり、自分がゲイであることを恥じている「駄目なゲイ」であることを書いている、とゲイの作家に言われたりする。そう言われるたびに傷つき、自信を無くすアーサーだが、彼の小説が好きだ、という人物は周りにたくさんいる。アーサーにそれが見えていないだけだ。五十歳が近づき、年取った独身者のゲイになることを心の底で怖れてもいる。しかも、それを隠そうともしない。人前にまっさらな自分を開けっ広げにできる人間などめったにいない。それも五十歳にもなって。

授業で取り上げられる作品がジョイスだったり、ウルフだったり、レイモンド・チャンドラーの言葉が引用されたり、とお気に入りの作家がチョイスされていることも嬉しい。ネタバレになるので詳しくは書けないが、手の込んだメタ小説でもある。「信頼できない語り手」という手法も取り入れて、予想される結末へと向かってじっくり迂回しながら歩を進めてゆく。伏線の回収のされ方も堂に入ったもので、失くしたものと手に入れるものの均衡すら美しい。コメディでピュリッツァー賞(文学部門)受賞というのも、なかなかないことらしい。人物や衣装、風景の美しさはまさに映画向き。チャーミングな小説である。